「君たちはどう生きるか」を観ましたが、何だか「気持ち悪い」作品でした。これから、この「気持ち悪さ」の正体を考察してみようと思います。
(以下、盛大にネタバレします!)
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1941年12月~1945年8月という非常にセンシティブな時代(大東亜戦争)を日本人が描くにあたっては、3つの方法しか許されていません(※戦勝国なら自国の正義を歌い上げつつ自国民の被害を最大限に訴えることができる)。それは、①戦時下の子供たちを徹底的に被害者として描く方法(火垂るの墓…)、②戦争の倫理的あるいは戦略的な問題を捨象して恋愛物語に一元化させる方法(風立ちぬ・この世界の片隅に…)、③完全なファンタジーに逃避してしまう方法…という3つです。そして、「君たちはどう生きるか」は③に該当します。
劇中の時代は大戦末期の1944年、主人公・牧眞人(まひと)は、軍需産業の工場(主に戦闘機を製造?)を営む男の息子です。大空襲によって母(ヒサコ)の入院している病院が焼け、それによって眞人は母を失い、やがて父は母の故郷へ息子を疎開させますが、既に父は母の妹を後妻に迎えており、叔母の胎内には弟か妹がいると伝えられます。つまり眞人は大変な葛藤を抱えたことになります。父の軍需工場が対米英戦争を支え、それが原因で母が亡くなり、それなのに父は母の妹(ナツコ)を後妻とし、疎開先でも父はカネに物を言わせて眞人の学校での待遇を良くしようと躍起でした。もちろん父は財界の大物ゆえ兵役を免除されているはずです。
さて、ここまで糞みたいなプロファイルの主人公について紹介してきましたが、ここから突然ファンタジーに突入します。死んだはずの実母が生きていると伝えてきた妖鳥アオサギに導かれ、また義母のナツコを攫ったとも言うアオサギを追いながら、館の裏に立つ怪しい塔に迷い込み、そうして眞人は異世界に足を踏み入れました。その異世界はペリカンやインコなどの鳥たちが人間と対立しているという世界観でした。キリコ(♀)とヒミ(♀)は鳥たちと戦っており、二人は白くてふわふわした物体(わらわら)をペリカンから守っていましたが、この"わらわら"は未だ生まれる前の人間のようでした。しばらく眞人らの異世界での冒険が続きますが、やがて、「幕末期に空から降ってきたとされる搭」を守るように館を建てたと語る大叔父と異世界で出会います。大叔父は、この異世界を維持するために13個の石をバランス良く組み立てていました。ここで眞人は異世界に引き籠るか元の世界に戻るかの決断を迫られます。異世界で一緒に戦ってきたヒミが実は母親のヒサコだと知り、さらにキリコが現実世界で世話を焼いてくれた婆やの一人だとも知った眞人は元の世界に戻ることを決断します。
ところで、現実世界に戻った眞人が何だか大団円的な結末を迎えたように見せていましたが、戻った後の眞人らは実際どうなるのでしょうか。眞人は、軍需産業で戦争継続を支えただけでなく政商として政治を開戦に向けて動かしたかもしれない父(やがて財閥解体&公職追放のWパンチに見舞われる)の息子に戻ることを意味します。おそらく、ゼロ戦開発者としての堀越二郎(風立ちぬ)よりも厳しい戦後を生きることになるでしょう。コミカライズされた『君たちはどう生きるか』は級友へのイジメを止められなかったコペル君が罪の意識で悩み続ける話ですが、本作では何千何万という清太や節子(火垂るの墓)、北条すず(この世界の片隅に)らの命を奪った罪を背負って苦しみ続けるに違いない(※実際に命を奪ったのは民間人居住地への絨毯爆撃を立案したり原爆投下を決断したりした米軍トップや実際に遂行した米軍人、および原爆開発者たちであることは言うまでも無い)からです。また、たとえ大東亜戦争の開戦責任や、それに先立つシナ事変長期化の責任が軍部や軍需産業ばかりでなく、好戦的な報道を繰り返したマスコミや好戦的な気分を盛り上げ続けたファシズム的世間にも十分すぎる程の責任が有ったとしても!にも拘らず戦後の国民が戦争責任を全て軍部に押し付けたとしても!眞人は心理的な責任からは逃れようもないのです。潜在的な開戦責任者としての父と向き合うことを避けた時点で、もはや彼は「そう生きる」しかなくなっていたはずです。
ところで、冒頭で触れた「気持ち悪さ」の正体です。観劇中に私は、本作にはエヴァンゲリオン的な隠喩を多く含んでいると感じていました。父との強い葛藤、母に救われる展開、嫌なことから逃げるか否か?、"わらわら"=ガフの部屋、13個の石=13体の使途…といったものです。新劇場版の最終章「シン・エヴァンゲリオン」で碇シンジは、ケンスケやトウジ、そして新たに参加した共同体で出会った人々との共同生活の中で絆を結び、レイ/ユイを巡る父ゲンドウとの対決でキッチリ落とし前を付け、もちろんアスカも救い、そしてマリと共に現実を生き直す決断をしましたが、父ゲンドウとの葛藤その他から逃避したままアスカに救いを求めたファンタジー作品「Air/まごころを君に」では、アスカに「気持ち悪い」と言われて唐突に終幕しました。「君たちはどう生きるか」にあるのは、この「気持ち悪さ」だったのだと思われます。それは眞人が父と対決しないまま終幕を迎えたことに起因すると考えられます。
さて、せっかく「火垂るの墓」にも言及したので宮崎駿氏と高畑勲氏の関係にも触れておきます。二人を最もよく知る鈴木敏夫氏は「宮さん(宮崎駿)は実はただ一人の観客を意識して映画を作っている…宮崎駿がいちばん作品を見せたいのは高畑勲」と語っています。また「高畑勲に自分の全青春を捧げた」という宮崎の言葉も明かしています。つまり宮崎駿氏が父性を感じる対象は高畑勲氏なのかもしれません。高畑は「火垂るの墓」や「かぐや姫の物語」「おもひでぽろぽろ」などの創作物から「左派」であることが伺い知れます。宮崎は「ノンポリ」のはずですが、「風立ちぬ」に代表されるように「兵器オタク」であることも知られています。その兵器オタクの系譜は「エヴァンゲリオン」の庵野秀明に受け継がれている気がします。ちなみに「風立ちぬ」で堀越二郎の声を演じたのは「エヴァンゲリオン」シリーズをつくった庵野秀明氏です。庵野氏は「シン・エヴァンゲリオン」で自らの父との葛藤に整理を付けられたのかもしれませんが、高畑亡き後の宮崎氏は「君たちはどう生きるか」でも逃避したのですから、これからも氏の創作意欲は枯れることなく続くと思われます。もはや彼は「そう生きる」しかないはずなのです。