今日も花曇り -10ページ目

今日も花曇り

読んだ本や考えたこと、仕事について。

私は一応、Note、アメブロ、Facebookのアカウントを持っているのですが、Facebookが一番書きづらく、ごくたまにしか投稿していません。

 

どうしてだか考えてみると、「友達」の投稿と自分の興味関心がズレまくりで、投稿しても浮いてしまうだろうなと思い、投稿しづらいのでした。

 

Facebookは基本実名なので、ヘンなことは書きづらい。

私の友達の投稿は、ほぼ日常生活や仕事のことです。

どこに出かけたとか、どんなイベントに出たとか、誰と知り合ったとか・・・

 

でも私は日常生活にあまり興味がなく、書くとしたら自分が考えたことや、読んだ本のことなのですが、そんなこと長文で書くとすごく場違いな感じになっちゃうんですよね。


それこそ、先日投稿した内容なんて、Facebookでいきなり投稿したら「あいつどうしたんだ?」となりそう。

 

かといって、仕事の内容は性質上細かいことは書けないし、法律業界のニュースなども関係ない人は全く興味ないと思うので、結局書けず・・・

 

でも一方、Noteやブログを書いたからといって、そこから何かが発展するわけでもないのですよね。

ただ書いているだけで。

 

なら、なぜ書くのだろう?

と自分でも思うのですが。

 

ひとつは、自分のため。

私は自分が感じたことや考えたことを言葉にして、やっと次に行けるタイプです。

私には自分の考えたこと以外、特に財産はないので、考えたことを自分のために言葉にして残しておきたい。

 

あとは、もしかしたら、いつかどこかの誰かがその言葉を必要とするかもしれない、そのときのため。

といっても大した意味ではなく、ある本の他の人の感想が知りたいとこか、読んでいる人が少ないのでネットで書評を見つけるのが大変とか。

あとは、同じような経験、同じような思索で悩んでいる人が、ここにも同類がいると思ってくれるかもしれない。

 

なんだかボイジャーに載せた人類からのメッセージみたいですがスター

先日、日本に旅行に来た外国人が、新幹線に無賃乗車して逮捕勾留された事件の弁護を担当しました。

そこでつくづく、軽微な犯罪に対応するために社会が負担するコストが理不尽に大きいことを感じました。

 

まず、逮捕段階では、弁護士会が自腹を切って(つまり各弁護士の払った会費から)無料で接見に弁護士を派遣します(当番弁護士制度)。

今回は外国人だったので、通訳人の通訳料も弁護士会が負担。

 

次に、逮捕に続いて勾留されると、国選弁護人が選任されます(弁護士費用は国が負担)。

勾留中の通訳の費用も国が負担する。

 

勾留中は、当然ながら衣食住は保証される。

取り調べにも通訳がつき(当然国の負担)、被疑者(犯人)には裁判官、検察官、警察官らという公務員(要するに税金から給料をもうらう人々)が、そんな無賃乗車のために寄ってたかって取り調べをし、調書を作り、被害者(鉄道会社)から事情聴取する。

 

そして、最後の刑事処分は、最高でもわずか2万円の罰金刑(鉄道営業法違反)。

 

今回、たぶん国選の弁護人報酬が7、8万円くらい。

通訳料が5万円くらい。

裁判官も検察官も高給取りだし、そこに警察官や勾留にかかっているお金も考えれば、この1件を処理するために優に20-30万円くらいはかかっていると思う(もっとか?)。

旅行者だから、社会に戻ったあと日本のために働いてくれることもない。

 

本当に無駄だと思います。

この費用と労力は、もっと必要な人のために振り分けるべきだと思う。

 

厳格な手続はもちろん重要ですが、あまりに無駄すぎる。

実は今回、私が弁護人についてから、本人が持っているキャッシュカードを預かってお金を引き出し、鉄道会社に弁償して釈放されました。

つまり本来、無賃乗車の現場で通訳をつけてちゃんと話をすれば、本人がお金をおろして払えたはずなのです。

どうにかならんかったのか・・・

 

歳をとると、世界のことがどんどんわからなくなってきます。

知れば知るほど、どんなに自分が取るに足らない存在で、世界が複雑で難しいかを、ますます思い知るばかりです。

歳をとれば、もう少しは世界のことがわかるかと思っていたのですが。

 

人間は時間は移動できないので、一生は宇宙の歴史に比べてあまりに短すぎます。

もっとも、空間を移動する能力はあるのに、宇宙どころか日本さえ広すぎるのですが・・・

 

伸び縮みする時空や、確率でしかわからない量子の振る舞いは、私の直感の理解を全く超えています。

かといって、直感によらず数式で理解する能力もありません。

 

他人と深く付き合うと、自分がいかに他人を理解していないか、完全な理解は不可能と思えるくらい互いに分かり合うことが難しいかを感じます。

 

自分自身についてさえ、脳の反応に意識の反応が遅れているとか(意識は現実を時間差で後から見ているだけ)、脳を分割すると人格も分割されるとか(分離脳)、事実を知るほど、自分についての認識が揺らぎます。

 

そして当然、自分が生まれる前のことも死んだあとのことも知ることができません。

 

自分が生きている前提条件のほとんど全てがわからないのに、なぜ皆んなは目の前のゲームに疑いを持たずに集中できるのだろう?

どうして自分はこんなゲームを強要されているのだろう?

普段は生活に精いっぱいで忘れてしまっているのですが、ふと我に返ると、あまりの不合理に呆然となってしまいます。