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今日も花曇り

読んだ本や考えたこと、仕事について。

図書館で偶然『ケヤキブンガク』という文芸誌を目にしました。

全く知らない雑誌だったのですが、小川洋子さんのロングインタビューが掲載されていて、読んでみたら大変いいインタビューで、心に残りました。

こんな言葉を知る機会を与えてくれる、図書館というのは本当にありがたい場所だと改めて思いました。

 

 

全部をそっくり引用したいくらいなのですが、それはできないので、心に残った部分を紹介します。

 

インタビュアーが小川さんの『夕暮れの給食室と雨のプール』とオウム事件に触れたのに対して

死刑は執行されましたけれど、彼らはね、きっと裁判で、言葉にできないものがいっぱいあったと思うんです。それを言葉にできないまま、彼らは死んでいったのですが、そこをすくい取るのが物語の力で、やはり調書に残る言葉だけでは、解明できないんですね。(中略)

オウム真理教の信者が言っていましたね。自分は悩みを抱えて、いろいろな宗教を渡り歩いた。でも教会へ行って人の話を聞いても、それが風景みたいに通り過ぎていったと。私はそれを聞いて、風景でいいんじゃないかと思ったんですよ。風景が通り過ぎて、その風景を見て、自分の心の中でね「ああ、そこに森がある」「川がある」と自分の心を映し出していけば、それが宗教なんじゃないかと思うのだけれど、それでは物足りなかったんでしょうね。もっと強い力でこっちへ来いって引っ張ってくれるものが必要だったんでしょう。本当にそれが気の毒だなと思いました。その風景の中に物語を見出せれば、オウム真理教に行かなくてすんだのだと思います。(29頁)

先日ちょうど、人はなぜフィクションを必要とするのかについて書いたところだったのですが、そのヒントにもなるお話でした。

 

小川さんの『密やかな結晶』が映画化されることの話題を前提に、老いることについて。

やはりだんだんこの年になってくると失うものが増えてくるわけですよね。それを「無くしたくない」とすがりつくと、余計に辛くなる。

以前、上皇后美智子様がおっしゃっていましたよね? 首が痛くなってピアノを弾くことが出来なくなったときに、 「ピアノを弾く喜びはお返ししました」と。

いろんなことができなくなる、頭の回転が遅くなるんだけれども、それはもう自然のなせる業なんだからジタバタするのではなくて、残っていくものを楽しみにする。

「ピアノを弾く喜びはお返ししました」・・・美智子上皇后はそんな素晴らしい言葉を使われる方だったのかと、初めて知らされました。

 

最後に、じゃあ自分がもし認知症になった時に何が残るんだろうかというと、それが自分が一生をかけてこしらえた「結晶」だと思うんです。

うちの父は、最後の方は認知症が進んで娘のことも分からなくなってしまったんですけれども、本を持って行って、「私が書いた新しい本よ」って言うと、「これ全部あなたが書いたんですか? こんなに書いたら死んでしまいますよ」って心配してくれたんです。

ああそうか、娘はわからなくなったけれども、心配する心が「結晶」として残っていて、ありがたいなと思いました。人生の最終盤にいる父から、心配する心の恩恵を受けることができる。認知症は社会問題ですけれども、ちゃんと恵みももたらしてくれるという経験をしました。(中略)

人は、その人の大事なものをもって、次の世界へ行くのではないでしょうか。誰でも大事なものは百も二百もあるわけじゃないので、ひとつの「結晶」を持って行くのだと思いたいですね。(以上、39頁)

この部分を読むとどうしても涙が出てしまうのですが・・・

 

私は幸い、認知症の親族を介護するつらさも、自分の認知能力が衰えていく苦しさも、まだ経験したことがありません。

でも遠くない将来、大変な現実に直面したとき、小川さんの言葉を思い出したいと思いました。

 

私が次の世界へ持って行ける結晶はどんなだろう。

結晶というのは時間をかけて作られるものなので、とうに人生折り返している私は今さらどうにもならないかもしれませんが、少しでも醜くないものにしたいと思いました。

 

前からの疑問のひとつに、

「人はなぜフィクションを必要とするのだろう?」

というものがあります。

 

実は、私は読書が好きなのに、小説が得意でないのです。

でも、SFやミステリ等は普通に楽しめる。

純文学の小説がどうも苦手らしいのです。

 

では「純文学の小説」とは何かと言われると困るのですが、私だけの定義をするなら、「人間に関する何らかの真実をフィクションで描いた文学作品」のように考えています。

 

すると、次に疑問が。

「人間に関する何らかの真実を描くというなら、わざわざフィクションではなく、事実そのものを描けば十分ではないか?」

 

事実がもつ衝撃や切実さと比べると、純文学の小説は、いかにも作り物めいて、取るに足らない卑小な出来事をぐだぐだと書いているものばかりではないか、と感じていたのです。

