雷神・立花道雪を知っていますか。 | ナツレのツレヅレなる何か

雷神・立花道雪を知っていますか。

ちょっとMidjourney さんとかStableDiffusion さんで遊んでたところ~自分で落書きもしたくなって描いた立花道雪(たちばなどうせつ)さんをup!

 

・・・戦国時代ファン以外で立花道雪(たちばなどうせつ)さんってどのくらい知られているか不安ですが。

それこそちょっと書ききれないほどの武功やおもしろエピソードのある凄い人なんです。

 

まず親しみやすいところで、戦国ものゲームで必ず登場する女武将の立花誾千代(たちばなぎんちよ)のお父さんとして有名。

そのお婿さんは鎮西一の猛将としてこれまたゲームで超強くて有名な立花宗茂(たちばなむねしげ) 。

 

落雷を受けてとっさにその中の雷神を斬ったというとんでもない逸話もあり。

その時帯びていた刀が『雷切丸(らいきりまる)』という名で刀剣界隈でも超有名。ちなみに立花道雪にはCVないのに雷切丸にはあって、そのCVはちゃんまき。リコリスのフキめちゃよかったよね~。

んで、雷なんか斬るから足が不自由になって杖突いて千束に先生なんて呼ばれ、フキは目にハート・・・

 

だっせん。閑話休題。

 

雷斬って不自由になった身体で輿に載って合戦を指揮し「我を敵の中へ舁き入れよ!」って家臣に無茶苦茶言って「えいとう、えいとう」と音頭を取って突っ込ませる猛将ぶり。鉄炮の有用性を見抜き、今でいう薬莢の役割をする「早合」を開発し、二段打ちの工夫をするという革新性。当然のように生涯にわたって常勝不敗。

 

主君の大友宗麟が遊び呆けて政事を顧みなくなると、自分も京から踊子を呼んで遊んでみせ、まんまと釣り出された宗麟に諫言するという忠臣ぶり。また、うっかりそのとき披露した「三つ柏」という踊りが、「来ませ 見せ ましょ」の無形民俗文化財の『鶴崎踊』になってしまう(異説あり)。

 

軍規厳しく違反をした30人をいっぺんに処断し「鬼道雪」とも呼ばれるが、武功がなく気落ちしている部下に「先駆けして命を落としてくれるなよ」と気遣い、失敗した者があると以前の功績や長所をあげて面目を失ったままにしないよう配慮するという気配り上手。

今のビジネス書とかにも使えそうな、あらゆるエピソードに事欠かない、押しも押されもせぬ当時のトップアイドル(?)です。

 

↓そのトップアイドルご尊顔をカキカキ(まぁ肖像画からの勝手なイメージですけど)。

ナツレのツレヅレなる何か- 立花道雪 戸次道雪 戸次伯耆守 戦国武将イラスト

立花道雪(たちばなどうせつ) 戸次(べっき)氏。 幼名:八幡丸、孫次郎、鑑連(かねつら)、左衛門大夫(さえもんのたいふ)、伯耆守、紀伊入道、丹後入道、麟白軒、

永正10年(1513)、豊後国大分郡戸次荘(へつぎのしょう)の戸次親家(べっきちかいえ)の子として生まれる。母は由布惟常の女。

大永6年(1526)、戸次氏を相続。初陣で数倍する大内氏を打ち破り佐野親基を討ち取った。 

天文7年(1538)3月、大友・大内の和議を祝う「千疋の犬追物」に参加。

天文19年(1550)、「大友二階崩れの変」において、宗麟を支持。その弟の塩市丸を擁立する入田親誠(にゅうたちかざね)を討ち肥後の合志を平定。

その後は大友氏の尖兵としてその両国拡大に奔走。

永禄8年(1565)4月、大友氏の有力な一族でありながら毛利氏に降伏していた立花山城の立花鑑載(たちばなあきとし)を攻め降伏させた。

永禄11年(1568)、再び毛利氏に通じ反旗を翻した立花山城の立花鑑載を討ち取った。

元亀2年(1571)7月、前年に再度背いていた立花城を奪還し立花城西城督に任ぜられる。このとき立花姓を名乗ることを望んだが承認されなかったという。

天正2年(1574)、出家し麟白軒道雪を名乗る。

天正3年(1575)、ひとり女で7歳の誾千代に立花城の城督を含め相続させた。

天正7年(1579)2月16日付書状にて、前年の耳川の戦いで主家大友氏が大敗し弱体化していく状況を憂い大友家の結束を促す訓戒状を出す。

天正9年(1581)8月18日、同じく大友氏重臣である高橋鎮種(紹運)の長男統虎(のちの宗茂)を誾千代の婿に迎えた。

天正12年(1584)8月、龍造寺隆信が敗死し混乱する筑後を攻める。この頃から体調に変調をきたし、書面の花押が上手く書けない程であった(九月廿六日付高橋鑑種書状)。それでも筑後の大友勢支援を継続した。

天正13年(1585)5月、陣中で発病し、9月11日陣没。

 

通り名は立花道雪が有名だが、本人は一貫して戸次氏を名乗った。これは一門ではあるが度々謀反を起こし大友氏を苦しめた立花という名を主君の宗麟が嫌った為という。

戸次の読みは、地名や川の名前としては「へつぎ」だが、氏としての読みは「べっき」とされている。

 

  

このお方〜敵味方問わず愛されていたと云われています(まぁ絵の通り愛くるしいお顔ですし)。

熱烈なファンには敵方の龍造寺隆信や、遠く甲斐の武田信玄 という、ももクロでいうところの文字通りの“もののふ”もおりました。

信玄さん なんて会いたいってレターを送っているくらいです。まぁ残念ながら当時はまだ新幹線が未開通だったようなので会えなかったのですが、会えたらどんな会話や感想持ったのか気になりますよね。

 龍造寺隆信さんも敵方なのに道雪を評して文武について「当代の良将」と絶賛しています。

 

また、陣中で亡くなった際は、対陣中の島津・秋月の両軍も、撤退する大友勢に道雪の柩があることを知って、決して手出しをしなかったと伝わっています。

 

その最期まで深いいエピソードで締めくくった超一級の戦国武将です。

 

 

 

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