金ケ崎でどうする浅井長政!?なぜ信長を裏切ったのか分からなくなってきた義弟。
NHK大河ドラマ『どうする家康』第14回『金ケ崎でどうする』を視聴しました。
そこから、このお話の「金ケ崎の退き口(かねがさきののきくち)」における浅井長政の裏切りについて~最近の研究の結果、これまでの定説が覆されている現状についてちょっとお話しようと思います。
<金ケ崎の退き口の経緯>
永禄13年(1570)4月20日、若狭の武藤氏征伐として出兵した織田信長の軍勢は、元亀と改元された4月23日に若狭の佐柿城(さかきじょう)に入ると、その矛先を突如越前の朝倉義景へと変更しました。25日に越前敦賀の要衝金ヶ崎城を包囲し、翌26日には降伏させます。守将の朝倉景恒(あさくらかげつね)は信長に命じられた木下秀吉によって府中まで送り届けられました(朝倉始末記)。
そこで、北近江の浅井長政が突如裏切りが発覚。背後を遮断された信長の軍勢は一転して窮地に陥りました。
信長は木下秀吉・明智光秀・池田勝正などを殿軍としていち早く撤退を開始しました(武家雲箋)。
この撤退戦を世に「金ケ崎の退き口」といい、見事殿軍をつとめた秀吉の出世譚として有名です。
なおこの時、徳川家康はおいてけぼりを喰らったともいいます(徳川実紀・三河物語)。
■『どうする家康』での金ケ崎の退き口。
この浅井の裏切りの際に、お市の方が「両端を縛った小豆(あずき)の袋」を信長に送って窮地を知らせたという有名な逸話があります。
お市の方は信長の妹で、このとき浅井長政に嫁いでいました。しかし、浅井の裏切りにより軟禁されます。
そこで、監視の目を欺くため、両端を縛った小豆の袋を陣中見舞いとして送り届けさせ、それをみた信長は「両端を縛られている袋=袋の鼠」という隠されたメッセージを読み解き、窮地から逃れたと伝わっています。
この逸話を『どうする家康』では、「阿月(あづき)」というお市の方の侍女が、信長へ危機を知らせるために走るという話にしていました。ひねりを効かせた面白い筋立てにしたもんだなぁと感心しました。
(ただ逸話に沿った小豆作戦もやろうとするも失敗した描写もあったのですが、いっそこのくだりは無くしてよかった気も・・・)
物語中で、女だてらに足の早い侍女の阿月のエピソードが語られ、それがお市の方との関係を表しつつ伏線となって惹きつける展開になっていました。前回のエピソードで面識があった松潤徳川家康が阿月に気づく演出もよかったですね。
■実は最近の研究でよくわからなくなってしまった浅井長政裏切りの理由。
さて今回のお話で大貫勇輔さん演じる浅井長政の甲冑姿がチラッと拝めて嬉しかったですが~
その裏切り理由については、松潤家康や松重数正が想像する流れになっており、大貫長政自身の口からは語られませんでした。
実はこのところ、史実的にもこの浅井長政の裏切り理由がよくわからなくなってきているのです・・・。
これまで浅井氏は、南近江の六角氏と敵対して窮地に陥った際に、越前の朝倉氏に再三援助を受けていたといわれていました。そのため、その旧恩に報いるべきという、長政の父久政の意見に家中が傾き信長を裏切ったという、浅井三代記の記述などが定説とされてきました。
しかし、最近の研究によって、その浅井氏と朝倉氏の関係に疑問が投げかけられるようになっています。なぜなら、当時の記録からは浅井氏と朝倉氏が同盟関係にあったことを示す資料が見当たらないのです。
また、これまで朝倉氏が浅井氏を支援している同盟の証拠とされていた、大永5年(1525)の朝倉宗滴の小谷城来援が、実は六角氏に加勢して小谷を占拠したという、まるっきり反対の出来事だった事が分かってきました。
