『弥生時代』第3回 弥生土器① | 奈良の鹿たち

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『弥生時代』

第3回

「弥生土器①」

 

弥生土器

 

弥生土器という名称は1884年(明治l7年)に東京都の弥生町遺跡(弥生二丁目遺跡)で見つかり、壺形土器が出土地にちなんで命名されました。その後の調査でこの軟質で赤焼きの弥生土器に伴って金属器や炭化米も発見され、その時代を弥生時代というようになりました。
福岡県の遠賀川で発見された土器は、九州から近畿地方に至る地域で見られる古式の弥生土器の特徴を持って、それらを遠賀川(おんががわ)式土器と総称し、弥生時代前期の土器として考えるようになりました。

さらに福岡県の板付遺跡から、縄文時代晩期の夜臼(ゆうす)式土器と一緒に発見された板付(いたつけ)Ⅰ式土器が発見され、最古の弥生土器として認定されることになりました。

その後、弥生時代以前の水稲農耕とそれに伴う技術、文化などが発見されたこともあり、弥生時代は土器ではなく、水稲農耕の存在で始まりとしようする考え方が主流となりました。そして、土器によって時代を定義することは実際の運用上、今や合わなくなってきました。

 <弥生土器の三つの特徴>

①薄くて硬い                     

縄文土器と比べ、弥生土器には「薄くて硬い」という特徴が見られます。

弥生土器は、ロクロを使わない手びねりで壺や甕、鉢、高坏など多彩な形状に仕上げていました。弥生時代中期からタタキ技法が取り入れられ、時代が降るにつれてタタキ技法が発達し、成形の工程がより効率化されていきました。縄文土器と違って弥生土器は、野焼きをする場合、「覆(おお)い焼き」をしました。野焼きを土でドーム状に覆うことで、窯のような役割を果たし、土器全体に熱を均一に伝えられました。焼成温度は600~800℃程度で,野焼きで酸素を十分供給した状況(酸化炎)で焼き上げました。全体的に赤みを帯びた褐色のものが多く、燃料に触れた部分に黒斑が生じる。「覆い焼き」のメリットの一つは、野焼きよりも高温で仕上げられることです。そして二つ目は、一つ一つの土器に万遍なく熱を伝えられることです。

これらのメリットによって、弥生土器は縄文土器より薄く強度に優れで耐久性の高いものとなりました。

②シンプルな文様

縄文土器に比べ淡褐色の明るい色のものが多く、実用的に進化し形状も洗練され模様も質素な方向へとシフトしていきました。無地か、あったとしても三角や丸、直線・波型など幾何学的なものが殆どでした。しかし、装飾が無くなったわけではなく、地域ごとに個性豊かに発達しました。実際に装飾が少ないのは前期段階の土器と中期以降の西日本、特に北部九州の土器です。弥生時代後期には多様な装飾が施されるようになり、文様に地域性が生まれました。その理由は、土器の生産は集落ごとに行われ、交易に頼らず土器を自作していたため、土地ごとの発展があったと考えられます。

一方で東日本では亀ヶ岡式(縄文)土器から発展した縄文の影響が残り、関東地方では古墳時代まで、東北地方では古墳時代以降も縄文が残りました。

また、弥生土器は、鉄器時代の土器にふさわしく、鉄斧で割った板の木目を利用して器面をなでて刷毛目(はけめ)と呼ぶ文様を施し、また鉄の刃で刻んだ櫛描文を描き、溝を彫った叩き板で叩き目をつけ、鉄のナイフで彫った文様を押しつける(スタンプ文)など土器作りにかかわる木の工具に鉄が利用されていました。

③用途に応じた器種の多さ

水田稲作の普及によって食生活・生活様式が一変しましたが、その影響は土器の器種組成と大きさにもあらわれていました。弥生土器は炊飯に使われる。穀物の保存に使われる。盛り付け用の高坏。取り分け用の。以上4種の器種が多くなりました。縄文時代に煮炊きに用いられた深鉢は、弥生土器では蓋(ふた)を被せる甕に変化し、さらに穀物を保存するための壺が大量に作られるようになりました。また、葬祭・祭祀に用いる甕棺や特殊器台・特殊壺などは、弥生文化の一面を表すと思われます。

