『弥生時代』第2回 稲作の始まり | 奈良の鹿たち

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『弥生時代』

第2回

「稲作の始まり」

 

 

稲の栽培は、東アジアで約3万年前の石器時代に野生の稲の種子をまいて収穫したのが、始まりです。木の木の実や獣、魚、貝をとって食べる時代から、食糧を生産する時代へと大転換を果たし、人々は定住生活をするようになりました。

日本では、1943年に発見された静岡県登呂遺跡から水田跡や炭化米、農具が発見され、これにより稲作は弥生時代になって初めて日本に伝えられたと考えられていました。しかし、弥生時代以前にもイネの栽培が行われていたという確かな裏づけが、昭和35年以降、九州地方の縄文遺跡から発見され始め、今から約3000年前の縄文時代後期にはすでに大陸から稲作が伝わっていたことが明らかになりました。それよりも古い時代に原始的農耕が行われた可能性さえあるのです。

縄文稲作の可能性

従来、水田稲作に関しては紀元前5~4世紀頃に始まったとされていたが、2016年、農林水産省は近年の研究成果から、日本では縄文時代後晩期(約3000-4000年前)には中国伝来の水田稲作が行われていた可能性が高いことが判明した、と公表しています

2003年に国立歴史民俗博物館も、水田稲作が日本に伝わり弥生時代が幕を開けたのは定説より約500年早い紀元前1000年頃、と特定する研究を発表していました。北部九州から出土した土器などから採取した試料を最新の放射性炭素(C14)年代測定法で分析し、結論づけました。

 

1988~1989年には、縄文時代後期から晩期にあたる青森県の風張遺跡(かぜはりいせき)で、竪穴住居跡から発見された“7粒の炭化米”のうち2粒の放射性炭素年代測定がおこなわれました。その結果、米粒は2,540±240BP,2810±270BP(紀元前2800~3000年)という年代から“縄文のコメ“とされました。このうちの一粒はトロント大学のAMS設備によって14C年代測定を行った結果、2540±240BPの年代が示されていることから、当概期におけるコメの存在の可能性はきわめて高いものといえます。

当地方の稲作栽培の結果なのか、他地域(西日本、あるいは大陸?)からの搬入の結果なのか・・?

炭化米の発見が即稲作の可能性に結びつかないが、当時の長雨・冷温・短い日照時間など厳しい気象条件を克服できる稲作技術を持ち合わせていたかも知れない。

 

鹿児島県の遺跡では1万2千年前の薩摩火山灰の下層からイネのプラント・オパール(イネ科植物の葉身にあるケイ酸を含むガラス質の細胞の結晶)が検出されており、これは稲作起源地と想定されている中国長江流域よりも古い年代となっていると報告されています。

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プラント・オパール」(植物珪酸体化石)(Plant Opal)(Wikipediaより)

ガラス質に変化した植物珪酸体は、植物体が枯死した後にも腐敗せず残存し土壌に保存される。更に、植物体毎の特徴があることから種を特定することが可能であり、花粉と共に古植生環境を推定する手段として利用される。プラント・オパールは飛散しにくく乾燥地や酸性土壌など花粉が遺存しにくい環境でも遺存するため、局所的な環境と植生の分析が可能である。

特にイネ科植物はプラント・オパールが残りやすく、稲作の起源を探る研究が精力的に行われたため多くの知見が蓄積されている。しかし、イネのプラント・オパールは粒径が小さく雨水と共に地下に浸透することも考えられるため、即座に発見地層の時代における栽培の証拠とすることはできない。年代推定の精度を上げるため、プラントオパール中の14Cを利用した放射年代測定も試みられている。

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2003~2006年の調査で、岡山市の彦崎貝塚の縄文時代前期(6000年前)の地層から、イネのプラントオパールが大量に見つかり、縄文中期には稲作(陸稲)をしていたとする学説が出ました。イネのプラント・オパールは20~60ミクロンと小さいため、即座に発見地層の年代を栽培の時期とすることはできませんが、イネの栽培を伺わせ、これまで栽培が始まったとされている縄文時代後期(4000年前)をはるかに遡ることになりました。

貝塚には墳墓があることやイネのもみ殻のプラントオパールも見つかっていることから、祭祀の際の宴会や脱穀などの共同作業で持ち込んだと推定されました。見つかったイネは中国南部原産の可能性があり、大陸から伝わったイネではないかと考えられています。縄文時代のイネについてはこれまでも同グループが6000年前の岡山市の朝寝鼻貝塚や4500年前の縄文中期の岡山県美甘村の姫笹原遺跡でプラントオパールを検出しました。しかし微量だったことから、上層からの混入や中国大陸から風で飛ばされてきたのではないかなどという疑問の声も根強かったのです。

2005年、熊本県本渡市の大矢遺跡から出土した縄文時代中期(5000~4000年前)の土器に稲もみの圧痕を確認したと福岡市教育委員会が明らかにしました。

全国最古のもので、縄文中期に稲作があったことを示す貴重な資料と言われました。 圧痕は、土器の製作中に稲モミなどが混ざって出来た小さな窪みです。作物が栽培された時期を特定する有効な資料で稲モミとしてはこれまで、岡山県の南溝手遺跡など縄文後期(4000~3000年前)の圧痕が最も古いものでした。近年は縄文時代に陸稲を含む農耕があったとする説が認められつつあり、稲作の起源に注目が集まっています。同教育委員会は、熊本市の石の本遺跡など約10遺跡の縄文後期以降の土器からも稲もみやコクゾウムシなどの圧痕を見つけており「縄文中期以降に稲作があったことは確実。」と話しています。

