『弥生時代』第4回 弥生土器② | 奈良の鹿たち

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『弥生時代』

第4回

「弥生土器②」

 

弥生土器

 

様式と地域性区分

弥生文化を区分は、土器様式を大別して前期―中期―後期の3期に分けられます。しかしこの区分法は、地方により一致しません。

期(前期)の弥生土器は、福岡県遠賀川の遺跡から採集された土器に基づいて遠賀川式土器と総称されています。先が尖った工具で引いた線による篦描文(へらがきもん:先の尖った工具で付ける線状の文様)、貝殻の縁を使った単純な貝殻文や綾杉文、木の葉文などで飾られています。 現在では遠賀川式土器はさらに細別され、福岡市板付遺跡の板付Ⅰ式土器が最古のものとして扱われています。

最古の弥生土器である板付Ⅰ式土器の大半は壺形土器と甕形(かめがた)土器でした。縄文土器には、壺形土器はほとんど出土されていないのに弥生土器の成立とともに、壺形土器が重要な役割を担うようになったと言えます。その役割として、稲作農耕の収穫である種籾などの貯蔵が考えられます。

板付Ⅰ式土器は、縄文土器と同様の素焼きの土器で、その形態には煮炊き用の甕、貯蔵用の壷、盛り付け用の鉢や高坏などがあります。

水稲農耕が始まった頃作られていた縄文時代晩期の夜臼式土器には、縄文時代の後期から晩期にかけて見られた煮炊きや盛付けに用いた深鉢、浅鉢といった器種の他に、新たに貯蔵用の壺が加わりました。丸底の丸い体部に、口が窄(すぼ)まる形で表面を磨いた壺は、朝鮮半島の無文(紋)(むもん)土器に起源をもつものとされています。

しかし、壷のみだけでなく、甕や鉢といった器種においても共通点、相違点があります。初期の弥生土器(板付Ⅰ式土器)の成立には無文土器と縄文土器の両方の影響があったと考えられています。

弥生土器が現れた時点で、縄文土器の伝統を受け継いだ土器を伴っているのは、北部九州ばかりではありません。伊勢湾地方でも、弥生土器であるのに縄文土器の伝統を受けて貝殻の縁などで粗い文様を付けた土器が伴いました。関東地方では、伊勢湾地方の土器の影響を受けて弥生土器が成立するので、縄文土器の伝統は西日本に比べて根強い。縄文土器から弥生土器への変化には地域差がありました。

この遠賀川式土器は、太平洋岸では東海付近、日本海岸では京都府丹後半島まで在地の土器として存在し、東北の青森県にまで伝播し、弥生文化が本州の北端まで広がったことを物語る土器でした。

期(中期)の弥生土器は地方差が明瞭でした。九州地方では輪郭の曲線の美しさと磨いた肌の美しさとを追求し、文様を殆ど捨て去った須玖(すぐ)式土器が代表です。

中国・四国地方から愛知県・石川県に及ぶ範囲では、櫛描文(くしがきもん:先端が3本以上に分かれた櫛状の道具で施された文様)で飾った櫛描文土器が発達し、これ以東の地方及び九州地方にも影響を与えました。土器製作と文様を描くのに、一種の回転台が利用されたと考えられています。中期後半には櫛描文は衰退し、回転台上で横方向になでる際の起伏を文様化した凹線文が発達しました。東日本では、各種の曲線文様や縄文を用いた土器が発達しました。

Ⅴ期(後期)の弥生土器は全国的に装飾を次第に失い、また作りが粗略化しました。この動きは西日本で早く、東日本では遅い。仕上げも嘗ては美しく飾った土器が、粗略な作りとなり文様も失うのは、一見、技術的退化ともみえ、美術史的からも後退しているといえます。しかしこれは、時間と労力とをかけての土器作りが、意味を持たない時代の到来を示しています。例えば、弥生時代終り頃の畿内の土器と東海地方の土器とを比べると、後者は美しく前者をはるかに凌いでいました。しかし社会の発達は畿内が先に進み、東海地方は後れていたのです。また一般実用品土器が消耗品として粗略に仕上げられた反面、台頭する有力者の祭りや墓に関わる見せる土器は丁寧に美しく作る傾向がありました。弥生土器から土師器への推移に、古墳時代における支配者に関わる技術と一般庶民の技術との分裂の徴候を垣間見ることができます。なお奈良県唐古遺跡を中心とする近畿地方では,Ⅳ期(中期末)に鹿、高床建物、人物などを土器に描くことが始まり、九州や関東に及びました。Ⅴ期(後期)に入ると絵画よりも記号風の表現が多くなりますが、竜を描いた物も数例あり、水を呼ぶ想像上の動物としての竜の知識が伝わっていたことが分かります。

