これツイットしたけど、これって毎月オープンマイクやってる渋谷のルビールームのことかなとか思ったりなぞする。
明日ライブ。今日締め切りの原稿。今月締め切りの原稿。原稿原稿言うの、自分でやると恥ずかしいからやらんきまりだったんだけれども、とうとう書いてしまった。
やっつけでもムラっ気でもいいからなんでもいいから続けたい、息をし続けることが価値になるし勝ちになるから、といってもなにと戦って勝ちたいのかもわからないし、そもそも勝ち負けなんという明快すぎる雑な価値観で生きているからすぐに人に順位つけて落ち込んだり人を見下したり見下されたりなどする感じがするのだと思う。
しかしともあれ続けることには価値がある。師匠がそう教えてくれたのである。途中でやめるのなんかいつでもできる。
趣味を手抜きしてどーすんだよ、趣味なんだから全力でやるに決まってんだろ、と、かつて昔少しだけ一緒に生活していた人が言っていた。力加減は絶妙をゆかなければならない。完璧を求めていつまでも出せないんじゃ腸の動きだって止まってしまってあっという間にイレウスを起こしてしまう。
曲がりなりにも医療に関わるコラムなど書いているが、たぶん患者家族や患者本人をやってる人のほうが、知識があるだろう、とか、思うことがある。ナースなんて毎日やることは決まっている。一番頭が良かったのは国家試験を受ける直前から数ヶ月くらいのもんで、使わん知識は当然だがどんどんなくなってゆく。
そして注射してるときだけが楽しい、みたいな気持ちだけが自分を看護師でいさせてくれる。それ以外はなんてこともない。ていうか、医療者というものの立ち位置に期待をしすぎていた。ナースでありながらナース的なものにフェチを持っていたから。
このフェチが作品の助力にはなれど、臨床面では邪魔になることの方が多かった気がする。自分で意識していない一生懸命なときのほうが、看護師として看護師だったのだ。
文章がちっとも書けない。完全にスランプしている。そしてポエトリーのイベント。血が出そうだった。どこからとは言わない。生きる価値は自分にはないし、もう活動なんかやめてしまいましょう、と、いいライブを見るたびに思わされる。鳥の雛だったら真っ先に死にそうなほどの、変な空気の読み方をするので、子供の頃から損ばかりしている。いやしかし26年間幸せだったし随分とこずるいこともしたと思う。ただ坊ちゃん風に言いたかっただけで。全部ラッキーじゃなきゃできなかったことで溢れているから。
言いたいのは普通でしかなかったということで、この言いたいことさえも普通でしかなさすぎて、ほんとうは何が言いたいんだってことがわかりにくいだろうが、私は誰にでもできるようなことしかしていないということだ。たぶん誰だってある程度そうであるしそうであって欲しいと思う。社会がきちんと円滑に回るためには、この人にしかできないなんてこと、できるだけ少ない方がいい。
個人のやりがいと幸福を考えるのであればこの限りではないし、伝統や経験のなせるわざ、個性は、見えないほど小さかったとしても完全に潰すことなんかはできないレベルで存在している。