『弥生時代』
第5回
「鉄の使用」
鉄製品
弥生時代の最初は、ごく少量の輸入鉄器が使われていただけで、道具の主力は石器でした。ところが、鉄器の生産が進み、弥生時代後期には石器は殆ど姿を消しました。弥生時代は石器時代から青銅器時代を経ることなく、鉄器時代へ移る過渡期でした。
ところで、鉄器が石器より優れている点は何でしょうか? 刃物としての切れ味は? サヌカイトや黒曜石の薄い破片は、鉄の刃物より鋭い刃を作ることも出来ますが、耐久性は鉄器がはるかに勝っています。また、刃こぼれしたり、折れた石器は捨てるしかありませんが、鉄器は使えなくなっても鋳直して再生することが可能です。
古代日本では、鉄器は紀元前3世紀ごろ、青銅とほぼ同時期に日本へ伝来しました。当初、製鉄技術はなく輸入されていました。青銅は紀元前1世紀ごろから日本で作られるようになりました。一方、製鉄は弥生時代後期後半(1~3世紀)から古墳時代にかけて開始されたと言われています。
●中国からの鉄の伝来
中国で鉄が作られたのは、3400~3100年前ごろ(春秋から戦国期)といわれ、鉄器文化が本格化しました。日本でいえば、まだ縄文時代の後期後半に当たります。
日本で縄文時代末から弥生時代の始め頃、中国の製鉄技術は、朝鮮半島の北部に伝えられていました。
日本の弥生時代中期頃になると、このような鉄で作られた鉄斧の破片などが北部九州を経由して日本に運ばれ再利用されました。ムラに持ち込まれた鉄製品は貴重品でした。島根県雲南市木次町の垣ノ内遺跡は弥生時代中期の集落遺跡ですが、ここから見つかった鋳造鉄斧片もこの様なものだったと考えられます。
●日本の鉄の導入期
鉄器は中期前半までには、北部九州で工具を中心に一般化が起こりました。
弥生時代の確実な製鉄遺跡が発見されていないので、弥生時代に製鉄はなかったというのが現在の定説です。当時のわが国では、鉄製品は鉄の生産からではなく加工でした。出現当初は鍛造鉄斧(たんぞうてっぷ:高温で熱した鉄を鍛えた鉄の斧)の断片を研ぎ出して小型の工具などに加工していました。鉄を溶かすためには極めて高温の操業に耐えうる炉が必要であり、弥生時代にこのような技術が存在したかどうかは疑問です。しかし、加工は弥生時代中期(紀元前後)に始まっていたと思われます。ただ本当にしっかりした鍛冶遺跡はありませんでした。炉のほかに吹子、鉄片、鉄滓、鍛冶道具の揃った遺跡はありませんでした。鉄製鍛冶工具が現れるのは、古墳時代中期(5世紀)になってからとなります。
朝鮮半島と九州の間に位置する壱岐島には、大陸の文明・文化を移入する際の中継地であったことを示すいくつかの遺跡があり、多くの出土品が確認されています。幾つかの石器とともに多くの鉄製品が出土しています。壱岐市には「魏志倭人伝」に記された一支(いき)国の王都とされる原の辻遺跡もあり、カラカミ遺跡も一支国の集落だったとされています。
壱岐市勝本町のカラカミ遺跡は弥生中期から後期にかけて(紀元前数世紀~紀元3世紀頃)当地で高度のモノづくりが行われていたことを示しています。
2013年12月14日の日本経済新聞に、このカラカミ遺跡から弥生時代後期(紀元1~3世紀頃)の鉄生産用の地上炉跡が少なくとも6基見つかったことが報じられました。弥生時代の地上炉跡は国内で初めての発見で、専門家は弥生時代の精錬炉の可能性があると指摘しています。今までは、日本では古墳時代の6世紀後半頃、鉄の精錬が始まったとされていました。床面に直径約80㎝の範囲で焼けた土が広がっており、炉を作る「地上式」と確認しました。この炉の方式が、韓国で発掘された精錬炉とよく似ているとのことで、この地上炉が朝鮮半島から移入されたものとされています。これまで、炉に風を送る管や鉄の棒、鉄のヤジリなども出土しています。しかし、周辺からは鉄製品の加工時に発生する鉄片は見つかっていないため、鉄自体を精錬していた可能性があるといいます。そのため、この精錬炉が鉄鉱石を溶解させる製鉄炉(溶鉱炉)を指すものか、大陸から輸入された鉄を加熱して半溶融で色々な道具類に成形・製造していた加熱炉であるのか? この点については、今後さらに調査する必要があるとされています。九州大の宮本一夫教授(考古学)は、出土状況などから「精錬炉の可能性がある。そうであれば、弥生時代に鉄を生産していた重要な遺跡だ」と述べています。