そのため、この両家が実際に同盟関係にあったのか疑問視されるようになり、浅井長政が信長を裏切った理由についても再検討が必要となっています。
そもそも越前の朝倉氏は南近江の六角氏とともに美濃の斎藤道三と敵対をしていました。対して浅井氏は、浅井長政の姉ともいわれる人物が斎藤道三の息子義龍に嫁いだとされており、斎藤氏と近しい関係にあった事が指摘されています。
そこから、浅井=斎藤と朝倉=六角というラインで協調しており、浅井氏と朝倉氏は緊張関係にあったとみられるのです。
(もっとも、その後の斎藤義龍の代になると、斎藤氏は六角義賢の子義弼と提携するようになるのですが)
このように、浅井氏と朝倉氏の関係性については再検討が進んでおり、今後の研究が注目されます。
■浅井長政謀叛の考察
先走ってなんですが、この金ケ崎の退き口の3年後に、朝倉氏も浅井氏も織田信長に滅ぼされてしまいます。
信長を裏切ってまで朝倉氏に殉じるかのように滅びた浅井氏について、後世の人々も疑問に思ったのでしょう。そこで受け入れやすかったのが、江戸時代に書かれた浅井三代記などで唱えられた「朝倉氏旧恩説」だったのです。
江戸時代の封建社会の価値観にも合致しますし、その血筋は将軍家にも受け継がれていますので、浅井長政が清廉潔白な人物だったという評価も積極的に支持される素地がありました。
ただ、この裏切りの謎は「本能寺の変」における光秀の動機と同じく、決して解決することのないものだと思います。まぁこの点は、本能寺の変と同じく、いろいろな方の考察をみて、一緒になって考えるのが何より楽しいですよね。
現時点では、朝倉氏との関係について全てが覆さされたわけではないので、従来の説もまだ通用すると思いますが、他にはどんな説が唱えられているのかちょっと書き出してみたので、ご紹介。
(私がたまたま読んだ本から抜粋したものなので、その方が提唱者とはかぎりませんがその点はあしからず)。
<朝倉恩顧説でない浅井長政謀叛の理由>
・「信長の一軍団長になること、信長の家臣となることへの反撥があったもの」 水藤真『朝倉義景』/太田弘治『浅井長政と姉川合戦―その反映と滅亡への軌跡―』
・家として「国盗り」を目標としていたわけでなく「現状維持に満足」 宮島敬一『浅井氏三代』/水藤真『朝倉義景』
・信長との支配・権力論などの社会観の違い。 中井均『織田信長の浅井・朝倉殲滅戦』、宮島敬一『浅井氏三代』
・信長を裏切るには千載一遇のチャンスと捉えた下剋上。 本郷和人『歴史のIF』ほか
・同盟軍として六角攻めに軍功があったのに対し、信長からの褒賞がなく疲弊。今後の同盟への不信と懸念。 宮島敬一『浅井氏三代』/小和田哲男『二者択一に迫られた長政の決断』
ほかにも定番として、この時すでに足利義昭が信長追討を画策しており、浅井氏に決起させたという説もあります。
ただし、これも最近の研究で、姉川合戦直前まで将軍親征が計画されていたことが判明しているので否定されつつあります(お話としては面白いので支持しますが)。
■義将だけでない浅井長政像
以上のように浅井長政の裏切りについては、謎が深まっているのが実情です。そのため今後、新たな浅井長政像が提示されることになるでしょう。
義将浅井長政もいいのですが~
「彼ら(久政・長政)の所行をもって、甲州武田・越前朝倉頻りに敵となる。公儀(足利義昭)御造意もこの故に候~~(武家時紀古案)」
・・・と、元亀騒乱の元凶と名指しされ信長をブチギレさせた、謀将浅井長政像というのもちょっとみてみたいと思うのはワタシだけでしょうか。
こうした一面についても、今後もっと掘り下げられることを期待しま~す。
<ネタ元(参照文献など)>