ぴいなつの頭ん中 -2ページ目

ぴいなつの頭ん中

殻付き。そにっくなーすが言葉を地獄にかけてやる

言葉たち。


何を言っても見飽きた感じになってしまうこの倦怠感は10年目の春。

2017年からはじまったことを10年目だと言いたいのは、仕事キャリアにコンプレックスがある私の些細なマウントだ。

私とあなたは負けず嫌いなところは多分そっくりで、それ以外はだいたい全部違っている。


あの子のポニーテールはもうない。


世界中どこを探してもない。


あの子はそのまま、

でもあの子のポニーテールだけがどこを探しても、もうない。


言葉がどぼどぼと、ケガしたときに出てくる濁流のように、指先から溢れ出て戸惑うほどに溢れ出てこそ私ではなかったか。

わかりやすい言葉がいらない時にはわかりやすい言葉にたより、シンプルでなくてはいけない時に言い淀んでは誤解されてしまう。言葉に詰まる他人の必死さがとても愛おしいのに、しゃべれない自分はみにくいと思う。


忘れたくないのに空気だけがそこに漂っているその空気は言葉というテクニカルをはずれてしまっていて、どんなに説明しようとしてもすりぬけてしまう、だって煙みたいなものだった、それは前からそうだったじゃないか、大人だからぜんぶ掴めると思ってた私の方が傲慢だった。

こうしている間にもニューロンはどんどこどんどこ、あちこちに手を伸ばして増えて、30代の意味記憶の世界と世界を繋げていく。気持ちいい。繋がるのは気持ちいい。なんでも私に関係してる。世界は私で回ってる。みんな私のことを知っていて、みんな私のことを見てる。そう思いたい気持ちはきっと、スポットライトのうしろで多くの人が思い浮かべているけむりだ。


「あなたが好きすぎて苦しい」

そう言われて寄り添われながら、ああこれはきっと私がそうあってほしいと思って私に見せてあげている自己満の願望なんだと思う。

わたしに苦しみを押し付けていのちの電話であれと行動でしめしたかれと、執着にのまれて依存しているわたしと、何が違うというのだろう。思いの形は違っても、やっぱり板みたいにじょうぶなMOTHERを求めているだけだと、あなた自身を見ていないのだと、そういう点ではわたしもかれも同じだ。わたしはかれを見捨てた。あの人はわたしを毎日傷つけることにした。同じだ。目の前の現象を何でもかんでも繋げる愚行を見守りながら、グーの次はパーだとか、マークシートの回答が同じ3のまま何問も続くことはないとか、そんなレベルの関係性と同じレベルで気のせいだと吹き飛ばせればいいのに。解答がないのだから、証明もしようがない。途中式を書かせてもらえる場所もない。わたしが塗りつぶしてやぶいたからだ。


5年間で死のうとした回数ぶんだけ腹筋をしたら、たぶんわたしのおなかはちぎれて腐ってしまう、桜はまだ咲かない何回目かの現地で思う。


MOTHERでいられればもう少し幸福だっただろうか。SONが羞恥心みたいなナイフで習慣的に削り取った私の心はMOTHER向けではなかったの。返ってくる思いは私の削りかすに見えて、オキシトシンを見つけられなかったの。MOTHER、MをとったらOTHER、他人です。そう、母は他人だよ。そして、母は他人になった途端、きっと角度によっては誰よりも冷たい鬼のような顔をしている。Mが、見えなくしてることがきっとたくさんあって、これはホルモンとか薬物みたいな化学的な何かが作用している。

