赤備えを率い、その精強さで知られた『山県昌景』 長篠で戦果をあげるも味方の敗走で壮絶な討ち死に | ナツレのツレヅレなる何か

赤備えを率い、その精強さで知られた『山県昌景』 長篠で戦果をあげるも味方の敗走で壮絶な討ち死に

山県昌景(やまがたまさかげ)は、武田氏の侍大将として知られる武将です。綺羅星の如くいる武田氏の武将の中でも、とくに武田四天王と呼ばれた将の一人です。また、武田軍団の代表的な部隊である「赤備え」を率いたことでも有名です。彼は戦場でその名を馳せていますが、実際には奉行や外交においてもその手腕をマルチに発揮し高い評価を得ています。

 

■『どうする家康』での山県昌景

大河ドラマ『どうする家康』では、橋本さとしさんが威風堂々な武田の筆頭家老といった姿を披露してくれています。

山県昌景は一般的には、豪傑ながらかなりの小柄で容姿も劣っていたと言い伝えられています。しかし、その身体的な特徴にもかかわらず、威厳があり武勇において優れていたため、敵は彼の姿を見ると「信玄の小男が出た」と恐怖したといいます。

ただし、『近代武勇記』には「大剛の士」とも記されており、『どうする家康』ではこの説が採用されたようです。川中島合戦で六尺四寸(190㎝)もある鬼小島弥太郎と互角の一騎打ちをしたというエピソードもありますので大剛の士であっても不思議ではありません。

 

山県昌景(やまがたまさかげ) 飯富(おぶ)、源四郎、三郎右兵衛尉(さぶろうひょうえのじょう)

武田信玄の側近。飯富虎昌の弟とされるが異説あり。

永禄4年(1561)、第四次川中島合戦に参戦。

永禄8年(1565)10月、飯富虎昌による信玄弑逆の「義信事件」について告発し、山県の姓を賜った(甲陽軍鑑、大成)。

永禄11年(1568)正月22日、会津蘆名氏の家臣久徳斎に書状をおくり上杉謙信を攻めたいという要望を伝え、以降蘆名氏との取次を務める。

永禄12年(1569)、今川攻めにおいて、遠江を無断で攻めた秋山虎繁の振る舞いと、駿河で今川方と勝手に人質交換をしたことに抗議した徳川家康に対し、その重臣酒井忠次を通じて折衝した。

10月6日、北條氏との三増峠の戦いにおいて、信玄本隊の窮地を救い勝利に導く勲功第一の働きをみせた。

元亀3年(1572)10月、別働隊を率いて三河へ侵入し三方原(みかたがはら)の戦いに参加。

天正元年(1573)8月25日、信玄を継いだ武田勝頼より三河長篠城支援を命じられる。

天正3年(1575)、三河出兵において別働隊を率いる。5月の織田・徳川連合軍との長篠合戦においては撤退を主張するも受け入れられず設楽原(したらがはら)において戦死。

 

■三方原の戦いにおける山県昌景

三方原(みかたがはら)では秋山虎繁(あきやまとらしげ)とともに別働隊を率いて信州へ迂回し北方へ向かった信玄本隊と誤認させる動きを取ってから遠江へ入り、さらに進んで浦川から三河へと侵入しました。その後、駿河・遠江と進んで三河へと侵攻してきた信玄本体と合流し二俣城を攻めます。このとき城が堅牢なのをみて馬場信春(ばばのぶはる)とともに水の手を断つ作戦を取りました。水の手を絶たれた城方は井楼を使って天竜川から水を汲み上げていましたがこれも破壊し11月末に降伏させます(落城は従来12月19日とされましたが当時の文書から現在では否定)。

12月の三方原合戦に参加。このときは珍しく家康旗本衆による猛攻の前に不覚を取り、切り崩されそうになったところを勝頼に救われたと伝わっています。

 

長篠の戦いで迎えた壮絶な最期

天正3年(1575年)、山県昌景は三河出兵において別働隊を率いました。5月の織田信長徳川家康の連合軍と対峙した長篠の戦いにおいて、武田勝頼に撤退を進言しましたが受け入れられませんでした。そこで、敵に渡河させた上での戦遊び(ゲリラ戦法)を提案しましたが、これも拒絶されてしまいます。この時、「どこまでも命惜しいか」という侮蔑にも取れる言葉を受けたと言われています(甲陽軍鑑)。

 

山県昌景は左翼先陣として設楽原に臨みます。そこで驚異的な戦闘力を発揮し、なんと9度も徳川陣地に押し込むという働きを見せました。ついには三重の防衛線も突破し、そこからさらなる戦果の拡大を目指しました。しかしそれを果たすより前に、味方が全面的な退却を始めたため、彼も撤退の最中に討ち死にを遂げることとなりました。

采配を口に咥え大太刀を抜いた姿で奮闘し、身には17ヶ所の銃弾を受けたといいます。最期も馬上のままであったとも伝えられています。

首は敵に奪われることを避けるため、家臣の志村又左衛門によって持ち去られたといわれており、その様子が「長篠合戦図屏風」にも描かれています。

 

■終わりに

昌景の後は子の昌満が継ぎましたが、武田家滅亡の際に織田方に捕らえられ、処刑されてしまいます。しかし、昌景の娘の一人は天正11年(1583年)に徳川の重臣である酒井忠次に再嫁し、その三男(または四男)の松平久恒(まつだいらひさつね)を生みました。

ちなみに、この松平久恒は、藤沢周平の幻の短編「上意討」に登場する松平甚三郎久恒として知られている・・・らしい・・・です(調べていて偶然見つけたので誰が喜ぶか知りませんがちょっとした豆知識としてご紹介~)

 

山県昌景は戦国時代において、輝きを放った勇猛な名将であり、武田信玄の右腕としてその力を遺憾なく発揮しました。彼の武勇と戦略的な才覚は、武田軍において欠かせない存在であり、その勇姿は多くの敵に畏怖されました。

しかし、次代の武田勝頼との関係は亀裂を生み、長篠の戦いにおいて最期を遂げました。その悲劇的で壮絶な最期は、今もなお語り継がれています。

 

 

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