後に世界のHOKUSAIとして有名になった葛飾北斎(1760~1849)は、画狂人を名乗って90年の生涯を好きなことだけして生ききった人物です。本稿で北斎について論じる前に、まず基礎知識として以下のような江戸期の文化と景気の動向を提示しておきます。
――好況:元禄期(1688~1704)、田沼期(1772~1786)、文化文政期(1804~1830)…経済が活況となり町人文化も花開く時代。
――不況:享保改革(1716~1745)、寛政改革(1787~1793)、天保改革(1841~1843)…武家と儒学者が朱子学に基づいて統制する時代。
葛飾北斎は、田沼時代末期から天保年間までを時代に翻弄されながら絵師として生きました。江戸の三大改革時代は、武家社会の規範とされた朱子学が重視され、政治批判を含む出版物や浮世絵などの町人文化は「風紀を乱す」ものとして厳しく統制され、同時に物価上昇を抑える経済的抑圧も強まったために景気も冷え込み、相乗効果で文化が没落していきました。特に文化統制が激しかった寛政の改革では「白河の 清きに魚も 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」という有名な狂歌も詠まれました。
・田沼意次の経済政策
北斎(初期は勝川春郎と名乗った)が絵師として活躍し始めた頃は田沼時代ですが、この時代のことを少し記しておきます。
①都市部の商工からの徴税
貨幣経済の主役となった大都市の商売人や職人に、株仲間として既得権を守った上で課税しました。それまで幕藩諸侯は農民からしか徴税していなかったので画期的でした。このことは重農主義だった中世が終わり、重商主義の近世に突入したことを伺わせます。
②東西貨幣圏の統一
当時、江戸は金貨、上方は銀貨が基軸通貨でした。江戸では二朱金8枚=一両でしたが、新たに全国で発行した二朱銀8枚も一両と交換できるようにしました。こうしてカネの価値を下げると発行する側の得となり、同時に物価も適度に上がって景気が良くなりました。つまり、これはケインズ主義における金融政策です。
③大規模な公共事業
印旛沼干拓などの公共事業は、農地拡大という表向きの目的よりも、多分野に新たな需要を発生させる景気対策となり、同時に貧困層救済策ともなりました。 これはケインズ主義における財政政策です。
上記②・③で判るように、田沼も前記事で記した「江戸期のケインジアンの系譜」に連なる者です。
※天命の飢饉への対応
火山の噴火に伴う関東から東北にかけての大規模な飢饉に対し、備蓄米のある西国から供出させるべきでしたが、それに掛かる費用を全国御用金令という大増税で賄おうとしました。これが庶民の反発を買いました。また、そんな時に蝦夷地開発を俎上に乗せたため、さらなる反発を呼び、これらが田沼失脚につながりました。
・江戸期の景気変動への漸近線~三大改革と吉原
元禄の好景気は豪商だけが儲かる時代であり、これを経て八代将軍・徳川吉宗が行った享保の改革は、豪商に自粛させるための朱子学的規制強化で経済と文化を傷めつける緊縮政策でした。ゆえに経済的にも不況となりました。次の田沼意次は積極財政に舵を切ったから好況でしたが、その次の老中・松平定信による寛政の改革は、またしても朱子学に基づく緊縮政策であったため大不況となりました。この頃に詠まれた有名な落首が前掲の「白河の 清きに魚も 住みかねて 元の濁りの 田沼こいしき」です。そして、奢侈を好む11代将軍・徳川家重の下で空前の好景気に沸いた文化文政期(化政文化)を経て、水野忠邦が行った天保の改革では、またしても緊縮政策を強いたために再び大不況となり、一揆や打ちこわしが各地で頻発し、その最大規模のものが陽明学者・大塩中斎の起こした大塩平八郎の乱です。この頃の大不況の鬱屈が後に260年間も続いた幕藩体制を終わらせる原動力となりました。ちなみに「富嶽三十六景」を描いた葛飾北斎の絶頂期は、ちょうど文化文政期が終わった辺りで、浮世絵も最も売れていた時代だと思われます。
