武田勝頼 | ナツレのツレヅレなる何か

武田勝頼

平成28年NHK大河ドラマで平岳大(ひらたけひろ)さんが演じられていた武田勝頼(たけだかつより)さんをカキカキ

平岳大さんといえば映画【 のぼうの城 】でイヤミな長束正家(なつかまさいえ)役をされていて、ナツレ的にお気にいって推しておりましたが今回の真田丸での武田勝頼では打って変わって哀愁と憂いの色気が漂ったカンジでこれまた素晴らしかった
意外に青年真田信繁に関わって影響与えた風な役どころだったので回想シーンなどでまた出たりしないかなぁとか期待してみたりします
 


武田勝頼(たけだかつより) 四郎、諏方四郎神勝頼(すわしろうしんかつより)、別名:伊那四郎(いなしろう)、

甲斐国主・武田信玄(たけだしんげん)の四男。母は諏方頼重(すわよりしげ)娘。
はじめ母方の諏方氏の名跡を継ぎ永禄5年(1562)伊那郡高遠城(たかとおじょう)城主となる。

永禄6年(1563)上州箕輪城(みのわじょう)攻略戦に初陣。豪勇 藤井友忠を討取るなど勲功あり。
永禄8年(1565)頃、父信玄と織田信長(おだのぶなが)の姻戚同盟がなり、織田信長養女遠山氏を娶る。
永禄10年(1567)、遠山氏との間に一男(信勝)を得るが、遠山氏は直後没した。

天正元年(1573)4月、父信玄が没すると武田氏に復した。この時家督を継いだとされるが、あくまで勝頼の子信勝(のぶかつ)までの後見(陣代)でしかなかったとも云われる(甲陽軍艦)。
いずれにせよ、信玄の喪を隠すことは事実であったようであり、信玄没後の諸将への手紙も信玄の名で出されたり、勝頼の署名に信玄の花押が押された歪な形で出されており、葬儀も天正4年(1576)になって恵林寺で執り行われている。(『元亀四年六月廿七日三輪次郎右衞門尉宛、勝頼書状』『天正三年六月二日付上野介宛、勝頼書状』等)

天正2年(1574)父信玄も落とせず難攻不落を謳われた高天神城(たかてんじんじょう)を攻略し武名を大いに高め、織田信長も勝頼に備える手紙を上杉謙信に送っている(上杉文書)。
この後も積極攻勢に出て甲斐武田氏最盛期を創出した。

天正3年(1575)3月、織田信長・徳川家康(とくがわいえやす)の連合軍と三河長篠設楽原(みかわながしのしたらがはら)において大敗し、重臣多数を失う。

天正5年(1577)小田原北條氏との提携のため、北條氏政(ほうじょううじまさ)の妹 桂林院(けいりんいん)殿を継室として迎え姻戚関係を結ぶ。また越後の上杉謙信(うえすぎけんしい)とも結んだ(甲相越同盟)。

天正6年(1578)上杉謙信没後の上杉景勝(かげかつ)と景虎(かげとら)による家督争いにおいて景勝を支持。これにより上杉景虎の実兄北條氏政の怒りを招き先年結んだばかりの小田原北條氏との提携が手切れとなり織田・徳川・北條と三方を囲まれた。しかし却って上野(こうづけ)の北條方の城を次々と切り従え北條氏政を「当家滅亡」と慌てさせた。
勝頼は武田氏立て直しのため、信長との関係修復も図り盛んに誼を通じたが、信長は北條との提携を強化した。

天正9年(1581)2月新たな居城新府城の建造に取りかかる。
 3月、前年10月から攻囲を受けていた岡部元信の拠る高天神城が守備兵の玉砕により落城した。この時、勝頼は北條の牽制の為身動きができず、城兵を見殺しにした格好となり天下の面目を失った(信長公記)。また、それこそが織田・徳川方の戦略であった為、高天神城兵は降伏を許されず全滅せざるをえなかった(正月廿五日付水野忠重宛、織田信長書状)。
 12月、建造中の新府への移転を推し進めたが、城下町もできておらず重臣の屋敷も勝頼近習のものしか完成しておらず不満が高まったという。

天正10年(1582)1月、勝頼の姉婿の木曽義昌(きそよしまさ)が織田信長に内通し謀反。
 2月3日、織田軍による甲州征伐が開始。信長の嫡男 織田信忠5万余を主力に徳川家康 ・ 北條氏政が呼応し武田領に侵入してきた。これに武田信豐(たけだのぶとよ)といった重鎮をはじめ抗戦せずに拠点を放棄するものが相次ぎ防衛線は瓦解。弟の仁科五郎盛信(にしなごろうもりのぶ)のみが高遠城(たかとおじょう)に3千の手勢を集めて拠り、織田信忠の軍勢への徹底抗戦を試みたが、わずかに進撃を遅らせたのみであった。
3月2日、高遠城落城と徳川家康へ内通した駿河の穴山梅雪(あなやまばいせつ)を先導に甲斐へ侵入を受け、3日には新造の新府城に火をかけて退去し重臣小山田信茂(おやまだのぶしげ)の居城岩殿城(いわどのじょう)へ向かった。この時、新府には人質多数が残されており閉じ込めたまま、焼き殺す形となったという(信長公記)。
しかしその後小山田信茂は態度を急変させ勝頼主従の岩殿城受け入れを拒否し追い払った。

 3月11日巳の刻頃、天目山の隣の日川左岸の田野(大和村)において織田の滝川一益(たきがわかずます)の軍勢に囲まれ、嫡子信勝 ・ 夫人北條氏、最後まで付き従った四十余名の家臣長坂光堅(ながさかみつかた) ・ 秋山紀伊守(あきやまきいのかみ) ・ 小原下総守(おばらしもおさのかみ) ・ 小原継忠(おばらつぐただ) ・ 跡部勝資(あとべかつすけ) ・ その息子安部加賀守(あべかがのかみ) ・ 土屋惣蔵昌恒(つちやそうぞうまさつね) ・ 大龍寺麟岳(だいりゅうじりんがく)ら共々と討死を遂げた。享年37歳。

 勝頼夫人北條氏も戦い寸前に懐剣を抜き、天を仰ぎ、懐剣を口に呑み込んで、柄を両手で喉元へと力一杯に引いて同処で自害したと伝わる。享年19歳。



 織田信長は勝頼の首を前に「日本にまたとない武人であったが、運がおつきになり、こうなられたことよ」と悼んだ(三河物語)とも、「お前のおかげで俺は何年も枕を高くして眠れなかったが、そのあげくが何のざまだ」と罵った(日本外史)とも真逆の態度が伝わっています(渡部昇一の戦国史入門 (PHP文庫)/渡部 昇一 より)。
また父(信玄)上洛の志の代わりと称して首を京に上らせたといいます(日本楽府)。事実、武田勝頼 ・ 同信勝 ・ 同信豐 ・ 仁科盛信ら四人の首級は、長谷川宗仁に晒し首にするよう命じ上洛させられていいます(信長公記)。

 かなり前の武田信勝(たけだのぶかつ)の項でも書いてましたが記録や伝承に観られる勝頼一行の最期はあまりに悲惨です。真田丸でもそうでしたが、今日ドラマなどで表現される際は、潔く静かに自刃したという筋立てにしていることが多いようですね。
でも、こういった現代のワレワレからしたら目を背けたくなる血生臭い禍々しいところも戦国時代の一面なんですよネ

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