朝鮮半島の土器との関係

最初期の弥生土器は、水田稲作の技術と共に朝鮮半島から伝来した土器製作技術によって成立しました。例えば、覆い野焼、表面を赤く塗って磨き上げる丹塗磨研、粘土紐の接合面が外傾する事などに無文(紋)土器の特徴を見出すことが出来ます。また、中期頃に導入されたタタキ技法も大陸からの伝播である可能性が高い。弥生時代は、朝鮮半島の無文土器時代(青銅器時代~初期鉄器時代)から原三国時代に相当します。後期の無文土器は日本列島でも北部九州地方を始めとする弥生時代の遺跡から数多く出土しており、弥生時代の稲作農耕や金属文化の流入に朝鮮半島からの人々が関わったことを示唆しています。 吉野ヶ里遺跡でも、朝鮮系無文土器が多数出土しています。

しかし、無文土器板付式土器は、外見は似通っているように見えますが、板付式土器の壷は無文土器に比べると造りは丁寧で歪みが少なく、早い時期から装飾を施すようになるなど差異もみられます。板付式土器では円盤状の粘土を貼りつけた平らな底部で、口縁に粘土を貼りつけた段が付きました。そして、有軸羽状文(ゆうじくうじょうもん)や山形文(やまがたもん)の彩文(さいもん)は朝鮮半島の壷にはないものでした。

初期の弥生土器(板付Ⅰ式土器)の成立には無文土器と縄文土器の両方の影響があったと考えられています。

弥生土器成立後の朝鮮半島の土器は、青銅器時代後期に窯焼成が始まり、三国時代には三足器などの新しい器種が制作されるなど、中国からの影響を受けて製作技法や生産体制が変化しました。一方で日本では、中期から後期にかけて楽浪系・三韓系の土器は流入していたものの、その影響は弥生土器に及ばず在来技術を独自に発展させていきました。また逆に、弥生時代中期には朝鮮半島南部で弥生系土器が生産されており、弥生人が移住・定着していた可能性も指摘されています。

 

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「国立歴史民俗博物館」(千葉県佐倉市)は2003年、水田稲作が日本に伝わり弥生時代が幕を開けたのは定説より約500年早い紀元前1000年頃、と特定する研究を発表しました。北部九州から出土した土器などから採取した試料を最新の放射性炭素(C14)年代測定法で分析し結論づけました。

弥生早期後半の夜臼Ⅱ式土器と前期前半の板付Ⅰ式土器、計11点のうち10点が紀元前800年から前900年ころに集中することが判明。水田稲作が伝来した弥生早期前半は前1000年頃と判断し、弥生の幕開けは前1000年前後と導き出しました。

国立歴史民俗博物館では日本各地の縄文時代から弥生時代の遺跡の他、韓国の無文土器時代の資料を測定しました。これらの成果から、弥生時代早期は紀元前10世紀後半、弥生時代前期は紀元前9世紀末、中期は紀元前4世紀後半に遡る可能性があることが示されました。

これまで通説となっていた、「弥生時代のはじまり=紀元前300年」は、1960年代に、土器編年(土器を地域ごと、型式ごとに前後関係に分類・整理し、年代順に配列すること)や遺跡から出土した中国の青銅器をもとに割りだされた年代に、弥生前期のコメや貝を炭素14年代法(遺物の中の炭素の放射性同位体である炭素14の量から年代を推定する方法)で測定したデータ結果を加味して出された説でした。

韓国南部と北部九州の土器型式の併行関係は炭素年代においても追認され、朝鮮半島の無文土器の各時期も通説よりもはるかに古いことが再確認されました。

 

 

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次回は 第5回 「鉄の使用」

 

 

(担当H)

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