夢では人格が変わる | 今日も花曇り

今日も花曇り

読んだ本や考えたこと、仕事について。

私は夢をよく見ます。

夢について考えるとき、不思議だと思うことはいくつもあります。

その中のひとつに、夢の中では自分の人格が(少し)違うと感じることです。

もちろん、夢を見ているときにはわかりませんが、醒めてから振り返ると、そう感じることがあります。

 

例えば、たまに私は夢で、怒って人を大声で非難することがあります。

ただし、怒って罵倒しているというより、理屈を並べ立てて論破している感じです。

夢の中では完璧な論理で相手を論破しているつもりになっていますが、目が覚めて振り返ると大した理屈ではありません。

それでもまあ、夢の中でよくそんな理屈を組み立てられるものだと、少し感心し、あきれます。

 

起きているときには、私はこのような行動をとったことは、たぶん一度もありません。

私は大声を出すのもケンカも嫌いです。

 

こういう話をすると「ストレスがたまっているのでは」、「本当は誰かに怒りをぶつけたいのでは」とか言われることがあるのですが、自分の実感は少し違います。

怒りがたまっていて夢で爆発したのではなく、夢では、怒りを抑制する脳の機能が低下しているため、怒りが制限なしに表現されてしまった、という感じです。

 

同じようなことは「記憶」についても感じます。

私は夢で、死んだ父親や、高校時代の友人でたぶんもう一生会わない人に出会ったりするのですが、夢では不自然に感じません。

彼らはまだ生きていて、自分のそばにいると感じます。

これは、記憶というものは複合的で、起きているときには、生きているときの父親の記憶が、父親が死んだという新たな記憶と組み合わさって機能しているのに、眠っているときはなぜか「父親が死んだ」という記憶が働いていないために、不自然さなく父親が夢に登場するのだと思っています。

 

認知症などの脳機能障害により人格が変わってしまうことがありますが、これもたぶんそうした理由なのだろう、と思います。

 

こうして考えると、「私」という意識は、自分が漠然と感じているような一個のものではなく、以前に読んだガザニガの本にあったように、複数のモジュールが統合されて機能しているものなのだと実感します。

 

この問題を考えるといつも、自分というものの頼りなさに、途方に暮れてしまいます。