カラカミ遺跡(壱岐)から北九州(唐津付近)を経由して、瀬戸内海を船で輸送する方式で輸入地金が近畿地方まで搬送され、大規模な鍛冶工房で様々な鉄製品が造られたことが分かります。
鉄製農具が普及するようになった中期後半以降、集落が急激に増加しました。鉄製農具は農業の生産性を左右する重要なものでしたが、鉄素材は朝鮮半島から得なければならず非常に貴重なものでした。
●鉄の調達
さて、このような多量の鉄器を作るには多量の鉄素材が必要です。製鉄がまだ行われていないとすれば、大陸から輸入しなければなりません。
『魏志』東夷伝弁辰条に 「国、鉄を出す。韓、濊(ワイ)、倭みな従ってこれを取る。諸市買うにみな鉄を用い、中国の銭を用いるが如し」 鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。
また、紀元200年代の中国の歴史書「三国志」によれば、朝鮮半島南部の鉄を倭国(日本)が受け取り、倭国の土器や米(モミ)を朝鮮が受け取ったことが記載されており、紀元3世紀には既に鉄が日本に輸出されていたことが客観的に裏付けられています。それは、日本の弥生時代後期後半から古墳時代初めに当たります。
以上のことから、鉄を朝鮮半島から輸入していたことは確かです。
では、どんな形で輸入していたのでしょうか?
朝鮮半島南部では、釜山の福泉洞(ポクチョンドン)古墳群などで明らかになったように、4世紀の中ごろに鉄鋌(てってい)という両端が幅広になった長方形の鉄板が出現し、持ち運びに便利でいろいろな鉄製品を作る加工素材として広く取引されていました。そして、5世紀には鉄梃の形で加耶の鉄が倭国にもたらされていました。
その他、鉄鉱石、ケラのような還元鉄の塊、銑鉄魂、鍛造鉄片などが考えられます。日本では弥生時代中期ないし後期には鍛冶は行なわれているので、その鉄原料としては、恐らくケラ(素鉄塊)か、鉄鋌の形で輸入したものと思われます。銑鉄の脱炭技術(ズク卸)は後世になると思われます。
●鉄の加工の始まり
日本で最初に製鉄が行われるまでは、大陸で製鉄された鉄を輸入し、これを加熱・鍛造するなどの鍛冶工程だけが国内で行われていました。
わが国の鉄関連で最古級の遺跡に、当時の奴国の中心地だった福岡県春日市の赤井手遺跡(旧石器時代~古墳時代)があります。旧石器時代~古墳時代まで続く遺跡ですが、この遺跡は製鉄を行った遺跡ではなく、鉄素材を加工して鉄器を製作した鍛冶加工遺跡だった可能性があります。今のところ、この時代の製鉄遺跡は確認されておらず、わが国では銅鐸などの鋳造技術の後に鍛冶技術が伝わったと思われます。鉄器の製作を示す弥生時代の鍛冶工房は、十数カ所が発見されています。しかし、発掘例を見ると本格的な鍛冶遺跡はありません。例えば、炉のほかに吹子、鉄片、鉄滓、鍛冶道具の揃った遺跡はありません。また、鉄滓の調査結果によれば、ほとんどが鉄鉱石を原料とする鍛冶滓と見られます。出土した鉄片の中には、加熱により一部熔融した形跡の認められるものもあり、かなりの高温が得られていたことが分かっています。
鉄器工房から大型細身の棒状哲斧が7本まとまって出土しました。これは三韓後半に10本一組で副葬され、古墳時代の鉄素材である鉄鋌と同様の意味を持つものでした。
鉄製鍛冶工具が現れるのは古墳時代中期(5世紀)になってからのことです。
しかし、中には縄文時代晩期の遺物を含む炉のような遺構で鉄滓が発見された長崎県小原下遺跡の例もあります。弥生時代後期に鍛冶工房が急増することから、製鉄の開始時期は、この頃まで遡るのではないかという見方もあります。