自分の読書体験としても、心に残る本は圧倒的に小説ではないものの方が多い。

 

ただ・・・

 

最近、やっと少し、フィクションであることの意味もわかってきた気がします。


理由はいくつかありますが、一番は、事実としてはっきり見ることは難しいけれど、人間にとって重要だったり大切だったりするものがやはりあることを、この歳になって痛感することが多くなったからだと思います。


それには、フィクションの方が適しているのかもしれない。


典型的には、人間の心の中の問題です。

人間の生き方や悩みは、全てが外側に現れるわけでもありません。

 

そういったものは、以前はまさに「取るに足らない卑小なもの」 と感じていたこともありました。

でも考えてみると、私たち凡人の一生はそうした取るに足らないものがほとんどであり、その小さなものが、結局は大問題なのです。


そう思うと、「結局、何が言いたいの?」のような読み方ではなく、知らない人の語りにゆっくり耳を傾けるように読めることが増えたように感じます。


ガンダムってアニメ、観たことありますか。

 

全く興味ない方も多いと思います。

それでも、さすがに誰でも名前を聞いたことくらいはあると思いますが、何せ放映開始(1979年)から今年で46年。

その後も無数の派生作品が作られ、最初に放映された、いわゆる「ファースト」なんて観たことない、という人が結構いるのかもしれません。

私も放映時にはまだ小さかったので観ていません。

 

 

映画『めぐりあい宇宙(そら)』は、放映された初代テレビシリーズを劇場3部作として編集し直した総集編の、最後の作品です。

そういうと、ただのツギハギ映画かと、興味をなくす人もいるかもしれません。

 

でも、曲がりなりにもかなりの数の映画を観てきた経験から自信をもって言い切りますが、この映画は奇跡です。

「なんでこんなものができてしまったのか?」というくらい。

生みの親の富野監督には申し訳ないですが、その後の監督の作品は、この『めぐりあい宇宙』には遠く及ばない気がします。

 

「しょせんロボットアニメ」と、この作品を観ないなんて本当にもったいない!

 

富野監督は1941年生まれ。

宮崎駿監督とは同年、高畑勲監督よりほんの少し下の世代です。

富野監督はよく「高畑、宮崎に勝ちたいと思ってやってきたが、ついに敵わなかった」と自虐ネタのように話しています。

でも『めぐりあい宇宙』は、方向は全く違いますが、高畑、宮崎両監督の最良の作品と同じく、世界のアニメ史に光り輝く作品だと思います。

アカデミー賞などとは無縁だとしても。

 

富野監督は何処かで「世界で俺より編集がうまい人間はいない」と豪語していましたが、この作品を観ると納得せざるを得ません。

この非常に複雑な話をわかりやすく、しかもすべてのカットが名場面という密度で編集されています。

本当にもう、神がかり的。

 

また、「戦い」を描いたアニメは無数にありますが(というか、なぜか戦いばかりなのですが・・・)、これほど、戦争の虚しさを実感させるものは観たことがありません。

 

物語の終盤で、主人公(アムロという青年)が属する連邦軍が、最後に敵陣の前線基地に総攻撃をかけるのですが、お互い消耗戦で、両軍たくさんの人が死んでいき、疲弊していきます。

主人公はガンダムという人型兵器を操縦するエースパイロットですが、どれほどのパイロットも、戦局ではただの一機でしかありません。その一機で戦争が終わるわけもない。

 

映画の最終盤、アムロとシャアという、戦争する両陣営のエースパイロットが、最後は双方の搭乗機が大破し、それを捨てて、銃で撃ち合い、剣で斬り合う白兵戦となるシーンがあります。

個人としてみれば、目の前にいる相手を殺す必要なんて何もないのに、お互い大切な人を戦争で殺され、今さら後戻りできないのが痛ましい。

 

アムロ側の連邦軍の一員であり、シャアの妹でもあるセイラという女性が駆けつけ「2人が戦う理由なんてないのよ!」と叫ぶのですが、観ている側も本当にそうだ、もうやめてくれと感じます。

 

この映画で一番すごいと思うのは、ララァという、敵側の女性兵士と戦闘する場面です。

戦いの中でアムロが図らずもララァ機を撃墜してしまうのですが、その一瞬、二人の精神が交流します。

その描写がとにかくもう・・・

波や光で象徴的に描かれるそのシーンは、井上大輔の挿入歌と相まって、一生忘れられない衝撃があります。

こんな前衛的な表現を、当時は子供向けとされていたロボットアニメで敢行したのがすごい、というかもはや蛮勇。

個人的には、キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」(1968年)やタルコフスキー監督の「惑星ソラリス」(1972年)の影響を感じます。

 

他にもこの作品には語り継がれるべき多くのものがあり、とても書き尽くせません。

自分にとっては、この手の作品としてこれ以上のものはもう現れないだろうと思っています。