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今日も花曇り

読んだ本や考えたこと、仕事について。

たまたま図書館の書架で目にして、題名に興味を惹かれて借りました。

これまでにも少し聞き及んでいた現象ではあったのですが、初めてきちんと本で読み、やはり衝撃的でした。

 

 

 

 

この本は、世界中で報告されている、前世の記憶がある子どもたちについての研究内容を紹介するものです。

 

著者のイアン・スティーヴンソン(1918年 - 2007年)はもう亡くなりましたが、米ヴァージニア大学教授。この分野の第一人者で、膨大な著書や論文を発表している研究者とのこと(なお同大学はトーマス・ジェファーソンが創立者という、歴史ある大変な名門です)。

この本は一般読者向けの概説書です。

 

さて、

 

ここまでの紹介でもう「その手の話」として拒否感のある人もいるかもしれません。

ただ、私はそうした人にこそ読んでほしいと、真剣に考えています。

この本は、いわゆるスピ系の本ではありません。

根拠なく魂だのエネルギーだの波動などを語る、私の大嫌いな本ではないのです。

 

国も文化も異なる多数の国々で、前世の記憶がある子どもたちが観察され、しかもそこに一定の類型があることについて、その理由を探求しようとする研究書です。

 

世の中には、他人の前世がわかる主張する人たちがたくさんいます。

また、前世の記憶があると主張する大人も、たくさんいます。

しかし著書は、そのいずれも研究対象としてほぼ無価値であるとして、取り合いません。

理由は簡単で、信頼性に著しく欠けるからです。

 

著書が調査の対象を子どもに絞っているのはまさにこのためです。

子どもの場合、過去に生きた人物の情報を入手する経路が大人に比べて非常に限定されているため、記憶のもとになる情報がどこかから伝わったのではないかを検証することが容易です。

 

この本で紹介される事例は「自分は前世で武士だった」とか、そういうレベルの話ではなく、前世の人物を完全に特定できるものを多く含みます。

そしてその前世の人物は、世間で知られる有名人てはなく、ごく普通の市井の人、「◯県◯市で会社員をしていたが、自動車事故て亡くなった◯◯さん」のような人なのです。

それら子どもは、前世での自分や家族の名前、住んでいた場所、仕事、そして多くの場合、自分が死んだ時の状況について語っています。

 

前世の記憶を話し出す年齢は2歳から5歳までの間がほとんどで、これは地理や文化にかかわらずほぼ同じだそうです(インドの235例、アメリカの79例て両国の平均は3歳2カ月て全く同じだったとのこと)。

 

そして、大多数が5歳から8歳までの間にその記憶を喪失してしまいます。 

著者によれぱ、この時期は言葉が急速に発達し、視覚的イメージが失われる時期と一致しているため、そのことと関連しているのではと考察しています。

 

また、前世で横変死した者の割合が極めて高く、自分の死にざまを覚えている子が4分の3近くにのぼるとのこと。

自分を殺害した犯人を街で見つけて殴りかかろうとした子どももいたそうです。

 

一方で、前世で死亡してから現世で生まれるまでの記憶を話す子どもはほとんどいない。

「雲の上からお母さんを見つけて、優しそうだったからお母さんのところに生まれて来た」のような親が喜ぶエピソードで、厳格な検証に耐えるものはほぼ存在しないということです(ただし、全くないわけではない)。

 

 

私がこの本を読んで感じたことは、もっと多くの研究者に、この問題について真剣に取り組んでほしいということです。

 

なぜなら、例えこうした報告の99.9パーセントが誤りや虚偽だったとしても、その中に1件だけでも厳格な検証に耐えるものがあった場合、私たちの(現状で常識的とみなされている)世界観は、根本的に変更を迫られるからです。

数学の背理法と同じです。

 

こうした子どもたちの存在が、生まれ変わりや魂の存在を示しているのかは、わかりません。

著者自身も、「生まれ変わりという考え方は最後に受け入れるべき解釈なので、これに変わる説明がすべて棄却できた後に初めて採用すべきである」と述べています。

 

重要なのは、こうした記憶を語る子どもたちが実際に存在しているという事実です。

ならば、それは何を示唆しているのかを考えるのが科学のはずです。

 

それをせずに、単に「あり得ない」と思考停止するなら、それは、そうした自らを合理主義者と自認する人々が批判する、世の迷信や妄信にとらわれている人々と全く同じだと思います。

つまり、観測と計算が可能なもへの無批判の信仰です。

 

