ぴいなつの頭ん中 -18ページ目

ぴいなつの頭ん中

殻付き。そにっくなーすが言葉を地獄にかけてやる

日曜日、台風がすごい中、たくさんの詩のイベント、お祭り、オープンマイク、パーティ、が重なった。

わたしはもともと約束していて楽しみにしていたケイコさん家の詩の会に出ることにしていた。

雨をよけつつ、投票してから電車に乗って一番乗りにケイコさんの家に着いた。大きな木が目印のあたたかい家だった。


他のメンバーが来るまでの間少しだけ、詩の朗読音源を聴いたり、GOKUさんがつくったCD歌詞カードサイズの詩のアンソロジーを眺めたりしていた。(あれわたしも欲しいな……まだあるかな……)


おもむろに、こんなのもあるよ、とケイコさんが差し出してくれたのは、榎屋克優『ミツコの詩』という漫画。

存在は知っていたが女子高生が詩の世界をパンクな感じでぶち破る系という印象を噂に聞いていて、パンクなものに憧れつつも恐怖を感じてしまう、影響を受けてしまいたくなるけど影響を受けると受けすぎて社会性を放棄してしまう気がする自分がいて、読めないでいた。


けど、もらったので勇気を出して読んでみた。


苦しかった…


伝えようと一生懸命になること、負けを認めること、迸る『伝えたい』の気持ち。日々ロックも好きだったけど、あれを貸した友達が、『日々ロックの主人公みたいなやつが戦争を始めるんだと思うよ』と、思い込みが強く一直線で他のものを見られなくなる主人公を批判していたのを聞いて、熱狂の熱が冷めてしまったことがあった。視点が一個しかないことは恐ろしいことだと思ってしまうのだ。そして、自らの経験から、不器用であることは罪だとみなしてしまって陶酔しきれないのだ。


がむしゃらとか、がんばれば想いは伝わるとか、極端な努力とかは、漫画で読むから面白いし憧れるけど、実際にやってしまうと壊れる。わかっている。やったことがあるから。わかっている。虚構という前提で楽しむものだと。だけど、ロックの世界や詩の世界は、所詮虚構よと目を逸らしきれないほどにわたしにとってリアルだ。


誰かが読まなきゃ、詩なんてゴミだ


体全体で詩を表現するあの人や、憧れているあの人や、嫉妬しているあの人や、気になっているあの人が浮かんだ


怖くて詩の描き文字が読めなかった、でも目を逸らさずに読んだ、何回も咀嚼して、わたしは、負けたくないと思った。閉じられたくないと思った。本だから水が苦手とか、開いてもらってはじめて雄弁になるとか、わたしは自分で自分のページに鍵をかけるような考え方をしていたけど、最近、色々やってみてわかった。

物語を受け入れたり受け入れてもらったりするには自分で自分のページや他人のページを開く勇気が必要なんだ。勇気というと大きすぎるか。そうね、これは、好奇心を活性化させれば、簡単に乗り越えられる。


人が好きな人の詩は、伝えるための詩だから、すっと心に入って来る。人が嫌いな時期に書いたわたしの詩はひどい。聞いた観客の睨みつけるような敵意の視線、拒絶の視線が、頭にいつまでも残っている。先日のポエトリースラムの頃、わたしは疲れ切って、すべての他人が嫌いになっていた。


はじめたての頃みたいに、見るもの聞くものあたらしくて面白くてみんなからいろんなタイプの物語や感情を学ぶこと、楽しむことを、あの時は忘れていたな、と思った



もともと、文フリで売ってた自分の本を、どうしたらもっと読んでもらえるだろうか?と思って、こちらが読んで聞かせてあげればいいかな?と朗読を始めた。たくさんの人に出会ったし、わたしが書いてたものは当初、詩ではなかったが、詩をよむことに憧れ、中学生の時以来の詩作を再開したのだった。朗読向けの詩を書き始め、それを使って無限に表現したり戦ったりすることを覚えた。もっともっと分かられたい、もっともっと分かりたい。言葉の限界はどこだ。言葉の終着点はどこだ。人と話すことがものすごく不得意だった自分が、自閉的な私小説ばかり書いていた自分が、ひとを観察して詩や小説を書くようになった。人に分かられる詩を書くようになった。人が体育座りで思わず聞き入るような、詩を知らない人が聴きながら『面白い』と笑い出すような、そんな作品を書くようになった。


