竹中半兵衛
あけまして
・・・って何日たってるんだって
さて~いつからか年末や正月は大型時代劇をやるのが相場となっておりますが
そんな中今年はテレビ東京さんで『新春ワイド時代劇 二人の軍師~秀吉に天下を獲らせた男たち』という戦国時代が舞台のドラマをやっておりました
その主人公の一人『竹中半兵衛(たけなかはんべえ)』をカキカキ
(うひょ~画を描くのが久々だったのに腕がなまってるいつも2、3時間で描いてるのに半日かかっちゃいました)
昔から『太閤記』などの軍師的イメージで有名な武将なのですが最近でも『戦国無双』や『戦国BASARA』といった人気TVゲームなどにも登場し、とくに戦国BASARAでは”マスクを付けた怪しいヤツ”として人気のようでなによりですなにがなによりだか・・・
ナツレ的にもかなり興味津々な武将さんの一人であります
今回はとくに半兵衛さんの逸話の中でも有名な稲葉城(いなばやまじょう)乗っ取りについてのお話なんぞを~
この竹中半兵衛さんは美濃の齋藤龍興(さいとうたつおき)の家臣でだったのですが
この齋藤龍興、父の斎藤義龍(さいとうよしたつ) に似ず、イマイチ人望がなかったようで(といっても10代の青年大名なので同情はしますが・・・)、自分の周りを佞臣で取り囲み半兵衛さんとはウマが合わなかったようです
そんなことからか「寛永傳(かんえいでん)」という書物によれば永禄7年2月6日、舅 安藤守就(あんどうもりなり)と弟の重矩らと謀り、僅か十六人の手勢をもって斎藤飛騨守(さいとうひだのかみ)以下、斎藤龍興の佞臣6人を討ち取り稲葉城を奪取しました
この事は『竹中家旧記』や快川紹喜(かいせんじょうき)というお坊さんの書状にも同様のことが書かれておりますので城の奪取方法などには検討の余地があるかもしれませんが、事件の内容自体は事実と考えられています
さて~興味があるのはこの叛乱の規模です
通説では・・・あくまでこの叛乱は主君である齋藤龍興(さいとうたつおき)を諌める為のものであり、
謀反成功後、信長 より大利をもって誘われましたがコレを拒否しすぐにまた龍興へ稲葉山城を返還したといいます。
忠臣の鑑かっくいい
ところが、注目されるのが~乱の後日、永禄7年7月に舅 安藤守就(あんどうもりなり)が立政寺宛に出した禁制(きんぜい)です。
禁制とはその地の支配者が寺社や民衆に対して、禁止する事柄を広く知らせるために掲げる政令の事なのですがこの政令がどのような状態で出されたかによって、この乱の様相が大きくかわってくるのです
通説通り2月の叛乱がすぐに収束したものだとすれば、この時の禁制は安藤守就が主君 齋藤龍興に帰順した後に龍興の名代として掲げたものと考えられますが、果たして叛乱後にそこまでの地位をすぐに行使できたのか疑問ですいくら安藤守就が某漫画家と混同される氏家卜全 らと並ぶ齋藤家の重鎮美濃三人衆だったとしても・・・
ならば、叛乱はこの時まで続いており、その時にこの地を制圧していた竹中・安藤軍が出したもの~。と考えるとつじつまが合うのです
しかしそうなると、最初の叛乱から5ヶ月も経過しており、乱がすぐおさまったという通説と矛盾してしまいます
ただ、当時の記録には竹中・安藤の叛乱に他にも齋藤家家臣団から多数参加している名前が見られ、そこからこの叛乱は5ヶ月たってもなお終息しない大規模のものだったという説は説得力がある気がします
こういった通説と相反する説を比べて実際どうだったんだろうと妄想するのが、歴史好き的にはたまらないのですが
