第169号 沖縄慰霊の日に | 燃え上がれ!NATTO-TIMES 21st century

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知られざる世界を、薫り高く、粘り強く語る、炎のブログ

 伝へたいことはいくらでもある。NATOの拡大が世界に危機をもたらしていること、ゼレンスキー政権が野党を禁止して一党独裁を続けていること、ウクライナの生物化学研究所がアメリカの支援を受けていること。

 

 鹿児島県の馬毛島に巨額の税金で戦闘機の訓練場が造られやうとしていること、高毒性物質PFOAによる汚染が全国的に進んでいるのに政府が全く対策を取らうとしないこと。

 

 岸田政権は消費税増税とインフレ誘導をしやうとしていること、外環道とリニア新幹線のトンネル工事で陥没事故が多発するのではないかといふこと、自然エネルギーに頼ると電力料金が高騰すること、ガソリン車から電気自動車への転換は原発再稼働につながること。

 

 まだまだいくらでもあるが、書けないうちに時が過ぎて行く。

 

 2009年に自民党から民主党への政権交代が実現したとき、やっと希望が見えたかと思ったが、自民党が長年進めてきた原発が2011年に火を噴いたことがキッカケで、最後は野田政権が消費税増税に転じたことにより、政権は自民党に戻ってしまった。

 

 安倍政権になってからこれまで10年近くは、政治は腐敗と堕落、経済は転落、社会はモラルの崩壊を続けてきたから、10年前にまだ子供だった今の20代から下の世代は、世の中とはそんなものだと思っているだらう。

 

 泥くさい川に住む鯉には、渓流の清らかさや大洋の広大さが想像できないやうに、今の日本の子供たちは夢のある社会を思ひ描くことができない。

 

 最近、良いことが一つだけあった。杉並区長選挙で、立憲民主党・共産党・れいわ新選組・社民党・生活者ネットワークが推薦する国際NGO研究員の岸本聡子氏が、187票といふ僅差乍ら競り勝ったことだ。

 

 野党が共闘すれば勝てることを示す格好の例だ。参議院選挙もかうあってほしいものだ。岸本氏は、区が進める児童館や福祉施設の再編の検証と見直しや、学校給食の無償化などを訴へていたとのこと。実現すると良いが…。

 

 

 

 

 何はともあれ今日は、忘れてはならない沖縄慰霊の日である。1945年6月23日、司令官の牛島中将が「最後の一人となるまで戦へ!」と言ひ残して自決した日だ。

 

 沖縄島に米軍が上陸してきたのは4月1日。海が何百何千といふ戦艦や上陸艇で真っ黒に埋まり、猛烈な艦砲射撃が始まったといふ。弾が飛んでくるなどといふ生やさしいものではない。雨嵐と降り注ぎ、襲ひ掛かる砲撃は「鉄の暴風」といふ名で伝へられている。

 

 首里にあった日本軍はたまらず南方へと敗走を始めた。このとき軍と反対方向の北へ逃げた人たちは大半が助かった、と聞く。実際、ワシの知人のお母さんは北へ逃げて命拾ひしたとおっしゃっていた。

 

 これが運命の別れ道になった。軍と同じ南方へ逃げた人々は悲惨な運命を辿った。軍の足手まとひになると判断され、手榴弾を囲んだ自爆死を強要された例も多数報告されている。「集団自決」と呼ばれてゐる。

 

 中には手や足を吹き飛ばされて生き残った方もたくさん居る。家族や知人・友人と自らの手足を失ひながら生きた戦後の人生はどんな心境だったのだらうか。(灰谷健次郎の小説「太陽の子」に出てくる左腕のない「ろくさん」もその一人。読んでみて)

 

 昼間は外に出ると死んでしまふので、ひたすら隠れ場所を探す。沖縄の海沿ひは、もと珊瑚礁なのでその石灰質が溶けた後が洞穴のやうに空洞になっているところがたくさんある。これを「ガマ」と呼ぶ。みんなこのガマに隠れてゐたといふ。

 