MOTHERをMOTHERたらしめているのは、生物の脳内で分泌と分解を繰り返されているM=MEDICINEだ。


ごめんね。MOTHERになれるだろうか。

もう少し優しくなれるだろうか。




口の中一杯にこんなに苦味が広がるのにどうしてわたしは口にするのをやめられないんだろう

爪がわたしの思った色じゃない色に染まってゆく

今まで私が出会った

おんなじような爪をした人は

みんな世の中を辞めたような

それでいて

まだ何も知らないような

黒く塗りつぶされた目を持っていた

こんなふうになりたくないと

私が泣きながら叫んだ夢の中の瞳だ


渇いた舌に葉っぱの屑が乗る


小指の爪くらいの大きさになっても

まだ火を絶やすなと

燃やし続けていろと

消し潰すなと

その書物は捲れ上がりながら火の粉を巻き上げる

白と黒だった塊がなぜこんなに彩りをもって

命を持ったかのようにふわつくのだろう

飛んでゆきそうになるものを捕まえたくとも

火傷しそうで

手を伸ばすことすらできない


最後に焼け残る数行の糸をなんとかして編んでこの毛布が出来上がるのだろう

あたたかくて

本当に辛い時にしかもたらされない

期待など忘れてただただ跪いて祈るしかない時しかもたらされない

甘くてやわらかい毛布

それを辿ってきっとここまで来たのだろう

愛されようとなんて

評価されようとなんて

これっぽっちも思わない

甘くてやわらかい

近づいたら燃え尽きてしまうような素材で

そっと触れることを期待された素材で

愛しい愛しいと

口いっぱいの苦味にかたりかける

赤さも弱まりなめらかに働かなくなったゼツ(舌)が

飢え渇いて唾液のように煙を垂れ流す

愛しい愛しいと

口いっぱいの苦味を転がして慈しむ

チョコレートの味だなんて

その見た目通りの慈しみをどうして信じてしまったのだろう

子供のように純粋に

大人の私はその細くて太くてゆるされている

一本を手に取り火をつける

見咎められるのを恐れながら暗闇で

誰にともなく自由という強さを見せつけるように

(燃えているのはなんだったのか?)

(果たして目で見ることを肯定されるべきものだったのだろうか?)

与えられた娯楽ってなんでこんな気持ちいいんだろう、流動食なのかな


楽しみすらもこう楽しみなさいと人から見えない何かから提示されないとわからないんか、そこまで怠惰になりさがったか、

あたらしいものが怖いんだ、知らないものが怖いんだ、

時間がないから、損するのが怖いんだ、

時間が少ない割に楽しまなければならない事項がこの世に多すぎるから、

生きてる間に全部読みきれんほどの本がこの世にどころかこの家にあふれてる



もしもこの端末が壊れても電話帳とメモ帳だけはすぐに復旧できる、知ってるあとは古い写真とか。そしてごくさっきに撮ったばかりの写真とか。あいだの記憶だけ、わたし自身すらも忘れてるような記憶だけがぽっかりすっぽりと抜けてしまっている。


もうずっと前に忘れ果てた19歳の記憶とか、それを恥じていた君のこととか、同じ時を別の場所で生きていたわたしの19歳って一体なんだったんだろうと考える。

19歳の時の方が今よりもずっと年老いていた。

未来に絶望し残りの命を数え、別れと死についてばかり考え、電気あんかの汚いコードをカーテンレールにくくりつけては、死ねない自分を責めていた。


人がたくさん死ぬ事件がニュースで散々流れていたとき、わたしはテレビのない環境で死ぬ寸前の母親の体を揉んでいた。苦しいねえ。苦しいねえ。急におばあちゃんみたいになってしまった間伸びした断末魔の叫びがなんだかかっこ悪く感じて自分しか見ない日記にすら嘘をついた。

そうか、ここが痛かったんだやっとわかった、あー、そう言って判明した直後に母は息を引き取って、処置の間にわたしは何度か病室から庭に追い出された。

狭い部屋の中、母親のベッドの隣に無造作に置かれた簡易ベッドで父親の買ってきたチョコレートだけを貪り食べながら何日も風呂にも入らずまともな食事も飲水もせずにいつまでもこれが続くことはないとどこかで疲れの藪の中で確信しながらそんな自分の確信もずるいな、気持ち悪いな、とまた自分を責めたてながら。


