矢島健一さん演じる「吉良義昭」はどう地位をほじしていたのか謎~ | ナツレのツレヅレなる何か

矢島健一さん演じる「吉良義昭」はどう地位をほじしていたのか謎~

NHK大河ドラマ『どうする家康』の第3回で目立っていた武将として個人的には吉良義昭(きらよしあきら)さんがよかった。

ほかも寺島進さんの水野信元と、松嶋菜々子さんの於大の方も、大河っぽい台詞回しなどあって渋くて印象的でした。まぁ、水野さんは以前かいたので、今回はこちらの吉良さんをカキカキ。

 

 

 

どうする家康』では矢島健一さんが吉良義昭を演じられていました。チョッとコミカルな感じで登場して元康に積極的に協力していましたが、最後には裏切られ「なぜじゃ元康殿~」と呟くのがあわれで切なくてよかった。

この回は終盤になって、元康の裏切りや瀬名姫の前で三河侍の証人(人質)が処刑されたりと、怒涛の展開になったのが印象的でした。

 

三河一向一揆の話で主将として再登場する可能性もあるので楽しみでです。

 

吉良義昭(きらよしあきら・よしあき)

三河国西條城主で吉良家嫡流の吉良義堯(きらよしたか)の三男。

天文5年(1536)、父義堯は尾張の織田信秀へ通じ、今川義元・荒川義廣の攻撃を受け戦死。

弘治2年(1556)3月、尾張の織田信長を引き入れ三河幡豆郡荒河へ侵攻。三河野寺原で今川方と戦った。しかし織田軍が引き上げると今川の逆撃を受け降伏。以降は今川方として行動する。

4月上旬、尾張国主斯波義銀(しばよしかね)と三河守護の序列について話し合った(信長公記)。この記事の吉良殿がこの義昭とされる。

永禄4年(1561)、今川氏の命で東條城に入る。

永禄5年(1562)、松平元康(徳川家康)と戦い降伏。

永禄6年(1563)、三河一向一揆の際主将として東條城に復帰し家康と争った(一揆の扇動者であったとも)。7月落城し降伏。追放され近江に向かった。

永禄8年4月、摂津芥川で戦死したという(松平物語)。

 

 

さて、この吉良義昭さん。吉良という名前からも分かる通り「室町殿のご子孫たへなは吉良につかせ、吉良もたへは今川につかせよ」(今川記)とうたわれた足利将軍家ゆかりの名門中の名門のお家柄。

もっとも、戦国期には庶流の東條吉良氏との抗争のため著しく勢力が低下しておりました。

 

ただ~それにしたって不可思議なのが、父ちゃんも義昭もおもっくそ今川氏に背いて負けているようなのですが・・・。ちなみに兄ちゃんの吉良義安(きらよしやす)も天文22年(1553)に今川義元に背いて敗れ、駿河で幽閉されております。

ところが義昭くんについては、その後に今川氏の命で庶流の吉良氏本拠である東條城に入って吉良氏宗家として復権しています。このあたり一体全体何があったのでしょうか。

事績を追ってて想像するのはめちゃ楽しいのですがね。本当に同じ人物かと眉に唾つけながら記録参集しました。

(この流れは朝倉景鏡さんを思い出しました・・・”~あきら”とつく人はなにか問題が多いのか)

 

なお、義昭さんはこれも何がどうしてそうなったのか、摂津芥川で戦死され終わります。

このため嫡流としての吉良氏は滅亡・・・のようにみえるのですが~。

あの幽閉されていた兄義安が健在で今川氏没落にともない復帰。彼は庶流東條吉良氏の養嗣子となっていたこともあり、その子義定になって家康の元で吉良氏嫡流として復活。高家として名を残しました。

ちなみにその吉良義定は今川氏真と早川殿との娘を妻に娶っておりますので、ここに今川と北條と吉良の血筋が結びつくこととなりました。

 

そして、さらにその子孫が三河の名君として地元では有名な・・・まぁ世間的には浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の松の廊下刃傷事件から赤穂浪士の討ち入りをされた、あの吉良上野介(きらこうづけのすけ)へと連なるのです。

 

どっとはらい。

 

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