『弥生時代』第6回 早期 | 奈良の鹿たち

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『弥生時代』

第6回

「早期」

 

 

時代区分 早期・前期・中期・後期の4期区分

今や「弥生時代は稲作が始まった時代」というのは死語になっています。稲作は、弥生時代の前に既に始まっていました。だから、水稲農耕技術を安定的に受容し、水稲農耕を主とした生活によって社会的・政治的変化が起きた文化・時代を「弥生時代」とする認識が生まれてきました。

水稲農耕が始まった縄文時代晩期末には、すでに弥生時代に繋がる文化が見られることから、これらを縄文時代とは区分して、弥生時代早期という時代に位置付けるようになりました。

現在では、早期・前期・中期・後期の4期区分論が主流になりつつあります。

 

弥生時代のはじまりは紀元前5世紀頃、終わりは紀元3世紀頃(この間約700年)というのが、これまでの通説でした。近年、自然科学的な年代測定法(AMS法)により弥生時代の始まりは、それまでの説より約500年早い「紀元前10世頃」という説が有力になっています。

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2003年(平成15年)、国立歴史民俗博物館は、弥生土器付着の炭化物の測定結果を発表しました。それによると、九州北部の弥生早期~前期の土器である夜臼Ⅱ式土器(縄文土器)と板付Ⅰ式土器(弥生土器)の煮炊き用土器に付着していた煮焦げやふきこぼれなどの炭化物を、最新の放射性炭素年代測定AMS−炭素14年代法によって計測し、実年代に換算したところ、11点の資料のうち10点が紀元前900~750年(紀元前10世紀・縄文時代晩期)に集中する結果を得ました。そして、北部九州での灌漑水田稲作のはじまりは、紀元前930年前後であることが分かりました。したがって、北部九州の水田稲作が始まった「夜臼Ⅰ式土器」の年代は、紀元前11世紀(早期)ごろにまでにさかのぼる可能性が出てきました。

 

早期の始まりが紀元前1000年(11世紀)頃から

前期の始まりが紀元前800年(9世紀)頃から

中期の始まりが紀元前400年(5世紀)頃から

後期の始まりが紀元前50年(1世紀)頃から

古墳時代への移行はほぼ従来通り紀元後3世紀中葉となります。

放射性炭素年代測定の誤差が大きいことから、利用は進んでいませんでしたが、1970年代末に登場したAMS法の登場により精度が向上し活用が進んだ結果です。

その後、稲作文化は紀元前9世紀末(早期~前期)には高知県へ、紀元前7世紀初~中期(前期)には大分県や愛媛県など瀬戸内海西部でも始まりました。紀元前7世紀末~6世紀初(前期)に神戸に、紀元前6世紀(前期)に大坂で始まりました。奈良盆地には、紀元前5世紀(前期~中期)に到達し、中部地方には紀元前5世紀(前期~中期)、南関東には紀元前4~3世紀(中期)、東北北部には紀元前5世紀(前期~中期)と推定されますが、水田稲作が、800~700年かけて、きわめてゆっくりと各地に広がっていったことが分かります。

 

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北部九州地域では、稲作技術は遅くとも縄文時代後期までには列島にもたらされていたことが分かっています。また、水稲農耕の導入についても北部九州の一部地域では縄文晩期前半にまで遡る可能性が指摘されています。そのため、来、縄文時代晩期後半とされてきた段階について、近年ではこれを弥生時代早期と呼ぶようになりました。すなわち、早期は、縄文時代後半から日本へもたらされた稲作が普及した農耕文化の確立期を指します。普及し始めた稲作は、当初から高度な水稲栽培の技術が用いられていたことが分かっています。その裏付けとなったのは、日本初期の集落跡として知られる福岡市博多区の板付遺跡(いたづけいせき)でした。板付遺跡は、日本でもっとも古い環濠集落跡のひとつです。遺跡の年代は縄文時代晩期から弥生時代後期とされています。約500~1000年間にも渡る遺構が残っていたことで、日本における農耕文化の成り立ちが明らかになりました。ここに水路を制御するための井堰や、木杭で補強された畦畔(けいはん:耕地間の境)などが見つかったことで、稲作技術は、日本に伝来していた当初から高度なものであったことが判明しました。

すなわち、完成された稲作文化がそのまま日本に伝来したことが証明されました。実際、朝鮮半島南部には、板付遺跡と酷似した水田跡が発掘されています。

当時の水田は、ひとつずつの面積が非常に小さい区画で構成された、いわゆる「小区画水田」が主流でした。

佐賀県唐津市の菜畑遺跡(なばたけいせき)は、今から約2500~2600年前(縄文晩期中頃)のもので、板付遺跡の水田を含む層(縄文晩期終末)よりも、およそ100年以上古い遺跡です。

このことは、日本における非常に整備された形での水田稲作の開始が、従来考えられていた時期よりも、さらに200~400年も前だったことを意味します。こうした点から、この地域では縄文後期から引きつづいて水田稲作が行われていたと思われます。水田稲作技術が伝わる以前は、イネをアワ、ヒエ、キビなどの雑穀類と混作する農業が行われていた可能性があります。例えば、菜畑遺跡では縄文晩期の層から炭化米とともにアワ、オオムギといった雑穀類やアズキが見つかっており、同じ時期の長崎県雲仙地方の山ノ寺遺跡、大分県大石遺跡からはイネの圧痕がみられる土器が発見されています。遺跡が台地に立地することから、谷あいの湿地か畑でイネが栽培されていたのかもしれません。

 

これまで水田稲作は、朝鮮半島から伝わったとされていましたが、弥生時代の開始が約500年遡る可能性が出てきて、中国から直接、朝鮮半島南部と日本に伝わった可能性が出てきました。

