『弥生時代』第8回 中期 | 奈良の鹿たち

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『弥生時代』

第8回

「中期」

 

 

時代区分 早期・前期・中期・後期の4期区分

水稲農耕が始まった縄文時代晩期末には、既に弥生時代に繋がる文化が見られることから、これらを縄文時代とは区分して、弥生時代早期という時代に位置付けるようになりました。

現在では、早期・前期・中期・後期の4期区分論が主流になりつつあります。

 

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2003年(平成15年)に国立歴史民俗博物館(歴博)が、放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の炭化物の測定結果を発表しました。

弥生時代の始まりは紀元前5世紀頃、終わりは紀元3世紀頃(この間約700年)というのが、これまでの通説でした。近年、自然科学的な年代測定法(AMS法)により弥生時代の始まりは、それまでの説より約500年早い「紀元前10世紀頃」という説です。

 

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<争い>

中期には集落間の争いが激しくなり、強い集落が弱い集落を支配下に置き小国化しました。人々を統括する首長に権限が集中し、王と呼ばれる人物が現れました。彼らの多くは亡くなった際、土や石を積み重ねて丘状に造営した墳丘墓に葬られました。これが後に発展を遂げて古墳となりました。

また、守りをより強固にするため、高地性集落なども登場。組織的な軍事力が整備され、武器も進化を遂げました。この頃に中国大陸から持ち込まれた青銅や鉄を用いた矛や剣が作られ、国ごとに技術力なども競い合うようになりました。佐賀県吉野ヶ里遺跡(後述)や福岡県隈・西小田遺跡(後述)などでは、中期前葉の男性甕棺数が女性の倍にも達する事実があり、多くの男性が戦闘に参加していたことが分かります。甕棺内に頭部を切断された胴体だけが埋葬されていたと考えられる事例が見つかっています。戦闘の際に敵に首を切られた死体を持ち帰り埋葬したものと思われ、当時の争いの残忍さをあらわしています。なお、中期後半以降は受傷人骨や切先が棺内から出土する例は減少しました。

 

<稲作>

東北では前期の弥生時代中期の紀元前4世紀の砂沢遺跡第7回 前期 参照)、紀元前3世紀の垂柳遺跡で、広大な水田区画跡が発見され、稲作文化の北限が東北地方にまで達していたことが分かっています。何故か近畿から中部・関東を経由せず、それらの地域よりも早く稲作が伝わりました。しかし、その後、稲作が継続されることはありませんでした。

中部地方には中期には、中央高地の松本盆地、千曲川流域まで広がりました。中部地方の高地に広がるまでには200年という期間がかかりましたが、その理由の一つに感光性のモミが日照時間の短い中部高地では育たないということが挙げられます。

 

<金属>

●青銅

弥生時代中期から後期にかけて、国々が本格的な戦争を開始すると青銅は武器にも使用され、銅剣や銅矛などが作られるようになりました。金属製の武器が一般化したことで戦争も激化しました。大型の青銅器は、出現当初を除いてほとんどが祭祀に用いられるものでした。

青銅器は、福岡県福津屋市今川遺跡から遼寧式銅剣を原料にして再溶解して作ったと考えられる銅鏃(どうぞく:やじり)と銅ノミが出土し、紀元前8世紀(前期)頃、朝鮮半島からごく少数ながら持ち込まれました。紀元前4世紀(中期)になると、朝鮮半島から銅剣・銅戈(どうか)・銅矛(どうほこ)・銅鏡がもたらされました。

銅剣・銅矛・銅戈などの青銅の武器は、大型化して祭器へと変わっていきました。それらは地域の有力者の個人の所有物として使われていて、墓に副葬されることが一般的でした。

青銅器は、鋳型に溶けた金属を流し込むことにより生産され、前期末~ 中期前半期の青銅器の鋳型は、主に佐賀県佐賀市から小城市にかけての佐賀平野南西部に多く見られます。