死にたいと願ったわたしは生きていた。あれから何年経っただろうか。毎年死のうと思って10年も経ってしまったと呟いたあの女性の戦ってる姿は眩しくて、わたしは人を信じて待つことをまた少し学んだのだった。


あと10歳で母親の歳を超えてしまう。



あたたかい日、川のそばで待っていた日の出は、曇り空に隠れてただ街灯と同じくらいの明るさを示しただけでわたしの好きな色は見えなかった、


いつのまにか朝にされていた。無理矢理に朝にされていた。

でもそれが朝なのだろうとわたしは仕方なく受け入れる。いろんな記憶を想起しては優しくして川に流して、自分を抱きしめるみたいに肩甲骨の筋肉を伸ばしていく。骨が折れるほどの抱擁は届かない夢。誰もわたしの骨が折れるほどの力なんて持っていないから。

アメリカインディアンの教え

ビリビリに破かれたお母さんの夢、生きがいの創造、誰が書いたかは忘れてしまった

分別もつかないならそれもまあ仕方ない

一緒にいることを望んだのだから代償はしかたない

ある程度仕方ない

ゆるしたくなくて、テープで直すのに

やぶかれるまえよりもぐちゃぐちゃになって

愛せない

わたしはかつて

アメリカインディアンの教えをびりびりにやぶいたことがある

本の通りの育児をしようとして

いつでも「ちゃんと」やろうとして

失敗した、

おかあさんをまるで、どこかで、

叱るみたいに いさめるみたいに 

本なんか見ないで

わたしを見て

そうしてわたしたちきょうだいはふたりで

おかあさんの育児書をびりびりにやぶいたのだった

分別もつかないうちから

ただひとつすがりたいなにかにむけて

運命的な何かに向けて

その両手で

いつかはお母さんと同じように筋肉が取れて萎えてしまうその両手で

大事とされることが書かれた紙をおもうさまやぶいたのだ

本じゃなくてわたしを生きがいに

いや、それもまた重たいから

わたしはあなたの分身じゃないし

わかってあげられる相手でもないよ

もうひとりのあなたをみないでわたしばかり見ても

なにも見えてはこないよ

きれいにきこえる言葉にそんなに怒れないのは

わたしが幸せだったからなのかもしれない

わたしが恨んで泣いていたほど

状況は絶望的ではなかったのかも

それでも

わたしの罪も

あなたの罪も

消えない

生まれでたことで原罪を背負う

原罪を意識することでわたしは生まれ直した

わたしはいくらかのひとのいくらかの生きがいを破いた罪を

その35倍くらいの人の生きがいを取り戻そうとすることで

あがなっている

びりびりにやぶかれた生きがいの創造と

アメリカインディアンの教えは

わたしの本棚にずっとある

ページが抜け落ちたまま

ぐちゃぐちゃにかびて古ぼけたまま

ひさしぶりにPCからブログを更新します。

ちゃんとして長い文章を書こうと決意したのです。

習慣化して毎日いっぱいかくぞ。楽しみにしていてね。

 

この1週間いろいろなことがありました(という前置きは果たして必要なのかとニュース番組でも思ったりする)

 

まず10月5日。念願であったSPIRITのゲスト。2014年かそのあたりに初めて行ったSPIRITですが、夜勤と被ったり疲れ果ててたりしてなかなかタイミングが合わずに、病院勤務時代や訪問看護はじめたての22時退勤時代はほんの時々しか行かれませんでした。でもずっとわたしにとってはあこがれの場所で、ここに行けば最強最先端の詩人やパフォーマーと会えるっていう約束の場所でした。ゲストに呼んでもらえるってわかったとき、夢の一つがかなった気がしてとてもうれしかったです。

セトリはもう順番とか忘れてしまったんだけれど、「不安なんです」と「まんじゅう食べ落ち着く」「ももちゃん親子の場合」を旧作からえらび、新作の「海の母」(これねすごく短くしてココア共和国に応募したんだよ、多分落ちたけど)と「日差しをくれ」をやったような気がします。それだけ覚えてる。あと時間測り間違えてたぶん短くやってしまってもったいなかったな。

