御上(みかみ)神社から、
悠紀斎田(ゆきさいでん)をぬけて
三上山(みかみやま)へ
向かう途中に、
天保義民碑(てんぽうぎみんひ)
という案内がありました。
登山道の入口では、
江戸時代の
終わりかけにおこった
近江天保一揆
(おうみてんぽういっき)で、
犠牲になった方がたを
お祀りしているといいます。
天保という時代は、
大飢饉におそわれ
日本各地で
一揆や打ちこわしが
起こっていたといいます。
大阪の
大塩平八郎の乱
(おおしおへいはちろうのらん)も、
このころだそうです。
また、
世界的に見ても
各国ともに
海外進出の時代であり、
北では蝦夷地で
ロシアと小競り合い、
東では浦賀で
アメリカと小競り合い、
西では清国とイギリスが
阿片(あへん)戦争という、
混沌とした
時代だったようです。
そんななか、
家老となった
水野忠邦(みずのただくに)は
幕府を立て直すべく、
倹約と増税による
改革をはじめたといいます。
その一環として、
近江国を再検地して
税収をあげようとしたようです。
ところが、
測量にきたのは
市野茂三郎(いちのもさぶろう)という
腐敗した役人だったそうです。
市野は、
各地で賄賂をうけとっては
測量を甘くして
接待を受けていたといいます。
また当地の人々も、
飢饉のなか重い税を
掛けられるよりはマシだとして
賄賂を渡していたといいます。
しかしここ、
野洲川(やすがわ)流域では
賄賂を渡さなかったのか、
市野は
不正な測量をおこない、
面積をおおく見積もって
重い税を掛けたといいます。
この仕打ちに
業を煮やしたのは、
農民をまとめる庄屋でした。
三上村の庄屋である
土川平兵衛(つちかわへいべえ)を
筆頭に立ちあがると、
おなじく不正に苦しむ
野洲川沿いの
野洲郡、粟田郡、甲賀郡の
3つの群と話をつけ、
農民約4万人とともに
市野のいた陣屋を
取り囲んだといいます。
困窮する農民たちの
死罪を覚悟した一揆でしたが、
しかし
土川平兵衛らによって
統制がとれていたといいます。
そうしてついに、
『検地の十万日延期』という
事実上の無期限延期の
請文を勝ち取ると、
粛々と解散したといいます。
本来ならば、
一揆をとめる立場にある
藩士たちも
このときは農民に同情して
手を出さなかったといいます。
そのため、この一揆では、
ひとりの死者も出なかったそうです。
この一件によって
幕府は税収と面目をつぶされ、
衰退の一因になったとも
慰霊碑なのかというと、
一揆では
死者がなかったものの、
一揆後、幕府による
過酷な取り調べや
拷問によって、
おおくの人々が
獄死したといいます。
千人ちかくが捕えられ、
指導者をふくむ
50名あまりが
亡くなったと言われています。
筆頭者である
土川平兵衛は、
連行先の江戸で
取り調べ官に
こう語ったといいます。
『
刑囚として
私の体を束縛することが出来るが、
精神を縛ることは出来ない。
獄舎にて悶死しても、
私の魂魄は
見分の不正、収賄、非道を
述べるであろう。
』
そして、これが
辞世の句です。
『
人のため
身は罪咎に
近江路を
別れて急ぐ
死での旅立ち
』
土川平兵衛ら
近江の一揆に参加した
この地の「義民」は、
いまでもおおくの
崇敬を集めているといいます。
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☆野洲めぐり全記事リスト☆
淡海国の野洲めぐり① ~御上神社~
淡海国の野洲めぐり② ~悠紀斎田~
淡海国の野洲めぐり③ ~近江天保一揆~
淡海国の野洲めぐり④ ~三上山~
淡海国の野洲めぐり⑤ ~新川神社~