『弥生時代』第7回 前期 | 奈良の鹿たち

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『弥生時代』

第7回

「前期」

 

 

時代区分 早期・前期・中期・後期の4期区分

水稲農耕が始まった縄文時代晩期末には、既に弥生時代に繋がる文化が見られることから、これらを縄文時代とは区分して、弥生時代早期という時代に位置付けるようになりました。

現在では、早期・前期・中期・後期の4期区分論が主流になりつつあります。

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2003年(平成15年)に国立歴史民俗博物館(歴博)が、放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の炭化物の測定結果を発表しました。

弥生時代の始まりは紀元前5世紀頃、終わりは紀元3世紀頃(この間約700年)というのが、これまでの通説でした。近年、自然科学的な年代測定法(AMS法)により弥生時代の始まりは、それまでの説より約500年早い「紀元前10世紀頃」という説です。

弥生時代前期の時代設定は、従来は紀元前3世紀~1世紀とされていましたが、500年ほど遡り紀元前9世紀~5世紀とされ始めています。また期間も、以前は200年間程といわれていましたが、科学分析法では400年間と長くなりました。

 

 

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<中国・朝鮮半島との交流>

弥生社会の成立や成立や展開には中国・朝鮮との交流が深く関わっており、大きく三期(第一・二・三期)に分かれています。

第二期(弥生前期末~中期前半)には、朝鮮の銅剣・銅矛・銅戈や鏡が本格的に流入し定着しました。

朝鮮ではこれらの銅製品は、出現した時から首長層と完全に結びついており、特定個人墓にも副葬され、集落などの日常生活の場からは発掘されません。また、銀印(銀製の印)と共に銅剣・銅矛が発掘される例もあり、首長の権力と結びつく政治的な器物であったとみられます。

朝鮮同様、政治的貴重品だと考えられ弥生社会にも政治的な発展が訪れたことが分かります。

第二期は、朝鮮から多くの渡来人がやってきており、港の建設や国の交易に主導的にかかわり、国造りに大いに貢献していました。逆に、対岸の朝鮮でも弥生土器が発見されています。それ程、数は多くなかったようですが、弥生人が朝鮮に渡っており、居住していたようです。

しかし、この時期の遺跡からは金属器製造に関する物は発掘されていません。やがて、金属器関係の渡来工人達がやって来て金属器生産が本格化しました。

 

<弥生人>

弥生人は、中国大陸や朝鮮半島からの渡来人とその子孫が主体でした。弥生人を大きく分けると、渡来してそのまま居住した「大陸系弥生人」と、縄文人との混血によって生まれた「混血弥生人」、そして純血の縄文人の「縄文系弥生人」からなります。中国で紀元前473年、呉が越に敗れ難民が日本にやって来ました。弥生時代に入ってから大陸からの移住などで国内人口が急増しました。弥生文化の伝統の中には、朝鮮半島とは繋がらないが、中国南部とは繋がるとみられるものが少なくありません。高床式の建物、鵜飼、歌垣などです。

山口県土井ヶ浜遺跡や佐賀県の三津永田遺跡などの前・中期の弥生人骨の研究から、弥生人は、成人男性の平均身長が約163㎝、成人女性が約150㎝であったことが挙げられました。顔立ちは眼窩(がんか:眼球のある頭蓋骨の大きな深いくぼみ)が丸くて顔がやや長く、眉が細くて一重の切れ長のまぶた、全体として凹凸が少ないのが特徴でした。これに対して縄文人は、平均身長が男女とも約2~5㎝低く、眉は太くはっきりとした二重のまぶた、顔も角張っていたため、弥生人とは見た目自体が大きく異なっていました。

人口の分布は、縄文時代には、日本列島全土に万遍なく広がっていたのに対し、弥生時代には西日本に集中するようになりました。東北・関東地方の人口推定値は、縄文時代とほぼ変わらない一方で、近畿・中国地方は縄文時代の20倍以上、九州・四国地方も10倍以上に増えたと言われています。これは西日本の方が温暖な気候であることが稲作に適しており、それにより備蓄できる食糧の多寡が人口の増減に直接的な影響を与えていたと思われます。

 

