ももちゃん>
あたまのいいひとから死んで行くのよ。
ももちゃんは頭がいいから、死にやすい子なのよ、死にやすい子に産んでごめんね。でもこれは負けじゃないのよ。ももちゃんは神様に選ばれたあたまのよいこなのだから、みんなにやさしく、頭の良さを自慢しないで、謙虚に、みんなを助けてあげることにあなたの頭をつかいなさい。けっしてひとをみくだしたり憎んだり、嫌いになったりしてはいけないよ。
ママは基督教的観念と偏った優生思想がデカイ乳を揺らして服を着て歩いているようなひとだった。
ママの期待と声は重く、ママのいない時にも自分にのしかかっていた。耳の中ではいつもママの声が聞こえていた。それがほんものの声なのかまぼろしなのかの区別は歳を重ねるにつれ、つかなくなっていた。
おとなたちはそれを幻聴と呼び、私を100人に一人の精神病と診断し、薬でいったん柔らかくしたあと成形し、箱詰めにして、収容した。
私に与えられたのは、私が選んだ音楽がたくさん入っている携帯音楽プレイヤーひとつだった。
頼めば食事やメモとペンも与えられたが、私には音楽さえあればよかった。
もう世の中じゅうで書き尽くされた『物語』をどうすることもできずに、
これから私を使ってこの世の中に何が書けるかも全く思いつかず、
あたまのいいひとから死んで行くのよということばを母の声で耳の中に聴く。
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ママ>
神様の愛の教育を受けた人は、人間が神様みたいに他者を愛せないことにいらつき、ありもしない無償のきれいな愛にあこがれ、もとめ、手に入らず、翼が擦り切れて墜落していくのだ。
私が欲しいものをちょうだいよ!一個だけでいいから完璧にさせてよ!一個だけでいいの!なんでそれもダメなの?!
毎日叫ぶのは同じ内容の言葉だった。娘が収容されてからというもの私は大気の微量なイオンと自分自身を消費することしかしておらず、いつもひとりきりだった。一人暮らしなのにいつも何かしらのタスクに追われていた。私を追い立て、追い詰めるのは私の頭の中の声だった。理想と、完璧と、隅々まで、ホコリひとつない、シンライ、誰が見るわけでもないのに毎日毛穴の一つ一つをも埋めるように化粧をした。
あるときはシャワー室で全裸のままシャワーカーテンをなおしながら、またあるときは買ったばかりの日用品でぱんぱんになった買い物袋にまみれて叫んだ。繰り返し繰り返し、ありもしないものに叫び、ありもしないものを求めつづけた。もちろん、ありもしないものは手に入らなかったし、具体的に何が欲しいのかも、自分自身にもよくわからなかった。
娘を取り返したいとか、もう少しそういう具体性さえあれば私の命は無駄にならなかっただろうに。
娘のことはもう正直どうでもよかった。私の期待に応じられないことが少しずつわかってきた時点で、この子に何かをかけるのは無駄なことだと頭の奥で声がしていた。愛ではなかった。自分の手を自分の意思で酷使するように、自分の体の一部としてみなし、うまくいかなければ使わない、さらに離されれば興味を失うまでのことだった。
私の体から出てきた私の一部なのに、私の思った通りに動かないなんて私には理解できない。いまの気持ちの混乱も、ひたすら自分のことでしかなかった。いたわられたいようだが、だれに、どんな理由でいたわってもらえるというのだろう?言葉や一度の儀礼的抱擁では満足できない私が、どうやっていたわってほしいかも自分で言えない私が、さらにいたわってもらえるような理由も人間関係もなにひとつない私が。
あたまのいいひとから死んで行くのよ。
私は頭が良くないから中年まで生き抜くことができた。なにかに流されることに疑問を持たず、生活と本能のままに生き、余計なことを考えないで生きてきたから、48まで生きられたのだ。ただ、そんな私のただひとつの敵は、自らの脳が作り出す理想像だった。自分自身はこうあらねばならぬ、と常に、頭の中でなにかががなりたてていたのだ。エベレストよりも高い理想はいつも叶えられるわけがなく、失意ばかりを背負って生きて、劣等感の塊だった。弱さを強く意識しており、ものごとの優劣にとても敏感だったから、あんな宗教にハマったのかもしれない。
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後日談>
一個だけでいいから完璧になりたい……
でもその一個とはなんなのか、完璧とはなにを指すのか、自分ではっきりしていない彼女が幸せになれるわけはなかった。
彼女はたくさんの掃除用具に囲まれ弔われ、ピカピカになった部屋の中で死んでいた。
あたまのいいひとから死んで行くのよ。
彼女があたまがよかったかというとそれはわからない。ただの愚かな完璧主義者と言ったらお終いだからだ。
でも彼女よりあたまのよかった彼女の娘は、彼女よりも早くに死んだ。餓死だった。晩年は食事を摂らず音楽を聴いているだけだったという。イヤホンをしたままの耳は爛れ、ほとんど潰れていた。状態からいうと、死ぬ7時間ほど前にはもうすでになんの音も聴けていないはずであった。しかし看守は見ていた。娘は心配停止で倒れる3分前まで、音楽を聴いているかのように体を心地好さそうに揺らしていたのだ。
幻聴で聞こえるのは母の呪いの声だけだと訴えていた娘が死ぬ前に聴いていたのは、なんだったのだろうか。