『弥生時代』第9回 後期 ① | 奈良の鹿たち

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『弥生時代』

第9回

「後期 ①」

 

金印

 

水稲農耕が始まった縄文時代晩期末には、既に弥生時代に繋がる文化が見られることから、これらを縄文時代とは区分して、弥生時代早期という時代に位置付けるようになりました。

現在では、早期・前期・中期・後期の4期区分論が主流になりつつあります。

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2003年(平成15年)に国立歴史民俗博物館(歴博)が、放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の炭化物の測定結果を発表しました。

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弥生時代も後期に入るといよいよ国々が政治勢力化しました。

後期後半の紀元1世紀頃、東海・北陸を含む西日本各地で広域地域勢力が形成されました。

2世紀末に、邪馬台国(次回)を中心とした倭国連合が畿内に形成され、日本初の国家連合を実現しました。男子王が擁立されたが国は乱れ、いわゆる倭国大乱(次回)が勃発しました。約8年にわたり戦争が続き、それぞれの王が講和を模索して、有力な巫女である「鬼道使い」の卑弥呼(次回)を盟主としました。

人口の分布は、縄文時代には、日本列島全土に万遍なく広がっていたのに対し、弥生時代には西日本に集中するようになりました。縄文時代の後期(縄文晩期は衰退期)と弥生時代の後期を比べると、東北の人口は縄文晩期とほぼ変わりませんでした。関東は2倍に。近畿・中国地方は縄文時代の20倍以上、九州・四国地方も10倍以上に増えました。遺跡数も、西日本では大幅に増えていました。

これは西日本の方が温暖な気候であることが稲作に適しており、それにより備蓄できる食糧の多寡が人口の増減に直接的な影響を与えていたと考えられます。しかし、弥生時代後期~終末期の2~3世紀頃は、やや冷涼な気候でありました。また、3世紀は海退期(弥生の小海退)があり、海が退いていき海岸付近の沼や湖が干上がり、その底に溜まっていた粘土の上に河が運んできた砂が溜まっていく時期でした。

 

<政治勢力>

邪馬台国は、3世紀に中国で編纂された歴史書『三国志』の中にある『魏志倭人伝』に登場する倭国のひとつです。卑弥呼は、239年(景初3年)に魏へ使者を送り、卑弥呼は正式に「親魏倭王」の封号を獲得しました。日本で初めて、対外的に国王の座を認められました。

三国志の『魏志倭人伝』には、3世紀(後期~古墳時代)の倭国の状況が詳しく記されており、邪馬台国の卑弥呼女王が統治していたことなどを伝えています。女王になった後は、全く人前に姿を現さず、弟が卑弥呼の言葉を人民に伝え、自らが司る鬼道による神託、すなわち「神の言葉」で人々を導きました。卑弥呼が死去した際は、長さ約90mにも及ぶ巨大な陵墓が造られ、100人以上の奴婢が殉葬されたと『魏志倭人伝』に記載されています。卑弥呼の死後は、男王を挟んで卑弥呼の一族より壱与(とよ)と言う女王が選出され君臨しましたが、以降、邪馬台国は歴史の表舞台から消えていきました。

 

<中国・朝鮮との交流>

弥生社会の成立や成立や展開には中国・朝鮮との交流が深く関わっており、大きく三期(第一・二・三期)に分かれています。

第三期は朝貢貿易期で、前半(弥生中期後半)と後半(弥生後期)に分かれます。

第三期後半は、『後漢書』には西暦57年に倭奴国王が後漢の光武帝に朝貢し、金印を授かったと記されています。この時に下賜された印綬が、福岡市志賀島から発見された金印と考えられています。

韓族にも与えられなかった金印を授けられたことは、中国が倭をどのように見ていたかを示すものでした。

さらに『後漢書』は、その50年後の永初元(107)年に倭国王 帥升(すいしょう)が、後漢に生口を後漢へ献じて、金印を授かったことも記しています。倭国王帥升は、伊都国の国王とみられます。