<農業>

日本列島における水田稲作は、西から東へ少しずつ時間を掛けながら段階的に伝播し、拡大・定着していきました。弥生時代早期の紀元前10世紀後半に北部九州に上陸した水田稲作は、250年後に西日本に伝播し始めましたる。世界的な気候の温暖化が起こり、稲作の可能な土地が東や北へと広がりました。まず弥生時代前期の紀元前800年ごろ四国に伝わりました。山陰・瀬戸内では紀元前700年ごろ。紀元前650年頃近畿圏に到達し、紀元前500年ごろ濃尾平野、伊勢湾地域まで広まりました。ところがこの先、東進の痕跡がなかなか出てきません。関東で水田が確認されるのは紀元前100年頃です。その一方、日本海沿いに稲作は北上し弥生時代前期~中期の紀元前400年ごろには青森に到着。そこから太平洋岸を南下していました。関東の稲作は、西からではなく、北から伝わった可能性が出てきました。

青森県弘前市の砂沢遺跡(後述)では、弥生時代前期~中期(約2400年前~2300年前頃)の水田跡が発見されました。これまでのところ水田跡の北限で、東日本では最も古い水田跡です。それまで弥生時代に東北地方北部で稲作はありえないと受け止められていましたが、決定的な証拠となりました。砂沢遺跡の水田は、その灌漑水路や農耕具、出土した石包丁など、技術的には西日本の稲作技術と大差がありませんでした。つまり、弥生前期、中期に西日本で既に完成された農耕技術が、東北にも到達していたのです。北九州に伝わった稲作が、一体どんな形でここまで到達したのでしょうか? しかしこの地での稲作農耕は、定着することなく終ったとされています。

 

田に水を張る際に地面を平らにするには、多くの人手が必要なため、田の面積を小さくすることでその手間を軽減しました。栽培していたのは、主にジャポニカ種。稲刈りの際は、石包丁によって穂首だけを刈り取り、入口を狭めたフラスコ状の貯蔵穴へ貯蔵しました。これも朝鮮半島南部から伝来した技術ですが、湿気の多い日本の気候には合わず、弥生時代前期頃からは、床を高くして湿気から稲を守るために高床式倉庫が出現しました。この倉庫には柱に庇(ひさし)を付け、下からよじ登るネズミの侵入を阻止する仕掛け(ネズミ返し)も付いていました。

<金属器>

弥生時代前期から中期にかけて朝鮮半島より鉄器青銅器が伝来しました。しかし、弥生時代前期は、完成品が何らかの形で持ち込まれただけであって、まだ一般に広まることはなく、それは中期以降になります。日本で最初に現れた金属器は、鉄器ではなく青銅器でした。最も古い青銅器は、弥生時代前期にあたる紀元前8世紀の福岡県福津市の今川遺跡で見つかりました。これは、中国遼寧地方で造られた遼寧式銅剣の破片を加工再利用して作ったものです。

 

<土器>

北九州で稲作を始めた人々は、遠賀川式土器(おんががわしきどき)を生み出しました。

遠賀川式土器は、西日本に分布する弥生時代前期の土器の総称。九州から西日本に広く分布し、それが初期の水田稲作の西から東への伝播の指標とされ、西日本の弥生前期土器の総称として使われるようになりました。この土器は西日本全域に分布していますが、この系統の土器は東日本の本州全域にも拡がり、各地に水田稲作をもたらしました。

分布は太平洋側では伊勢湾沿岸まで、日本海側では若狭湾沿岸までの西日本全域に及ぶとされていましが、その後南西諸島や本州北端の青森県まで及んでいることが分かりました。

青森県三戸郡南郷村の松石橋遺跡で遠賀川式土器の完形壺が見つかり、青森県八戸市の是川遺跡から出土した土器片も遠賀川式であることが確認されました。それ以来東北地方各地で遠賀川式土器的なものが見つかっています。

 

<住まいと家族>

弥生時代の住居は大きく3種類に分けられます。縄文時代から続く建築方式の竪穴住居、掘立柱で屋根を支える掘立柱住居、地面に掘った穴に柱を立て、一段高い位置に床を設ける高床住居

最も一般的なのは竪穴住居で、夏は涼しく冬は暖かく、比較的強風にも強いのが特徴。竪穴住居の大きさから、大家族が一緒に住んではいなかったと考えられます。掘立柱住居は地面全体ではなく柱穴のみを掘り、屋根を地面まで葺き下ろさない建物を指します。掘立柱住居の建築技術をさらに進化させたのが、床を地面から離した高床住居。地位の高い人物の住まいに採用されることもありましたが、一般的には湿気防止が可能な食糧倉庫として用いられていました。弥生時代前期頃からは、祭祀用の建物にも高床住居が採用され始め、やがて高さのある建物自体が神聖さの象徴となりました。

