渡辺繁一のブログ -48ページ目

渡辺繁一のブログ

演出の効果を設計する

緊急な時間が無い仕事は、暴走しながら考えるのか?突っ走っている時は、視野が狭くなる、目標しか見えないそんな状況かも知れない。以前の僕はその先頭に立ち、あらゆる失敗のリスクにさらされていた。

ラッセル車の様な仕事のしかたをしていた。

奴にやらせればななんとかなる。そう、僕の後には路が出来る。

失敗しない事は当たり前の条件、でも結構ハードルが高かったりする。僕が失敗する事で、うまくいく人もいる。

負ける人がいるから、勝つ人がいるのだ。成功する人の為に喜んで失敗したリソースを提供することが、自分の貢献の意識であると考えた事もあった。

でも、失敗してばかりいると、失敗する事が段々無くなってくる。

今、僕は、突っ走る電車を上や、横や、正面から見る事で、問題を見つけてあげる事が出来ると考えている。

同じ電車に決して乗らないようにしている。同じ電車の同じ視野で考えると猛スピードの電車は視野が狭いのだ。

世の中には、自分が先頭にいるのに、それを他のだれかに委託して、パフォーマンスが悪いと批判する人種もいる

まわりの情報が一切見えない、問題がある事すら解らない、このきわめて危険な状況下では「本当の問題はこれですよ」大きな声で言ったところで、先頭にいる人は、聞く耳をもたない。彼にとっては雑音なのだ。

これは本当、実際自分がそうだった。

リスクのオンパレードの様なプロジェクトを何度か行うと、アタマで考える力が変に付きすぎる、それは、テクニック的には有効かも知れないが、セルフイメージは荒んでいく。

他人からサゼッションを受けたぐらいで、自分のやっている事の方向性をふらふら変更する事はそれ自体で問題、だから私はその本人が「気づく」ことが必要であると考える。

良いアドバイザーはクライアントに気づきを与える。情報提供者は、これをやってはいけない、これをすれは成功するとテクニックを吹聴する。
昨日のセミナーで又村紘氏から聞いた言葉がココロに刺さった。

「このセミナーのコンテンツ、いったいどのぐらい時間がかかったと思いますか?」

と言う質問だった。

僕は、丸々1日と答え、また別の人は1週間?と答えた。

彼の答えは

67年。

つまり、生まれてから現在に至まで。

これもまた自分を愛しているからこそでる答えだと思った。

短時間で出来た事を自分の能力が優れているかのように表現する考え方もあることも事実だが。

上辺だけでそれを表現する事は、それだけの時間しか費やしていません。と解釈される可能性があり危険である。

無節操な最近の傾向では、値切られる対象としてとらえられない。

その仕事が自分のコア・コンピタンスであればなおの事。

その時間でその仕事が出来るために生涯、その経験がかかっているという

自分自身への尊重が必要なのだ。
徹底的にこだわりを持つ、相手の顔色を考える事無しに自分が良いと思った事、好きな事を進める。

今日までそんな単純な事ができなかったのは何故だろう?

人の顔色を伺うのは自分を出す勇気が無いから、

否定される恐怖感が頭を過るのだろうか?

嫌われる事も、
批判される事も、
無能よばわりされる事も、
空気が読めないやつだと冷ややかな目で見られる事も、

それがどれだけのもんだろうか?

そんな事で、自分のココロがゆらいでしまう事こそが馬鹿げたもんだと感じた。
何を得たいのか?




人は得欲(えよく)、何かを得たい欲があるのではないかと思う事があります。

お金、車、家、友達、家族、恋人、ペット、アクセサリー、そして、自分の身体、

人は得たものを失ってしまう事に恐怖を覚えます。

それを守り抜くために多大な努力をします。

その努力の為に 本当に得たいものが見えなくなってしまっているのではないかと・・・・・

本来の努力は、得たいもの(これは目標という言い方ができるのかも知れません)ために振り向けられるべきものであると感じる必要があると思います。

本当に得たいものがあり、その為に決断と行動ができるのであれば。

失うものに対して執着が無くなる。失ってしまう恐怖に勝つ事ができる。


望月俊孝先生のブログから

アンナプルナ第一峰登頂は、
人間の意志の勝利といわれているが、
隊員のラシュナルとともにアンナプルナの頂に立った
モーリス・エルゾーグ(1919~)隊長は、
勝利の代償として手足の指をすべて失った。

下山中に嵐につかまった彼らは、
生死の境をさまようことになったのです。

27キロも体重が落ちたというほど過酷な登山に、
12人のチームを率いて挑んだ当時31歳の
若い隊長であったモーリス・エルゾーグ。

(中略)

その偉業を祝うパーティーの席上で語った言葉。

『他人は、失ったものに目を向けますが、私は得たものに目を向けます』