でも、人間は自然そのものを観察することはできず、人間が用いうる手段で自然に働きかけ、観測できた結果から自然の姿を推測できるにすぎない、という当たり前の事実を、よく考えるべきだと思います。

 

考えてみれば、相対論も量子論も、たぶん創始から100年さかのぼった時代であれば「あり得ない」と嘲笑されたのではないでしょうか。

結局私たちが「科学的」だと考えるものは、その時代における科学をあてはめるものでしかありません。

 

そもそも前世どころか、私たちの科学では、自分自身の意識がなぜ・どのように生じるかさえ、ほとんど全くわかっていないのです。

 

私はいつか、意識、心、記憶といった問題について、人間が現在とは全く異なる新しい科学を手に入れることを期待しています。

知人から、「もし過去と未来へ行けるとしたら、いつの時代に行きたいか」尋ねられました。

何かの心理テストでしょうか。


私は「宇宙が始まったときと、宇宙が終わるときに行きたい(知りたい)」と答えました。

どうも本来はそういう回答をすべき質問ではなかったようで、「はあ・・まあ確かに、◯◯さんらしいですね」と言われました。


もちろん他にも行ってみたい時代はあります。

過去なら、カンブリア紀や、バッハやモーツァルトやショパンの生演奏を聴いてみたかったし、未来なら、人間が最後はどんなふうに滅んでしまうのか、知りたかった。


でもやっぱり、本当にどうしても知りたいのは、なぜ宇宙があるのかです。

なのに、人間には絶対に分からないのが、たまらなく不合理で、怒りさえ感じます。

誰に対してかわからないですが、あまりにひどいではないか、出てきてちゃんと説明しろ!と言いたくなります。


先日、ツテでもらった『ゴミうんち展』という、すごいタイトルの美術展に行きました。

 

行ってみるまでは「一体どんな展示?」とおそるおそるでしたが、行ってみればごくごく普通の現代美術展。

廃品や廃棄物を利用したアートがメインの展示で、企画者にはちょっと申し訳ないですが、ややタイトル負けしている感じがしました。

 

 

ただ、関連書籍を置いたコーナーで目にした『トイレの話をしょう』(ローズ・ジョージ著)という本が面白そうだったので、後日図書館で借りて読んだのですが、こちらは結構衝撃でした・・・。

 

 

この本はこんなふうに始められます。

トイレに行きたい。

わたしは、コートジヴォアールの小さな町にある質素なレストランに来ていた。隣国リベリアからの難民だらけで、水はバケツで汲んでこなければならず、タオルは中古品を買う、そんな町だが、それでも当然トイレはあるはずだ。

トイレはどこかと尋ねると、リベリア人の若いウェイターは、黙ってうなずいた。そして、暗がりのなかを部屋が一つしかない建物に案内し、電気をつけると、その場から立ち去った。

そこには、白いタイル張りの床と、同じく白いタイル張りの壁がただ広がっている。便器も、それらしい穴もなく、なんの手がかりもない。

わたしはもう一度外へ出てウェイターを探し、本当にここでいいのか、と確認した。ウェイターは皮肉な笑みを浮かべた。難民の暮らしは楽しいものではないだろうが、彼はいま少しばかり楽しんでいるようだ。

「床の上にするんです。なにを考えているんですか?ここはアメリカじゃないんですよ!」

わたしは呆然とした。

「草むらでできないかしら、わがままを言っているわけではないのよ」

しかしウェイターの姿はすでにない。大笑いしながら暗闇のなかに消えてしまった。(13ページ・太字強調は投稿者)

 

出だしから衝撃的です。

それって、いったいどういうこと?

だって、その後どうするの・・・?

 

本書の原題は ❝The Big Necessity: The Unmentionable World of Human Waste and Why It Matters❞ です。

「重大問題-口には出せない排泄物の世界 それがなぜ問題なのか」

とかでしょうか。日本語タイトルよりさらに直截です。

 

読み進めると、日本で暮らす私たちからしたら「ありえない!」と絶叫しそうになる事実を次々に突き付けられます。

でも、世界、そして歴史の中では、あり得ないどころかそれが普通、ということを知って愕然とします。

またしても、いかに自分が無知かを知りました。

(トイレを使えることを「特権」であると述べたうえ)たしかにそれは「特権」だ。この地球上の二十六億の人々は、満足な衛生設備ももたずに暮らしているのだから。

わたしが言っているのは、自宅にトイレがなく、公衆トイレに並んで使用料を支払っている人々のことではない。

汚物を不潔な排水溝や豚小屋にたれ流している屋外便所や、掘ったて小屋ふうのトイレしかない人々のことでもない。そういうトイレも、安全とは言えないが、衛生設備にはちがいない。