 ところが人でいっぱいのガマに後から来た人は入れない。入れなかった人たちは、また砲弾が降り注ぐ中、次のガマを探して歩かねばならないのだ。

 

 やっと入れたガマでも、赤ちゃんが泣き出すと「アメリカ軍に見つかるから殺せ」といふ声に、我が子を締め殺したといふ例も一つや二つではない。

 

 もっと酷いことに、日本軍の兵隊がやって来て「俺たちは天皇陛下のために戦はねばならぬから出て行け」と銃を向けられて追い出されたといふ話も多い。

 

 みんな、よく覚えておいてほしい。軍は民を守るためにあるのではない。軍は軍自身を守るやうに出来てゐるのだ。沖縄だけではない。満州の関東軍も、ソ連参戦に恐れをなして民間人を置き去りにしたまま真っ先に逃げ出している。(逃げた後に橋を壊して追撃を妨害した。では、後から来る避難民はどうしたか…)

 

 沖縄戦最後の戦闘の地となった糸満市摩文仁の丘に沖縄戦祈念館がある…って、今もあるのか知らないが、もう40年近く前に、体験者の手記を読む部屋で数時間、その手記を読んでいたが、…その内容は、もう本当にこの世の出来事とは思へない地獄だった…。

 

 ガマにも降りた。平良修といふ有名な牧師さんの息子である暁生くんの案内で入った(暁生くん、読んでくれてる?) 。入り口に近い方に低い石の壁があって、「そこに座ってみて下さい」…で、座ると「懐中電灯を消して下さい」消すと真っ暗、漆黒の闇だ。…数十秒後「点けて下さい」

 

 「実はそこに遺体が座らされてゐたんです。米軍が入ったとき、脅かすために…」ゾウっとしたのを覚えている。

 

 車で走りながら、「あの家を見て下さい。人影もなく、朽ちているでしょ」…「一家全滅の跡です」

 

 その後知ったことだが、一家全滅ではなく、乳幼児だけが生き残って、自分が誰だか分からない子もたくさん居たといふ。そんな方々も、いま生きていれば齢80前後になる。

 

 このときの体験は、モノすごい衝撃だったらしく、身体は正直で、帰りの船内(2日かかった)で体中に発疹が出始めたので、必死に隠し乍ら下宿に帰り、翌日皮膚科に行ったが「原因不明」「病名不明」と言はれた。

 

 看護婦を集めて、ワシの背中とお腹を見せていた。実に失礼な医者だが…、そのくらゐ珍しい症状だったといふことだ。

 

 人の身体と心は、かくも一体なのだと思ひ知った事件であった。

 

 沖縄戦は県民80万人のうち20万人の命を奪ひ、多くの犠牲を払って終はったが、戦後はアメリカ軍の統治下に入った(昭和天皇がマッカーサーに、さうしてくれと言ったからだ)。平和憲法を持つ日本への復帰を願ふ沖縄の人々の願ひは1972年に叶ったが、今でも在日米軍の7割が、面積0.8%の沖縄に集中してゐる。

 

 基地周辺では、飛行機やヘリコプターの騒音に毎日悩まされ、ときには墜落してくる。帰国直前の米兵は犯罪を犯して基地に逃げ込み、そのまま帰国してしまふ。

 

 日本政府はそれらを放置しているばかりか、日本国民の税金を莫大に投じて名護市のマヨネーズ上の地盤の上に、新基地を作らうとしてゐる。珊瑚礁を殺し、ジュゴンを追ひ出し、泥を投げ込み、コンクリートで固めて…、永遠に完成しない工事を続けて…。

 

 黙っていても政府の暴挙は止まらない。声を上げやう。

 

 安全保障イコール防衛力強化ではない。防衛力イコール軍事力でも兵器でもない。平和は人の心の中に作り出すものなのだ。武器は要らない。ミサイルも戦車も戦闘機も空母もいらない。

 

 砲弾も銃も捨てやう。人を育てやう。人を大切にしやう。人を守らう。世界中の人々と友だちにならう。

 

 今回はここまで。

 

(2022年6月23日 第169号お終ひ)