青銅器は北部九州を中心とする地域では銅矛や銅剣・銅戈などの武器形青銅器が、畿内を中心とする地域では銅鐸が多く出土します。北部九州や山陰、四国地方などに主に分布する銅矛や銅剣、銅戈などは前期末に製品が持ち込まれるとともに、すぐに生産も開始されました。銅鐸も半島から伝わったと考えられますが、持ち込まれた製品と列島で作られた製品とは形態に差があり、列島での生産過程はよく分かりません。稲の祭りの時に音を発していた銅鐸が、吊るす部分が退化したことから、最初は舌(ぜつ)を内部に吊るして鳴らすものとして用いられていましたが、徐々に高さが1mを超える巨大な象徴として見るものへと変わっていきました。

銅鏡も前期末に渡来しました。中期末以降は列島でも生産されるようになりましたが、墓に副葬されたり、意図的に分割(破鏡)されて祭祀に用いられました。

 

●鉄第5回 鉄の使用 参照)

 

<墓>

甕棺墓(かめかんぼ)とは北部九州に特有の土器を棺として使用した墓を指します。大型の素焼きの土器に亡くなった人の手足を折り曲げて入れ、土の中に埋める埋葬方法で、弥生時代前期~中期のおよそ200年の間、盛んに使われていたようです。縄文時代終わりごろの大型壺が変化し、埋葬専用の甕棺が生み出された経緯は明らかになっていますが、何故九州の弥生人が大型の土器を棺として選んだのか、まだよく分かっていません。

このほかに木製や石製の蓋が使われることも多くありました。木棺墓は、特に畿内などでは土壙墓とともに前期~古墳時代にかけての方形周溝墓第7回 前期 参照)の主体部として採用されました。

 

<遺跡>

垂柳遺跡(たれやなぎ いせき)

青森県津軽郡田舎館村で発掘された弥生時代中期の遺跡。水田跡が見つかったことにより、弥生時代の稲作文化が東北地方にまで普及していたことが判明しました。

この垂柳遺跡の発掘前までは、稲作の北限は関東地方周辺と考えられていました。水田は畦(あぜ)によって細かく区切られ、1枚当り1~22㎡と極めて小さな水田が656面検出されました。さらに水田には大人だけでなく子供の足跡が残っており、当時の人々が家族総出で農作業していたことが判明しました。この他、弥生土器や200粒以上の炭化米も出土しています。

しかし、この地域での稲作は短期間で終り,古墳時代までには続きませんでした。厳しい気候の東北での稲作は不安定であり、他方自然に恵まれていたため人々は、縄文時代の自然採集に戻っていったのでした。

中里遺跡(なかざと いせき)

神奈川県小田原市にある弥生時代中期の遺跡。竪穴住居/竪穴式住居跡102軒や掘立柱建物跡73軒、方形周溝墓、水田跡などが発掘されました。関東地方にも、西日本の巨大遺跡に匹敵する規模の集落が存在していたことが判明しました。中里遺跡の一角には、弥生時代後期の環濠集落跡も見つかっていて、この集落が小国家へ発展した形跡と考えられています。

ここでは集団の編成方法や運営、生活技術などに畿内の影響が指摘されていて、近畿中央部からの入植によって弥生文化の扶植が図られたことが明らかになっています。

中里遺跡では土器の出土も多く、関東地方特有の「須和田式土器」(口縁部が逆台形に開き、底が小さい坪型土器)が多数発見されています。瀬戸内地方で作られていたはずの「瀬戸内系土器」(凹線紋様が多い土器)も出土しました。瀬戸内系土器は、これまで中部地方や東海地方の遺跡では発見されていませんでした。つまり、瀬戸内地方から船などで直接、中里遺跡のある地域に渡った人々が、その技術を伝えた可能性が高いと考えられています。

唐古・鍵遺跡(からこ・かぎ いせき)第7回 前期 参照)

