ここのところ自殺した人の本を読むことがあって、
二階堂奥歯『八本脚の蝶』の読み返し(もう何回目になるんだろう?ページによっては覚えるほど読んだところもある)、南条あや『卒業式まで死にません』を読み返し。シーラッハ『刑罰』は6月に出た新刊コーナーで気になって買ってその日のうちに全部読んでしまったんだけど、あれも悲しい話ばかりだった。元気の出る小説ややる気の出る小説を読まなきゃ!と思ったけれど今のわたしの手元にあるのは、碧野圭『書店ガール』と森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』あたりだろうか。やる気出るか?うーん、イマイチかもしれない。職場の取締役がみんなに配った『覚悟の磨き方ー超訳 吉田松陰』はまあまあやる気出るけど、あれ持ち歩いたり通勤時に読むのもなんだか恥ずかしいし。
冒険譚よりもルポや日記の方が好き、ファンタジーよりも警察24時の方が好きだったわたしには、いま挙げたもの以外ではほぼ全部、カタルシスを誘う、こじらせるととても心が辛くなる文学しか手元にない。
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高校生の時に母親からメンヘラについて教わって、わたしはそれなんじゃないかなんて少しだけ思ったり思わなかったりして、でも人を異常に恐れていた高校生時代の自分の様子は、いま仕事で関わっている患者さんたちの病歴に書かれている発症のきっかけと酷似していたりもした。
わたしはなるべくして病気なんだろうか。悩みがほとんど病気のことや体のことになってしまう。考え事はぜんぶ悲観的な今後のことや、悲観的な過去のこと、通りかかる女性のファッションセンスがあるかないか(勝手に点数をつけるのが好きだ)、交通無法者やアイアムアルールな人々に対する呪詛、そんなのばかりだ。
不安にばかり身をやつしているとたぶん脳みそが縮んでいく。少しくらい減速したほうがいいかと思って自分の人生を低める努力をしてみるもそんなのは簡単に遂げられ、減速前の自分も大したことがなかったのだと今更にして気づかされる。
頭の中に言葉がいっぱいあったり、少しの刺激で性器がしっかりうるおったり、そういうのは加齢とともに変わっていくのですか?
今を生きるので精一杯とか言えないほど悲観的なことをたくさん考えていたのにもかかわらず、こんな未来は予想できてなかった。
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元気になれる本を読もうと思った。わたしは本棚をめちゃめちゃに漁った。しまうところがわからなくなりそうで、今ただでさえ仕舞われていない本がたくさんあるのにしまうところがわからなくなったらますますやばいという思いがあたまを過ったけれど、またいつでもしまい直せばいいと自分に言い聞かせた。いつでも、一旦ダメになると完全に全部がダメで突如タイキックで殺されてしまうんだという思考がどうしてもやまなかった。
江國香織『すいかの匂い』を取り出した。
ずっと好きなわたしのバイブル。
小学生の時に買ったのだ。新潮文庫のおまけのYonda?君のグッズが欲しすぎて、新潮文庫をいつでもチェックしていた。昔から読書家というわけではなかったわたしの当時の愛読書はアンネ・フランク『アンネの日記』と秋月さやか『細密 夢占い辞典』だった。
すいかの匂いのすごさは、生きている少女の感覚だと思う。偽りの、創作者と読み手たちの理想像の中でつくりあげられる「少女」ではなく、ほんものの生きた少女の生きた感覚がこの小説に出て来る女の子たちにはある。
手汗をスカートで拭いたり近所の落とし穴にひっかかってびしゃびしゃになった靴をくちゅくちゅ言わせながら泣いて帰ったり、給食の匂いや新幹線を大嫌いだと言ったりする。そして少女のまま不思議なものやうつくしいものや気持ち悪いものと出会う。身近なようでいて不思議なものたちと出会う。それはわざとらしい首の傾げとともに触れるものではなく、ほんものの少女らしい残酷さや好奇心で掴まれるかのように触れられる。
蕗子さんが読みたくて再度手に取った。蕗子さんは憧れの人だ。けどすぐに死んでしまいそうに思う。案外体力あるから大丈夫だろうか。
わたしはこの作品に出て来る、逃げた鳥たちやいじめられたものたちの逃げた先にできる共同体を『鸚鵡の国』だと思っていたが記憶違いで、『インコの村』だった。全然違う。やばい。今度の新作に『鸚鵡の国』って書いてしまった。わたしの考えた架空の国っていうことでいいか。どうりでググっても出てこないはずだ。(ググって出てこないことが最近ありすぎて困っている)
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本をきちんと読んでおきたくて、というか最近回復して本をきちんと読めるようになったので、爆速の勢いで読書している。読書したいと思って参考にするのが『八本脚の蝶』なのだから読書したいになるたび奥歯さんへの憧れが強まっていくのは当然の流れだ。そして化粧品や服や本にお金が費やされていく。
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マニアフェスタに出展されていた、メンダコのガラス細工欲しかったなあといまさら思う。