なお、国立民族博物館が弥生時代前期と認めた下記の鉄製品の出土物は、調査内容の不備、不完全さから「前期と断定できない、前期ではない」と否定されています。
・今川遺跡(福岡県)・斎藤山遺跡(熊本県)・唐古鍵遺跡(奈良県)・曲り田遺跡(福岡県)
・山の神遺跡(山口県)・前田山遺跡(福岡県)
●鉄の普及
弥生時代後期の農業生産を画期的に高めたのは、鉄製農具の普及でした。鋤や鍬の先端に鉄の刃先を付け始めるようになったことにより、土を耕すことが容易になり(ある研究成果では木製農具に比べ作業効率が約4倍に伸びたと算定している)、新しい土地を田や畑として切り開く開墾も盛んになったと考えられます。鉄製農具が普及するようになった中期後半以降の集落の急激な増加がそれを裏付けていると言えます。鉄製農具は農業の生産性を左右する重要なものでしたが、鉄素材は朝鮮半島から得なければならず非常に貴重なものでした。
弥生時代前期後半の綾羅木郷遺跡(あやらぎごういせき)(下関市)では、板状鉄斧、ノミ、やりがんな、加工前の素材などが発見されています。しかし、この頃はまだ武器、農具とも石器が主体でした。
弥生時代中期中頃(紀元前後)になると鉄器は急速に普及しました。それによって、稲作の生産性が上がり、低湿地の灌漑や排水が行われ、各地に国が芽生えました。
後漢の班固(AD32~92)の撰になる『前漢書』に 「それ楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国となる。歳時を以て来り献じ見ゆと云う」 との記事がありますが、当時倭人が半島の楽浪郡(前漢の植民地)を通じて中国との交流もしていたことが分かります。実際、弥生中期の九州北部の墓から楽浪系の遺物(鏡、銭貨、鉄剣、鉄刀、刀子、銅製品など)が多数出土しています。この中に有樋式鉄戈(てっか)というものがありますが、調査の結果によると鋳造品で、しかも炭素量が低いので鋳鉄脱炭鋼でないかと推定されています。
鳥取県湯梨浜町の宮内(みやうち)第1遺跡では、弥生時代後期の四隅突出型墳丘墓(よすみとしゅつがたふんきゅうぼ)の埋葬施設から鉄剣と鉄刀が出土しています。いずれも弥生時代のものとしては国内最長クラスの優品です。鉄剣は抜身で、平絹(へいけん:平織の絹)で幾重にも包み棺に納められていました。この鉄剣と鉄刀は分析の結果、中国前漢時代に開発された製法により、大陸で鍛錬された可能性が高いことが分かっています。鉄器の普及が進んできたとはいえ、誰もが手軽に持つことが出来ない時代、大陸で作られたこのような製品を入手出来たのは、被葬者が東郷池とその先に広がる日本海を通じた海上交通の要衝の地を治めていた有力者であったと考えられます。
吉野ヶ里遺跡は全国の弥生時代遺跡の中でも特に鉄製品が多く出土し、鉄斧、刀子、ヤリガンナ、鎌、鋤先(すきさき)など鉄製農具も豊富であったことが分かっています。このような鉄の豊かさは、弥生時代の吉野ヶ里が大きな力を持った集落であったことを示しています。

弥生時代中期中葉から後半(1世紀)にかけては、北部九州では鉄器が普及し、石器が消滅する時期でした。ただし、鉄器の普及については地域差が大きく、全国的に見れば、弥生時代後期後半(3世紀)に鉄器への転換がほぼ完了することになります。
●鉄を巡る争い
後期には、北九州地域の遺跡から鉄器が大量に出土しますが、瀬戸内沿岸や近畿地方の遺跡からは僅かしか出てきません。すなわち北九州地域が、鉄資源の入手ルートを独占していたと考えられます。そこで、鉄資源の入手ルートの支配権を巡って勢力争いが起こったのではないかと考えられています。そして近畿地方の大和勢力を中心に、邪馬台国連合のような広域の政治連合が出来上がっていたと想定されています。
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次回は 第6回「早期」
(担当H)
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