さて、田沼時代末期から寛政の改革期に活躍した絵師の一人に喜多川歌麿がいますが、美人画を得意とする歌麿は吉原の遊郭を活動拠点としていました。吉原を始めとする遊郭(公許の遊女屋が集まる地域)は景気の影響を最も受ける場所だと言えるため、江戸期の景気変動に迫るための漸近線として吉原をも採用することにします。
吉原の客層は、1600年代:大名・武士→1700年代:豪商→1800年代:一般の町人と落ちていきましたが、そうなった理由は安い私娼窟が周辺に蔓延ったことが大きく、それゆえ公許の吉原もダンピングに応じざるを得ず、やがて吉原でも働きすぎた遊女が10代で次々と死んでいく程にブラック化していき、1849年には梅本屋の遊女16人が現状を訴えるために死罪を覚悟で放火しました。ここまで遊女を追い詰めた遠因としての私娼窟乱立や公娼のダンピングが起こった背景には、幕府が朱子学に基づいて文化と経済を締め付けた享保・寛政・天保の各改革期に大不況になったせいだと考えられます。
ちなみに梅本屋の放火事件を起こした遊女16人を死罪から遠島へ減刑したのは北町奉行の遠山金四郎(金さん)です。
・映画「HOKUSAI」を論評する
時代背景は以上のような流れであり、劇中では寛政の改革期から始まります。版元(今で言う出版社)の蔦屋重三郎(阿部寛)は、お上による度重なる文化統制にも負けず、美人画の喜多川歌麿(玉木宏)や役者絵の東洲斎写楽(浦上晟周)を見出し、その得意分野を描かせて浮世絵版画を売りまくっていました。江戸で最も売れる版元になってからも貪欲に絵師を求め、勝川春朗と名乗っていた頃の北斎(柳楽優弥)にも目を付けました。この時代は商才に長けた版元の見出した天才絵師たちがひしめく時代だったと言えます。遊郭に住んで花魁を描く歌麿からは「お前の描く女には色気が無い」と言われ、彗星のごとく現れた年下の写楽からは「自分が描きたいものを描いているだけ、それが何か?」という態度を取られ、まだ心から描きたいものを見出せていない北斎は打ちのめされました。絶望のうちに旅先の海岸で入水自殺を試みた時、北斎は波間に漂いながら自分が描きたいものは自然の景色、特に波だと感得し、ついに描きたいものが見つかったと蔦屋重三郎に「江島春望」を見せました。程なくして重三郎は江戸患い(脚気)で亡くなりましたが、欧州の印象派にも多大な影響を与えた北斎を見出した功績は世界史的にも大きいと言えましょう。北斎は戯作者の滝沢馬琴(辻本祐樹)と組んで黄表紙本に挿絵を描くなどして大いに活躍し、コト(瀧本美織)と結婚して娘お栄も生まれ、順風満帆の絵師人生を歩んでいました。
時は移って40年後、文化文政年間は町人文化が花開き、空前の好況に沸いた頃です。北斎(田中珉)は総白髪となっており、妻を亡くし娘お栄と暮らしていましたが、創作意欲は全く衰えず画業に勤しんでいました。脳卒中を患い手に後遺症が残っても諦めずに克服し、なんと齢70を過ぎてから「富嶽三十六景」を描く旅に出かけました。また以前から親交のあった武家出身の戯作者・柳亭種彦(永山瑛太)と交流を深めていましたが、時代が天保の改革期に入ると再び出版物への規制が厳しくなり、高屋彦四郎(種彦の表の顔)の上司である小普請組の永井五右衛門(津田寛治)は、彦四郎の裏稼業に気付いて戯作を止めるよう迫りました。しかし、何かに突き動かされるように創作に没頭してしまう表現者は、例え命に危険が迫っても表現(執筆)を自粛することが出来ず、ついに種彦は公儀によって粛清されました。北斎の晩年の肉筆画「生首の図」は種彦の死を悼んで描かれたものでした。また、富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」を始めとする波の絵は、晩年の「男浪」「女浪」にも表れている通り北斎のライフワークとなりました。
・自粛か反骨か