唐古・鍵遺跡では約700年間、継続的に集落が存在していたことが分かっており、出土品や遺構によって、存在した時期が5段階に分類されています。

弥生時代前期の終わりから中期の初めにあたる第2段階では、木製農具の他に石包丁の製造工房も存在していました。さらに、中期前半にあたる第3段階では、集落の周りに環濠が掘られ、大型建物跡や井戸などが発見されました。全国からヒスイや土器などが集まる一方、銅鐸の主要な製造地でもあったと見られ、弥生時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落ではないかと見られています。この頃がこの集落の最盛期だったと考えられています。ここから出土した土器に描かれていた多層式の楼閣が、遺跡内に復元されています。 

池上・曽根遺跡(いけがみ・そね いせき)

大阪府の泉大津市と和泉市に跨る広大な遺跡。弥生時代中期の環濠集落跡とされ、総面積約60万㎡の遺跡から掘立柱建物や大型くり抜き井戸、竪穴住居などが発見されました。とりわけ掘立柱建物の規模は国内最大級を誇り、東西約19m南北約7mにも及ぶ。26本の柱が立てられており、それぞれに直径60~70cmの大木が使用されていました。発掘時に計17本の柱における基礎部分が、腐敗していない状態で出土しました。年輪年代測定法によって調べたところ、紀元前52年の建物であることが判明しました。また、石包丁の出土が極めて多いのも特徴で、その数約1,600本。このうち約300本は未完成だったため、石包丁の生産拠点としても機能していたと推測されています。

妻木晩田遺跡(むきばんだ いせき)

鳥取県西伯郡大山町で発見された国内最大級の弥生遺跡。弥生時代中期に最盛期を迎え、中国地方最高峰である大山の北麓に、総面積152万㎡もの巨大集落が形成されました。発掘された竪穴住居跡は約450棟、掘立柱建物跡は約510棟にも上り、その規模は佐賀県にある吉野ヶ里遺跡の3倍以上にもなります。なお、山陰地方特有の四隅突出型墳丘墓も39基が見つかっており、当時、国内でも有数の勢力を持った国が、この地を本拠地としていたことが窺えます。

土井ヶ浜遺跡(どいがはま いせき)

 

土井ヶ浜遺跡は、山口県下関市豊北町土井ヶ浜にある弥生時代前期から中期の墓地遺跡です。「戦士の墓」あるいは「英雄の墓」などと呼ばれています。砂丘中に6体の人骨が入った石棺が発見され、出土した人骨の形質が縄文人のそれと異なることから、土井ヶ浜遺跡は稲作文化とともに中国大陸側から渡来した弥生人の墓地として注目されてきました。「英雄」は78人以上の人々と共に海岸の墓地に眠っていた弥生前期の人物で、この人骨の胸から腰にかけて15本の石鏃が打ち込まれていました。至近距離から打ち込まれたものとされ、土井ヶ浜のムラを守るために戦った戦士であったとも考えられています。

隈・西小田遺跡(くま・にしおだ いせき)

  

福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡は、弥生時代を中心とした集落跡と墓地などが見つかっており、中でも甕棺墓は1600基余りに達します。このうち弥生時代中期(約2000年前)の首長の墓と考えられる甕棺墓では、埋葬された成人男性の右手にゴホウラ貝製腕輪がはめられ、他にも細形銅剣や鉄戈、鉄剣、前漢鏡が出土しています。丘陵斜面からは一括埋納された銅戈23本が発見され、1本の茎部分には鹿の絵が刻まれていました。他にも複数の青銅、鉄製品や石製品、銅剣の刺さった人骨などが出土しています。

吉野ヶ里遺跡(よしのがり いせき)第7回 前期 参照)

紀元前4世紀頃には、吉野ヶ里丘陵の中に集落が形成され始め、これが大規模な集落へと発展することになりました。中期には、吉野ヶ里の丘陵地帯を一周する環濠が出現しました。集落が発展していくとともに、防御が厳重になっていました。また、墳丘墓や甕棺が多く見られるようになりました。吉野ヶ里遺跡から出土した弥生時代の鉄器は230点以上にのぼります。これらの鉄器は、農具、工具、武器など用途も多彩です。

 

 

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次回は 第9回 「後期 ①」

 

 

(担当H)

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