彼らは、まだ幸運なほうだ。

世界の十人に四人が、 掘り込み便所も、便器も、バケツも、箱さえもない暮らしをしている。

そう、なにもないのだ。 

彼らは、線路わきや森のなかで排泄している。ビニール袋に用を足し、それをスラムの狭い路地に投げ込んでいる。女性の場合は、朝の四時に起き、レイプやヘビなどに遭う危険を冒しながら、慎みのために暗闇に隠れて用を足している。そして世界の十人に四人が、排泄物に囲まれた環境で暮らしている。(14ページ・太字強調は投稿者)

 

そして、排泄の問題が、単に気持ち悪いとかの嫌悪感の問題ではなく、たとえば、野放しになっている野外排泄によりどれほどの(特に子どもの)命が失われているかということも。

 

世界では15秒に1人の子どもが下痢が原因で亡くなっており、下痢の原因の90%近くが排泄物が混入した水とのことです。

過去10年間(※本書執筆は2008年)に下痢で亡くなった子どもの数は、第二次世界大戦以降の武力衝突による全世界の死亡者数を上回るとも。

 

南アフリカの劣悪なトイレ事情を改革するために奮闘し、当時「トイレ大臣」とも呼ばれたという元水資源水産大臣のカスリル氏は、会議で次のように訴えていたといいます。

「コレラと腸チフスが原因で、一年間に何百万人もの子どもたちが亡くなっている。その数は、子どもを満載したジャンボジェット機が、四時間ごとに墜落しているのと同じなんだ」(117ページ)

 

また排泄処理が歴史的、世界的に、身分差別や貧困とも結びついていることも。

 

訳者のあとがきが読者の感想をこれ以上ないくらいうまく要約していると思われたため、これを引用します。

本書を訳してみて、排泄物やトイレの問題について、あまりにも知らなすぎたことを思い知らされた。下水設備の整ったこの国での暮らしがいかに恵まれたものであるかを再確認し、世界には、トイレをもたず夜中に人目を忍んで茂みに排泄に行く女性たちがいること、排泄物を素手で処理する仕事に就かざるをえない人々がいることをはじめて知った。そうした人々にトイレを提供するために努力し、あるいは、不衛生な暮らしに慣れてしまった人々の衛生行動を変えるために、試行錯誤を繰り返している人々がいることも。
わたしたちは、自分たちの健康が適切な下水処理によって守られていることを知らなくてはならない。(中略)
人類は今、衛生に関する地球規模の危機に直面しており、しかも大部分の人はそれに気づいていない。本書の目的は、人々にそのことを知らせて警鐘を鳴らすことであり、著者はその目的を充分に果たしている、と考える。(「訳者あとがき」)

 
この問題は歴史上、人間が定住を始めたことで生じたのだと思いますが、もはやそこからも長い時間が経過しているというのに、人間が未だにそれを解決できていないことに愕然とします。
生きている限り排泄し続けるのに!
 
見たくないもの、考えたくないことは、見ない・考えないという人間の根深い性質を見る気がします。
 
これを読んでいるまさにその最中、1月28日に、埼玉県八潮市で、老朽化した下水管が原因で道路で大規模な陥没が起こりました。
普段気にもしない下水が、いかに重要なインフラであるか、それが破損したとき、いかに対応が難しいがを思い知りました。
1か所でさえこの状況です。
首都直下型地震が起きたら、破断か所は万単位になるのではないか。
それが復旧するまでどれほどの時間がかかるのか、そもそも復旧なんて本当にできるのか・・・
気が遠くなりそうです。
 
職場のビルから延々と続く街並みを眺めながら、この全ての建物に下水が配管されており、私たちはその非常にもろい毛細血管のうえでかろうじて生活してるのだと思うと、おそろしい気がしました。
 
最後にですが、本書の栄誉ある第1章は、日本の温水洗浄便座の解説にあてられています。
「トイレに、ほかの発明品と同等の敬意が払われているのは、この国だけ」とのこと(31ページ)。
 
筆者は温水洗浄便座を革命だといいます。
しかし、日本で暮らす私は知らなかったのですが、この革命は、驚くほど世界には広がらなかったそうです。
TOTOやINAXの非常な企業努力にもかかわらず。
トイレにそこまでの関心を払う国民は稀のようです。
 
この点は、日本に生まれた幸運をかみしめました。