本作「HOKUSAI」には裏のテーマとして「権力による表現規制」を問題視する意図があると思われます。柳亭種彦を殺した御公儀への抗議として「生首の図」を描いた件では、自由なる画狂人・北斎の反骨精神が炸裂していました。弟子の高井鴻山(青木崇高)が北斎を匿い、結果的に絵も公開されませんでしたが。
翻って現代日本では、第一権力・マスコミが新型コロナ感染拡大を理由に自粛を強要し、民(主にコロナを怖がるリタイア世代)もこれを支持し、政権は世論(有権者が多いリタイア世代)に逆らえないために自粛政策を続け、民(主に現役世代や若者)の表現・思想・集会・移動・営業の自由を侵しています。さらに、生きる糧や希望を失った民(主に若者・女性・子供などの弱者)が自死に追いやられ、にも拘らず表現者も識者も反骨精神を示さず、描かれぬままの生首が辺り一面に転がっているという惨状を呈しています。そして、テレビ視聴者らは「富嶽」ならぬ「富岳」の計算した飛沫映像に怯えたまま他者に自粛とワクチン接種を強要し続け、やがて旗色が悪くなってくると「三十六計逃げるに如かず」と遁走を図るのです。
・感染者数の波と景気の波
北斎と言えば「波」ですが、現代日本を語る上で欠かせないのも「波」です。新型コロナ感染拡大の「第6波が来る」という言い方がなされると、またも不要不急と認定された産業が「補償なき自粛」を要請されます。ちなみに、日本人を含む東アジア人にとっての新型コロナは旧型コロナとの交差免疫が働くため全く恐るるに足らず、従って自粛もワクチンも全く必要なかったのであり、注目すべきは感染拡大の「波」よりも死者数の「波」だったのです。当然ながら死者数の「波」は凪(orさざ波)であり、また感染者数の「波」とて、PCR検査の感度(サイクル数)が高すぎるために他病死も事故死も自死も全てコロナ死に計上できてしまうという詐欺のような状態です。これはPCR検査が斜陽産業にとって利権化したことの証左です。また副作用死が1200人を超えても隠蔽を続けていますが、これはファイザー・モデルナ・アストラゼネカなどグローバル製薬企業との契約により、東アジア人における接種後の治験データを報告する義務が課せられているためでしょう。さらに日米FTAや日欧EPAのISD条項により、ワクチン接種のリスクが周知された場合、本来なら得られたはずの利益を毀損したとしてグローバル企業が日本政府を国際司法裁判所に訴え、日本政府は必ず敗訴して莫大な賠償金を払わされることになります。また、緊縮財政下の日本では診療報酬が低く抑えられているため、医師や病医院経営者にとってワクチン利権は手放せないはずです。
そして、不景気が続いている時には「景気の波」(景気循環)というものが信じられます。早く次の好景気が来ないかなぁ?と痺れを切らした国内グローバリストはグローバル化改革に邁進しますが、景気を左右する取引の増加は外需か内需が増えた時だけなのであり、欧米外資の要求する改革(日本市場で発生する内需を横取りするもの)は必ず逆効果となります。また、世界中がロックダウンすれば世界市場で需要が冷え込み、日本でも不必要な自粛を続けていますから、外需も内需も消滅している状態です。こういう時は人為的に内需を興す積極財政政策(ケインズ主義)に舵を切るしかありませんが、日本では公債の発行を禁じる財政法4条やプライマリーバランス(基礎的財政収支)の黒字化を強要する財務省設置法があるため、景気の「波」が凪でも、その水位が最低水準であっても、苛烈な緊縮財政を続けるしかありません。そもそも積極財政政策は「大きな政府」志向であるため、緊縮することが自己目的化した財務省からも、「小さな政府」を求める国内外のグローバリストからも敵視されます。日本国内のケインジアンが変死したり逮捕されたるする理由は、この辺りにあるのではないでしょうか。
かくして日本国は、人流を抑制したい自粛派と金流を減らしたいグローバリスト緊縮派に壟断され、無辜の民の生首ばかりが積み上がり、外資グローバル企業群に人命も富も全て差し出す体制が永続していくのです。