朝鮮南部では慶尚南道固城貝塚に、変容した弥生後期後半~末の北部九州の高坏があって渡来倭人集団の居住を示しています。金海平野を中心に広がる弥生青銅器のほとんどは奴国産でした。
この時期までは、北部九州が主な窓口で伊都国・奴国が主導する体制が続いていました。

福岡県春日市は当時の奴国の中心地でした。そこの赤井出遺跡第5回 鉄の使用 参照)で、鉄器工房から大型細身の棒状哲斧が7本まとまって出た事からも分かります。これは三韓後半に10本一組で副葬され、古墳時代の鉄素材である鉄鋌と同様の意味を持つものでした。

弥生後期になると、楽浪土器・三韓土器、或いはそれらの模倣土器が山陰・東瀬戸内や近畿でも出る例が増えました。また、河内の土で作った日常炊飯用の赤焼土器鉢は渡来韓人の存在を推測させます。これは、近畿や東瀬戸内の地域政権が中国・朝鮮との交渉を増大させた事を示しています。

 

<高地性集落>

高地性集落とは、水田経営と日常の居住条件を犠牲にして、斜面の急な比高の高い所に営まれた弥生時代の防衛的な集落のことです。比高の高い台地や山頂に防衛的あるいは畑作農耕を営む目的で形成されたもの。特に中期後半頃から後期末期にかけて大阪湾に面した高地や瀬戸内海沿岸の地では,高地(平地からの比高差が50〜300m以上)に空濠や土塁を巡らし,その内側に住居を構えた例があります。遺跡からは日常の雑器をはじめ、石鏃や鉄鏃などの武器が少数出土する場合もあります。遺跡の立地や構造からして,一時的に低地から離れて生活した短期間の集落と考えられます。集落間の戦乱に際してつくられたものとされています。後期後半期の近畿の高地性集落については、その盛行期が、上述の理由から北部九州・畿内ともおおよそ史書に記載された倭国大乱の年代とほぼ一致することから、これらを倭国大乱と関連していたと考えられます。

 

<墳丘墓>

北九州で盛んにつくられた甕棺墓制は、後期には急速に衰退し古墳時代までには消滅しました。代わって石蓋土壙墓(せきがいどこうぼ)箱式石棺墓(はこしきせっかんぼ)などが現われました。土壙墓は、縄文時代から弥生時代にしばしば認められる墓制です。縄文時代の土壙墓には屈葬が多く認められますが、弥生時代の土壙墓は伸展葬が一般的です。木棺墓が最初に造られ、次いで箱式石棺と壷棺墓、さらに周溝墓と石蓋土壙墓へと移り、最後に古墳が造られるという弥生時代の集団墓から古墳時代の個人墓への変化の過程を知ることができます。

弥生時代の後期後半になると、中国地方、北陸地方、四国地方、東海地方など日本列島各地で大型の墳丘墓が現れました。 これは、日本列島各地で地域を統括する首長が台頭してきた流れと見ることができます。しかし、弥生時代末期の段階ではまだ地方色を備えたものでした。次の段階になると、奈良盆地南部に巨大な前方後円墳が出現し、さらに列島各地に統一化された前方後円墳が築造されるようになりました。

後期には、各国の王が、朝鮮半島などから貴重な金属製武具や調度品を獲得。自らの権力を誇示するために、死後の墳丘墓に海外製の銅剣や銅矛、鏡などを納めさせるようになりました。

さらに特別な権力者に限っては、殉葬として奴婢が副葬品の役割を果たすこともありました。こうした埋葬における権力の誇示は、時代を追うごとに大きくなり、古墳時代に入ると前方後円墳などの造営へと発展を遂げました。

●    吉備地域

後期の最大級の墳丘墓は、岡山県倉敷市の楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)(最大長約80m)です。自然の丘陵地形を利用して、盛り土を行い造られた弥生時代の後期の墳丘墓。円丘の上部には5つの巨石が円環状に立てられています。これが楯築の名の由来になっており、ここに陣を構えて矢を防ぐために築いた石の楯であるとされています。