コロナ対策で、一時期のようなものすごい大勢が参加してというわけにはいかなかったけれど、久しぶりに尊敬する詩人さんたちに会えてめちゃめちゃテンションあがりました。ビールも飲んだよ。

伊藤晋毅さんの「回復の悦びおじさん」をそにっくなーすがいるときにやるんだって言ってもらえたの面白かったしうれしかったな。どぶねずみ男。さんのラップめちゃくちゃ笑ったな。サンシ・モンさんの弾き語り新鮮でよかったな。大島健夫さんの朗読は強いのに優しくてすごいな。塩谷結さんや三木悠莉さんの1本芯の通った強さには圧倒されてしまう。

 

いいな、いいなと思いすぎると苦しくなったりするんだけれど、素直にいいなって思えたのは多分自信がついていたからだと思います。

10月8日に無事卒業した「虹色じゃむ」でのアイドル活動。

あれね、毎日毎日練習していたわけですよ。合間時間をみつけて歌詞を頭に叩き込んだり、家で呼吸のトレーニングからスケールトレーニングから体幹トレーニングから何から何まで。結構頑張っていました。

グループ活動とか協調性がないから絶対無理とか思っていたけど案外できたし楽しかったし、何より一緒にやっていく人がいたからいい感じに緊張感があって楽しくやれたんじゃないかなって気がしています。グループでの活動のよさがわかったかもしれない。

あとなぜか、アイドル活動でドタキャン癖と遅刻癖が少し治ってきた。うつが抜けたのと仕事の負担が以前よりかは減ったのと、やせて体力がついたのと時期があわさっているから、たぶんいろんな要因があったんだろうけれど、憂鬱感みたいなのは少し軽減してきました。

頑張っていたから、自信につながったのだろうね。

それに結果がわかりやすいんですよね。アイドルの活動は。

応援してくれる人の応援のしかたもダイレクトだし、お客さんが何を求めて来ているのかがよくわかるというか。求めているものもわかりやすいから応えやすいというか。表現活動って多様だけれど、ある意味ではこうしたら喜んでもらえるというのが図式としてもうすでにある界隈という印象をうけました。

それでもライブの予約がなかったり、終演後の物販でぽつんとしていることのさびしさはすごかったですね。コンビニに陳列されているスイーツのような気持ちでみんなの動きを見ていたりしました。

 

文章が汚すぎてじぶんでわらってる。はじめて長い文章を書いた人みたいになっています。

昨日久々にまたギターを弾いていたのですが指がすぐに痛くなってくじけそうになりました。痛くても続けていたら感覚がもどってきました。こうやって書くことも感覚をもどしていくので、読みやすい文章になるまでも少しの間お待ちください。

そのうちnoteに移行する可能性もある。かもね。わからん。

 

今日言いたかったこと。

たくさんの人がライブを見に来てくれました。

たくさんの人が配信を見てくれました。

たくさんの人が、お疲れさまと言ってくれました。

たくさんの人が、いいねをつけてくれました。

たくさんの人が、気にかけてくれました。

こんな普通な言い方したくないけれど、一人じゃないんだなって思えました。たくさんは数じゃないです。数もうれしいけれど、数だけじゃないです。

仲良くしてくれる人がいること、気にしてくれる人がいること自体がめちゃくちゃ奇跡だなあと思います。

人を安心させたり、助けたり、役に立ったり、力になれるような直接的な機能性はわたしには全くと言っていいほどありません。感動させるような才能もありません。それなのにやさしくしてくれる人がいるというのはそれはもしかしたらわたしの才能なのかもしれません。めちゃくちゃやさしくていい人たちを寄せ付ける才能。笑。

 

今日も企画頑張ります。

よろしくお願いいたします。

朗読ナイトとのコラボ企画、「漏毒ナイト 不気味なもの」

Youtubeチャンネル(無料配信) https://youtu.be/92Fpv00m9UI 

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