TV東京の配役では山本耕史さん山本耕史さんは昔NHK大河で「新選組!」で土方歳三 を好演してて好きな役者さんなので期待大です
竹中半兵衞(たけなかはんべえ) 実名:重虎(しげとら)、重治(しげはる)
永祿3年(1560)2月7日、父重元の死により竹中家を継ぐ(重修譜)。
この年12月、近江の刈安尾(かりやすのお)砦(坂田郡伊吹町)を奪おうとして、淺井方に阻まれた(従来、父の遠江守が出兵したと言われるが前述のとおり2月に歿したとすれば半兵衞が出陣したと思われる)。
永祿4年(1561)3月、淺井長政 が美濃へ侵入し、齋藤龍興と交戦した。この隙をつき、かつ佐和山城を陥れようとする南江の六角義賢 の攻撃を側面から援護するため、近江刈安尾砦を牽制し、かつ美濃から帰陣してくる淺井勢を妨げようと計った。しかし淺井勢は刈安尾ではなく、刈安尾の南に位置する門根城・鎌刃城を通って佐和山に至り、六角勢を打ち破った。
永祿七年(1564)、義父に当たる安藤伊賀守無用(あんどういがのかみむよう)の力添えで齋藤家に対し謀反。
その後一時淺井家に亡命し元龜元年になって木下藤吉郎秀吉 に三顧の礼をもって迎えられたとも(武甲夜話)、淺井家に出仕した(戦国人名事典)とも云うが、龍興没落の永禄10年頃には信長 に帰属したと思われる。
竹中重門が記した『豐鑑』には、姉川の戦いの時秀吉が信長 に請い付されたとあり、秀吉の手勢が少ないので近江国境に近い竹中氏・牧村氏・丸毛氏らを信長が与力として付けたといい、そんなところが実情と思われる。
元亀元年(1570)六月、江北の淺井家の臣で鎌刃城城主 堀次郎左衛門尉秀村(ほりじろうざえもんのじょうひでむら)の臣 樋口三郎兵衛尉直房(ひぐちさぶろうびょうえのじょうなおふさ)を説得し織田方へ寝返らせる功をあげている(武甲夜話・甫庵・淺井三代記)。
その後は秀吉に従って各地を転戦、天正五年から始まった播磨侵攻にも従軍。
小寺官兵衞(後の黒田如水) と共に福原城を攻略した。
天正六年(1578)五月、連絡将校として上京し信長に謁した、備前八幡山城が味方についたことを言上した。
天正七年(1579)六月十三日、三木城攻めの最中陣没した。この為半兵衛の舎弟で信長の馬廻りであった久作重矩がその名代として播磨に派遣された。
さて、この竹中半兵衛さん後年、豐臣秀吉 の軍師として世に喧伝され有名になるのですが
いわゆる一級資料には記事が少ないようです。
たとえば、有名な「信長公記」にはわずか3ケ所しか記事が無く、そのうち一つは天正七年の死亡記事だったりします
また「寛政重修諸家譜」という竹中家の先祖を伝える資料にも簡単な記述しか無く、竹中家としても自慢するにたる祖先の偉業は伝わっていないようです
ここから『太閤記』などで宣伝されて有名になったダケの大した人物ではないのではと断じるむきもありますが~なぜ太閤記に取り上げられて軍師扱いされたのか(その後の竹中家は媚びを売るほどの家ではない)等についてまで説明しきれてませんので私としては口伝で後世まで名が轟く程の人物だったと思っちょります
近年まで一級資料に名前がないというダケで、想像上(ファンタジー)の人物扱いされた武田信玄 の軍師 山本勘助(やまもとかんすけ)※さんのれいもありますしね
※山本勘助 = 『甲陽軍艦』という軍学書で武田信玄 の軍師として描かれて江戸時代から有名な人物。近年まで甲陽軍艦が創作した人物といった見方が強かったが、名前が記載された信玄の書状が発見された為、実在が証明された。
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