詩の世界のなかではわたしはまだまだ表現的に稚拙なところばかりだし、上手な朗読にはほど遠い。

ライブハウスで暗いと言われたり、興味を持ってもらえなかったり、本が売れなかったりしたこともあった。でも近頃は嬉しいことの方が多い。面白い、かっこいい、芝居みたい、と評価してもらえたり、怖い話をして怖がってもらえたりすると本当に嬉しい。伝わった!とガッツポーズする。


長く詩の朗読を続けている人は本当に楽しそうに日々を生き、日々を詩にしている。悲しいことも嬉しいことも。そこにはやわらかくてあたたかい人の血みたいなものが流れているのが見える。


もっと知られたい。読まれたい。表現を続けて生きたい。人と接することに器用ではないので苦労することは多いが、人と関わって人に聞いてもらう詩を書きつづけたい。

佐々木中だったと思うが、誰にも見せない自分だけのためのものを書くことを肯定している人がいて、わたしはそのことにも元気付けられる。

自分だけのものをこっそりと書きつつ、人と楽しむための詩を書いて読んで朗読したい。


すべての景色を肯定してすべてを面白がり

せかせかすることとのんびりすることをかわりばんこにして

死にゃあしねぇだよ、といつも静かにわらってゐる

さういうひとに、わたしはなりたい。


きょう、ローソンで買い物してレジにいたら、急に知らないおじいちゃんに肘を叩かれた。


ちいさいころの罰ゲームの、しっぺみたいな叩き方。



ん?って振り向いたら、

『蚊だよ!蚊!もう仕留めたよ』

と。



なんのけなしにお礼を言った。

『あ、ありがとうございます』


財布はさわられていないのでスリの類でもないし、肘へのしっぺなので痴漢みたいなのでもない。だから疑うことはない。ただのいい人なのだと思った。孫の柔い肌がかいかいにならないように、みたいなノリで叩いてくれたのだろうと。



あとから考えると、それはもしかしてお祓いだったのかもしれない。

不浄なものがわたしの肘についていたから、わたしは今日、死にたくてたまらなくなっていたのかも。

きょうは本当にひどかった。

自殺一歩手前、首を絞めるか馘になるかの一歩手前だった。

なんとか一日やり過ごしたが、もしかしたらその不浄を、おじいちゃんがたまたま見つけて、取り除いてくれたのかもしれない。

あったかいポケットから出て来た

あったかい手のひらに包まれた

あったかい

キャンディ


いつでも大体溶けている。


包み紙にこれでもかというほどへばりついていてまるで食べられたくないみたいに。

なまぬるさが伝わって来てちょっと気持ち悪くなる。

知らない人の温度は気持ち悪い。

好きな人の温度はあたたかくて、少しでも触れていて欲しいと思うのに。

知らない人の温度は、どんなにあたたかくて優しくて心がこもっていても、どんなにちいさくても、気持ち悪い。


好きな人の温度なら、たとえ針の先ほどの面積でも、うれしいのに。触れる面積が小さすぎて、それがおもむろに痛みに変わったとしても。

口に入れてるうちに変な形にとがっていく飴が舌を刺すように、好きな人の鋒(きっさき)が心を刺しても、そこから流れるわたしと、流れてくるあなたがまざりあって、あなたにわたしの血が付くから、


うれしい。


たぶんわたしは、満たされることはない。

仕事をする上で、


感謝は求めてない…


すぐこうなれ!みたいなのがない…


患者さんが治っていくのは嬉しいしそのために努力するけど、なんかもっとゆっくりなペースが想定としてある



仕事してどんなことが良かったんだろう?


人の考えてることを知れるのが面白かった。

人の多様な生き方や生きづらさを知るのが面白かった。

あとは自然に言葉が出てきたり体動いたりするからわかんないな…素早く要領よくさえできれば、もっとなんか臨床向いたのかもしれないけど。


なんで大人になってから、出来るようになることがどんどん減るんだろう?

時間がないから無理かもって諦めてしまうし、すぐに疲れるし、すぐに倒れるし、弱い。もっといろんなことやれるはずなのになんでなんでなんで。


熱くなりたいのになれない。


不安に突き動かされてめちゃくちゃに努力したりしたいのに、その前に体がついてこない。恐怖で簡単に動けなくなる。病気だって、ほんとうなら振り払ってしまいたい。なきものにしたい。でも確実にここにあってさいなむ。


こんな不健康な生き方するはずではなかったのになあ

夢の中で音が鳴ってたりカラーだったりするとすごく安心する。黄色の電車に緑のヅラ被ったひとたちが乗ってて(車掌も緑のロングヘアのおっさん)、実家が広くなってて友達一家が住んでてひぐらしが鳴いてた。犬とまた暮らせるんだ〜とか思ったのにね