 

環濠集落

前期になると、集落ごとの格差が表面化したり、開墾地の占有争いで紛争が度々勃発しました。周囲の集落に攻められないように環濠集落が築かれ、集落内の結束を維持するための決まり事なども厳格化していきました。

北九州のこの頃の村落遺跡である吉野ヶ里遺跡(後述)や原の辻遺跡(後述)は、環濠集落であり、東の方の神戸市の大開遺跡や愛知県の朝日遺跡(後述)も環濠集落でした。

環濠集落の北限は、太平洋側では千葉県佐倉市の弥生ムラ、日本海側では新潟県新八幡山です。このように戦争による緊張感は広く全国的で、日本海側では北まで広がっていた可能性もあります。近畿では、環濠集落は前期末に現れ中期以降に普及しました。

 

<争いの発生>

稲作が拡大するにつれ、経済的格差、身分格差、開墾地や水を巡る争奪など社会的不調和が生じてきて、残忍な殺戮が常態化しました。武器による傷のある人骨は、戦闘の存在を示す証拠です。人骨に武器の切っ先が突き刺さっている事例も、北部九州を中心に数例が確認されています。このような受傷人骨の例は、弥生時代には前代と比べて明らかに数が増加しており、戦争が頻繁に起こった事は確実とみられます。戦闘による受傷事例は、前期後半~中期前半の北部九州地域、特に福岡県小郡市を中心とした地域に多く認められます。この頃は、西日本の多くの地域で集落が可耕地の少ない丘陵上へと一斉に進出したとされており、各地域において弥生集団が急激な人口の増加を背景に可耕地の拡大を求めた時期であると考えられます。

 

<墓地>

弥生時代前期初頭から前半の墓は、土壙墓(どこうぼ)が主体でした。土を掘って棺を使用せずに遺体を埋める墓のことで、古今を通じて日本中で最も普遍的な埋葬方法でした。手足を伸ばして葬る伸展葬が主流で、たいがいは集落に近接した場所の共同墓地に埋葬されました。

縄文時代から続く甕棺墓(かめかんぼ)は、北部九州において前期~中期の代表的な墓制です。成人に特製の大型甕棺を使用。盛り土はほとんどなく、甕棺は斜めに置かれ、屈葬がほとんどでした。

木棺墓(もっかんぼ)は、朝鮮半島から渡来した墓制と考えられている埋葬様式の一つです。前期末までには広く(北部九州をのぞく)西日本地域で主たる墓制として採用されました。

方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)は、弥生時代前期中頃から、木棺埋葬地の周囲を一辺6~25m程の方形に区画し、幅1~2mの溝を掘り、さらに土盛りして墳丘を築く墓です。北部九州では少なく、近畿地方で広がり前期の間に伊勢湾岸に達しました。供献の土器類は、一般に壺・高坏に器台・甕、鉢、などがあります。方形周溝墓は特定の個人墓ではなく、複数人が一緒に埋葬されるようになり、家族の墓だったとも考えられます。また、階層によって埋葬方法が異なっていて、着装品の有無や赤色顔料の使用の有無などから序列化が出来上がっていました。

方形周溝墓は弥生時代より早い時期に朝鮮半島で大量に発見されています。墳丘墓は、中国には見られない墓制で、朝鮮半島南部から伝えられたものと考えられ、これは弥生人が中国長江地域ではなく朝鮮半島から移住したことを示しています。

 

<衣服>

弥生時代前期に入ると、北九州地方などでが用いられるようになり、繊維の質感がさらに向上しました。実際、吉野ヶ里遺跡では、絹の繊維を作るの飼育が確認されています。

しかし、模様入りの絹製衣服を身に付けたのは、首長一族など身分の高い人々のみでした。一般の人々は、弥生時代を通じて大麻製を着用していました。魏志倭人伝にも、弥生人の身なりについての記述があります。

「衣は縫い合わせずに幅広の布を結び重ねているのみ」、あるいは「人々はみな裸足」と書かれていますが、これらが指しているのは、あくまで一般の人々の装束。さらに、「男は冠を被らずに布を頭に巻き、女は髪を結っておさげにしている」とあります。

 