この地域では首長の葬送儀礼には、特殊器台形土器と特殊壺形土器が数多く使用されました。特殊器台とは、弥生時代、吉備地方で作られた土器のことです。特殊器台が発展して埴輪となったと考えられています。

●    山陰地域

中国山地の三次(みつぎ)地域で発生したと推定され、出雲地域で発達した四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつふんきゅうぼ)(大きなものは約45m×約35m)が現れました。これらは後の古墳時代に匹敵する土木建築を駆使したもので、墳丘はどれも斜面が貼石で覆われ、裾周りにも石敷きや石列がぐるりと巡っています。

その分布は山陰の出雲地方や北陸の能登半島にまで拡がっています。

興味深いのは、特殊器台が発見されていることです。出雲王の墓と考えられている西谷3号墓から特殊器台が発見されているということは、出雲と吉備との間に深い繋がりがあったことを示しています。しかし、その一方、吉備地方では四隅突出型墳丘墓が築かれていません。深い繋がりがありながら、何故、吉備地方には四隅突出型墳丘墓が築かれなかったのでしょう?

 

<遺跡>

●    登呂遺跡(とろいせき)

静岡市駿河区に広がる弥生集落三大遺跡のひとつで、弥生時代後期に栄えた巨大集落跡です。

本格的な総合発掘調査の結果、12棟の住居跡を始め2棟の高床式倉庫や8万㎡にも及ぶ水田跡などが確認されました。この他には壺や甕状の土器、狩猟・漁労具、木製農耕具、青銅製の装身具など様々な生活用具も出土。これにより集落における当時の人々の実態が明らかになりました。

●    吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)(中期からの続き)

多数の弥生人が一緒に埋葬されていた甕棺墓(かめかんぼ)には、首のない遺体や矢が刺さったままの遺体などが多数発見され吉野ヶ里遺跡に存在した国が、弥生時代後期に起こった倭国大乱に参戦していたと見られています。

●    唐古・鍵遺跡(からこ・かぎいせき)(中期からの続き)

奈良盆地の中央部に位置する奈良県田原本町で発見された大型環濠集落跡。弥生時代前期から後期にかけて発達しました。唐古・鍵遺跡では約700年間、継続的に集落が存在していたことが分かっており、出土品や遺構によって存在した時期が5段階に分類されています。

弥生時代後期に該当する第4段階では洪水跡が発見され、一度集落は崩壊したと見られており、同地に集落を再建した痕跡が確認されています。

弥生時代後期から古墳時代前期にかけての第5段階では、環濠の埋め立て後に再び掘削された跡や、山陰地方及び東北地方の土器などが出土。交易地として繁栄していたことが判明しました。こうした発展の推移から、唐古・鍵遺跡は、物流拠点と生活用具等の生産拠点を兼ねた畿内勢力の筆頭格だったとする説が有力です。

●    桜ケ丘遺跡(さくらがおかいせき) 

兵庫県神戸市灘区桜ヶ丘町の六甲山南斜面の標高約240m付近の、尾根の東斜面で発見されました。紀元前210年~西暦30年(後期)の遺跡です。14個の銅鐸のうち、1号銅鐸は身の中央よりやや上に影絵風の絵画文で飾った横帯があり、2号銅鐸は身の中央にシカの列を線描で鋳出しています。4~14号銅鐸は身の両面の4区内にいずれも線描の絵が鋳出されています。6号銅鐸が最も大きく、高さ64.2cm、最小は14号銅鐸で21.4cmです。銅戈7本は長さ27.2~29.0cmでほぼ大きさが揃っており大阪湾型銅戈です。

同時期に埋納されたと考えられますが、銅鐸の様式や特徴などから制作年代には開きがあり、弥生時代中期~後期の複数の様式が混在しています。製作時期の違う銅鐸が多量に土中に埋納されることは謎です。

 

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次回は  第10回(最終回)「後期 ②」

 

 

(担当H)

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