紀元前11世紀(早期)殷(商)が滅亡し、西周が成立する頃、殷(商)・西周の政変で中国の江南(長江下流流域)から日本に亡命した人々が直接稲作をもたらした可能性もあります。

 

<中国・朝鮮半島との交流>

弥生社会の成立や成立や展開には中国・朝鮮との交流が深く関わっており、大きく三期(第一・二・三期)に分かれています。

第一期(弥生早期~前期初頭) 自然波及期

第一期は弥生の始まりで、整備された水田や、木製の農具(鍬、臼、杵)、石包丁や石鎌などの収穫具、木器や板・矢板(畔や水路の補強)を作る工具(石斧)、紡織具、磨製石剣、磨製石鏃、金属器、支石墓・箱式石棺墓・木棺墓、環溝集落等が一斉に現れました。これらは朝鮮南部の無文土器中期の文化です。

円形環溝や井戸も朝鮮南部の無文土器時代中期の集落で、現在も多くが発見されています。

無文土器を作る時の技法が、縄文土器の制作に影響しており、渡来した無文土器人が深く関わっている事が考えられます。

この時期、朝鮮から渡って来た人々(無文土器人)だけの早期の集落はなく、どこでも縄文的要素と渡来的要素が共存していました。縄文人と渡来人は共同で弥生時代の幕を開けたのであり、石器の造りを見ても、渡来的要素は取捨選択されました。

福岡県新町支石墓から出た人骨は極めて縄文的で、弥生文化と形質が一致しません。ということは、渡来人集団の規模はとても小さく、縄文人の受容・適応力が高かったと言えます。
縄文人は丸顔で目鼻の凹凸が目立ち、低身長であるのに対し、典型的な弥生人は面長でのっぺりした顔に切れ長の目を持って身長も高く無文土器人的です。
ごく狭い地域に集中渡来し人口が増加して、渡来系弥生人集団が確立し、そこから遠賀川式土器の東進と共に、遺伝子も広がったのでしょう。

なお、渡来は一度限りではなく、渡来文化の受容は早期全体に渡ると見られます。

このように前期初頭は、日本と朝鮮との文化圏の分離が明確になってくる時期でした。朝鮮では墓に副葬された銅剣が、日本では集落から破片の形で出てきますから、人々が高級品(銅剣)の価値を理解していなかったという事で、政治権力は発達していなかったと見られます。しかし、単独の支石墓や、板付Ⅰ期の有力集団の方形周溝墓もあり、ある程度の階層構造は存在していました。この時期の朝鮮では、ひと足早く既に政治的社会が形成されていました。

<道具・農具>

早期~前期の約600年間は石器時代でした。道具は、工具や耕起具、調理具などに石器を多く使っていましたが、前期から中期にかけて、徐々に鉄器を使うようになりました。青銅器は当初武器として、その後は祭祀具として用いられていました。

弥生時代の農具のほとんどは、カシ材を加工した木製品でした。木鍬(きくわ)・木鋤(きすき)などを使って田を耕し、干し草などの肥料は田下駄(たげた)や大足(おおあし)によって田んぼに踏み込まれました。
(もみ)は田んぼに直にまかれ、稲が実ると石包丁で穂先だけ刈り取っていました。脱穀(だっこく)には、木臼(きうす)と竪杵(たてぎね)などが使われ、穀物は貯蔵穴や高床倉庫に保管されました。コメは貯えることができたため、その貯えの多さによって貧富の差が生まれました。また、農業に必要な治水、灌漑などの共同作業が必要となり、水稲農耕の知識のある者や人々を統率する者が族長・首長となって、そこに階級制が生まれる素地がありました。
収穫や耕作地、水利権などをめぐって戦いが発生したり、開墾や用水の管理などに大規模な労働力が必要な場合は協力したりしながら、より大きな村になり、やがて国になっていきました。

<倉庫>

高床倉庫自体は縄文時代にも存在していました。しかし普及が本格化したのは弥生時代早期、つまり農耕社会が成立してからです。
米などの穀物は風通しが良い場所に保管しないと、蒸れて品質が落ちてしまう。また土壌に近いほど湿気が多く、微生物の侵食やネズミや虫などの食害に会う。そのため穀物を地面から遠ざけ湿気から守り、ネズミ返しなどの工夫で生物からの食害も防ぐことができる高床倉庫の需要が増えました。食料だけでなく、農具や武器など道具衣類も収納していたと考えられています。

また、洪水や土石流が発生すると高床倉庫は収穫済みの稲を、そのような水害から守ってくれました。

<木棺墓>

北部九州では、丸木をくりぬいたものを上下に合わせたような特殊な形状をした木棺墓が特に弥生時代早期~前期前半期に特徴的に認められます。

しかし、前期末以降は甕棺を用いる甕棺墓へと変遷していきました。

木棺墓は、その後近畿地方や伊勢湾沿岸部で主流となりました。

<住居>

弥生時代早期〜前期は、竪穴住居で中央に囲炉裏を設けて調理を行ったり、暖を取ったりしていました。

<衣服>

弥生時代早期、「緯打具」(ぬきうちぐ/よこうちぐ:横に渡した緯糸(よこいと)を詰める部品)と呼ばれる機織具が中国大陸から伝来したことで、製布技術が飛躍的に発展しました。

衣服の形状は、男女とも布の中央に穴が開けられ、頭から被る貫頭衣が一般的でしたが、布自体は経緯糸(たてぬきいと)の密度が高まり、現代のハンカチ程度の仕上げレベルにまで質感が進化しました。

繊維は大麻が主流で、フジやコウゾなどのクワ科の植物が用いられることもありました。

 

 

 

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次回は 第7回 前期

 

 

(担当H)

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