<遺跡>

●砂沢遺跡(すなざわいせき)

砂沢遺跡は弥生時代前期の段階に、青森県津軽地方で稲作が行われていたことを示す遺跡であり、現在のところ日本列島で最北かつ東日本で最古の水田跡となっています。また、出土遺物の様相からは、稲作を導入しながらも縄文時代の要素を残し、狩猟採集も同時に行っているという当時の生活の姿がうかがえます。

土偶:時期的には弥生時代前期に位置づけられ、東北地方の中でも特有の土偶と言えます。 数少ない弥生土偶の中でも本土偶は最も大きく(高さ20㎝)、作りも丁寧で、考古学的にも・美術的にも重要な資料です。

朝日遺跡(あさひいせき)

朝日遺跡は、愛知県清須市、及び名古屋市西区にまたがる弥生時代前期から後期にかけての環濠集落跡。東西約1.4㎞南北0.8㎞に亘る範囲で住居跡や方形周溝墓などが発見されており、東海地方では最大級の規模です。最盛期には、約1,000人もの人々が暮らしていたと考えられています。朝日遺跡における最大の特徴は、防御施設です。集落を囲むように逆茂木(さかもぎ:先端を尖らせた木の枝を外側へ向けて、地面に挿した防御設備)や乱杭(らんぐい:地面に不規則に打ち込んだ杭)が配置され、言わば国内城塞の元祖といった構造になっていました。この発見によって弥生時代に、激しい集落間紛争が存在したことが裏付けされました。

唐古・鍵遺跡(からこかぎいせき)

唐古・鍵遺跡は、奈良盆地の中央部に位置する奈良県田原本町で発見された大型環濠集落跡。

遺跡面積は約30万㎡で、規模の大きさのみならず、大型建物の跡地や青銅器鋳造炉など工房の跡地が発見されています。弥生時代前期から後期にかけて発達した。唐古・鍵遺跡では約700年間、継続的に集落が存在していたことが分かっており、出土品や遺構によって存在した時期が5段階に分類されています。

初期となる第1段階は、弥生時代前期初頭から前半に該当。未完成の鍬や鋤が発見されたことから、木製農具の生産拠点でもあったと推測されています。弥生時代前期の終わりから中期の初めにあたる第2段階では、木製農具の他に、石包丁の製造工房も存在していました。

原の辻遺跡(はるのつじいせき)

原の辻遺跡は、吉野ヶ里遺跡や登呂遺跡と並び、弥生集落三大遺跡に数えられている地。長崎県壱岐市に位置し、総面積は約1㎢。魏志倭人伝に記された一支国(いきこく)の王都だったことが判明しており、中国大陸と日本列島を結ぶ大規模環濠集落として、弥生時代前期から古墳時代初期にかけて発展を遂げました。

他では見られない遺構や出土品が多いのが特徴で、日本最古の船着き場跡、日本唯一の人の顔を模った人面石(国重要文化財)や、ココヤシの実で作られた笛などが発掘されて話題を集めました。

吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)

佐賀県吉野ヶ里町・神埼市に位置する「弥生集落三大遺跡」(吉野ヶ里遺跡・登呂遺跡・原の辻遺跡)のひとつ。

もともと縄文時代後期から人々が居住していましが、本格的な発展を遂げたのは弥生時代前期。吉野ヶ里丘陵に環濠集落が点在するようになり、推定117万㎡もの巨大環濠集落へと発展しました。早くからクニとして組織化され、遺構の周囲には総延長約2.5㎞にも及ぶ環濠を配備。その内側にも逆茂木や土塁、柵などが設けられていた他、複数の物見櫓が存在していました。建物にまつわる遺構も多く、竪穴住居や高床住居、祭祀用の主祭殿も発掘。首長や首長一族が埋葬されたと推測される墳丘墓からは、中国大陸や朝鮮半島からもたらされた有柄銅剣やガラス製管玉なども見つかりました。こうした出土品の多様さからも、当時国内有数の勢力を誇った都市が、この地に広がっていたと考えられています。

なお、多数の弥生人が一緒に埋葬されていた甕棺墓(かめかんぼ)には、首のない遺体や矢が刺さったままの遺体などが多数発見され、吉野ヶ里遺跡に存在した国が、弥生時代後期に起こった倭国大乱に参戦していたとも見られています。

 

 

 

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次回は 第8回「中期」

 

 

(担当H)

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