一方で、特定の地方にのみ見られる器種もあります。北部九州で製作された棺専用の甕棺(かめかん)、関東地方で再葬時の骨壺に使用された人面土器、近畿で生産された取っ手と円筒形の頸(くび)を持つ水差し、西日本に見られる底に穴を開けた有孔甕、瀬戸内に見られる器台が極めて大型した特殊器台とこれに据える底のない特殊壺、伊勢湾沿岸にみられる胴に丸い穴を開けた丸窓付土器、畿内を中心に広がり祭祀に用いられた手焙形土器などが挙げられます。

「壷(つぼ)」

縄文土器が、深鉢(6~7割)、鉢(2~3割)を主要器種とし、土瓶や壺その他さまざまな形の器種は1割程度を占めるに過ぎなかったのに対し、弥生土器では壺が全体の5割前後と、極めて目立つ存在となっていました。いずれの地域でも水田稲作が始まる頃は壺の比率は1割程度でしたが、稲作が主たる食糧生産として定着するとその割合は3割を超えるようになりました。

弥生土器の特徴のひとつは、大きな壺形土器がたくさん作られるようになったことです。水稲農耕の始まりとともに出現した壺の用途には、米やモミなどの貯蔵等が考えられます。そして、その大きさには小型(20㎝前後)、中型(30㎝程度)、大型(40㎝以上)のものがあり、それぞれの用途に合わせて作られていました。板付遺跡の環濠の内側には多くの貯蔵穴が見つかっており、米やモミをこれらの壷に収めて穴倉に貯蔵していたと考えられます。また、壺の出現以後、次第に縄文時代の浅鉢は少なくなり、土器における壺の占める割合が多くなりました。縄文時代に浅鉢は木の実のアク抜きにも使用されたもので、その減少は食物の比重が木の実から米に変化していったことを意味ししています。

壺は丸い胴部と頸(くび)がすぼまり、口が広がって大きく外反する口縁部(こうえんぶ)を持つようになりました。の主用途は貯蔵にあり、実際に米,モモ(種子)、貝などの食物が入ったまま発見されています。とはいえ気候湿潤な日本では、米に限らず食物を容器のなかに貯蔵すると、変質したり虫がついたりするので、長期にわたる貯蔵には不向きでした。弥生土器の壺も水の貯蔵にも用いたと思われます。

(かめ)

弥生土器で甕と呼ぶのは、釣鐘を逆さにしたような形状の丈が高く広口の器であって、縄文土器の研究では深鉢(ふかばち)と呼ぶものに相当しました。長く直線的な胴部と広い口縁部をもつ甕は、大きさや容量によって用途が異なりました。小型・中型品が煮炊きに使われました。これらは火熱を受け煤(すす)に覆われていることによって明らかになりました。内部に飯がこげついて残っていることも多く、米を直接煮て食べる調理法が一般的であったことが分かります。底部に孔をあけた甕や鉢があり、これを甑(こしき)つまり蒸器と考えられ、米を蒸して食べたとされていますが、大型の甕は火にかけた痕跡をとどめておらず、水を蓄えたと考えられます。

「鉢・高杯(たかつき)・器台(きだい)

弥生時代中ごろに高杯が主要な器種となり、それ以来、壺や鉢にも台を付けるものが増え、台を独立させた器台が登場しました。鉢や高杯は、食物を盛りつけるための器です。これらは農耕祭祀の発達と階級社会への歩みの反映とみてもいいでしょう。

甕棺(かめかん)・特殊器台(とくしゅきだい)

日常の生活に用いる土器は、しばしば転用されて墓に供えられたり、幼児を葬る棺や再葬の納骨容器としても使われていました。埋葬や祭儀用を目的として作った土器もありました。代表的なものは、北部九州の甕棺で高さ1mに達する特大の甕を棺として用いていました。また甕棺墓地でまとまって見いだされる壺、甕、高杯、鉢、そして壺をのせる高い器台は、丁寧な作りで赤く塗ってあり、使用の痕跡を留めておらず、明らかに墓地で営まれる祭りのため特別に作り使ったものでした。

岡山県を中心とする地域においては、弥生時代末の墳丘墓に大型の壺や器台を立て並べてあり、特殊壺や特殊器台と呼ばれています。後者が古墳時代の円筒埴輪の祖形になりました。

 

 

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次回は 第4回 「弥生土器②」

 

 

(担当H)

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