朝鮮半島

水田稲作に関しては朝鮮南部約では2500年前の水田跡が松菊里遺跡などで見つかっています。研究者は、最古の稲作の痕跡とされる前七世紀の欣岩里遺跡のイネは陸稲の可能性が高いと指摘しています。

日本へのイネの伝来ルート

イネ(水稲および陸稲)の日本本土への伝来に関しては、『朝鮮半島経由説』、『江南説(直接ルート)』、『南方経由説』の3説があります。

<朝鮮半島経由説>

長江流域に起源がある水稲稲作を伴った大きな人類集団が、中国を北上し、朝鮮半島から日本へと達したとする説です。

韓国の趙法鐘は、弥生早期の稲作は松菊里文化に由来し「水稲農耕、灌漑農耕技術、農耕道具、米の粒形、作物組成および文化要素全般において」韓半島南部から伝来したとしており、「日本の稲作は韓半島から伝来したという見解は韓日両国に共通した見解である」と説明しています。

<江南説(対馬暖流ルート)>

中国の長江下流域から直接に稲作が日本に伝播されたとする説。

佐藤洋一郎(「稲の日本史」)が、中国・朝鮮・日本の水稲(温帯ジャポニカ)のDNA分析調査で「水田稲作」に係る水稲の源郷は「長江中下流の江南地方」と結論づけ、日本の水稲は朝鮮半島を経由せずに中国から直接に伝播したものが主品種であることを報告しました。朝鮮半島に存在しない中国固有の水稲が日本で出土しており、これは稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートもあった可能性を示唆しています。

農業生物資源研究所がイネの粒幅を決める遺伝子を用いてジャポニカ品種日本晴とインディカ品種カサラスの遺伝子情報の解析を行い、温帯ジャポニカが東南アジアから中国を経由して日本に伝播したことを確認しています。

更に、研究の進展から、朝鮮半島での水稲耕作が日本より遡れないこと、朝鮮半島を含む中国東北部からジャポニカ種の遺伝子の一部が確認されないことなどから、水稲は、逆に日本から朝鮮半島へ伝わった可能性を指摘する説もあります。

<南方経由説(黒潮ルート)>

考古学の観点からは沖縄の貝塚時代に稲作の痕跡がないことから、南方ルート成立の可能性は低いとされています。

 

古代の稲作

現在、確認されている最古の水田跡は今から約2500~2600年前の縄文時代晩期中頃の佐賀県の菜畑遺跡で、これは干潟後背の海水の入り込まない谷間地の中央部に幅1.5~2.0mの水路を掘り、この両側に土盛りの畦によって区画された小規模(10~20㎡)のものでした。農耕具としては石庖丁、扁平片刃石斧、蛤刃石斧、磨製石鏃などが出土しています。

菜畑遺跡における水田では、非常に整備された形で、水稲耕作が行われていたらしく、しかも同時代の稲作を行った痕跡のない遺跡とは孤立した状態で発見されています。こうした点から、すでに縄文晩期には、大陸で稲作を行っていた集団が稲作技術とともに日本に渡来し、稲作をおこなっていたと考えられます。水田稲作技術が伝わる以前は、イネをアワ、ヒエ、キビなどの雑穀類と混作する農業が行われていた可能性があります。たとえば、菜畑遺跡では晩期の層から炭化米とともにアワ、オオムギといった雑穀類やアズキが見つかっており、同じ時期の長崎県の山ノ寺遺跡、大分県の大石遺跡からは、イネの圧痕がみられる土器が発見されています。遺跡が台地に立地することから、谷あいの湿地か畑でイネが栽培されていたのかもしれません。
同時代頃の宮崎県の坂本遺跡からも水田跡が発掘され、九州北部に伝わった水田稲作が大きな時間を空けずに九州南部まで伝わったことを示しています。

1943年に発見された静岡県の登呂遺跡の弥生水田は、矢板や杭で補強した畦(あぜ)できちんと区分され、用水路や堰(せき)も整備されていました。12戸の竪穴式住居の跡のほかに、約7万㎡の田と、2つの高床式倉庫の跡が発見されていることから、美しい農村風景が見られたようです。農具のほとんどは、カシ材を加工した木製品です。木鍬(きくわ)・木鋤(きすき)などを使って田を耕し、干し草などの肥料は田下駄(たげた)や大足(おおあし)によって田んぼに踏み込まれました。
(もみ)は田んぼに直にまかれ、稲が実ると石包丁で穂先だけ刈り取りました。脱穀には、木臼(うす)と竪杵(たてぎね)などが使われ、穀物は貯蔵穴や高床式倉庫に保管されました。

 

本州最北端の青森県の砂沢遺跡から水田遺構が発見されたことにより、弥生時代の前期には稲作は本州全土に伝播したと考えられています。

またここから20km離れた弘前市の垂柳(たれなやぎ)遺跡でも、弥生時代中期頃の水田跡が発見されています。弥生時代中期には、北海道を除く日本列島のかなりの範囲に渡り水田耕作が行われていたことになります。

 

弥生時代の中期には種籾を直接本田に撒く直播栽培からイネの苗を植える田植えへ変化し、北部九州地域では農耕具も石や青銅器から鉄製に切り替わり、稲の生産性を大きく向上させました。古墳時代には鉄器が日本全土へ広く普及すると共に土木技術も発達し、茨田堤などの灌漑用のため池が築造されました。弥生時代から古墳時代における日本の水田形態は、長さ2~3mの畦畔に囲まれ、一面の面積が最小5㎡程度の小区画水田と呼ばれるものが主流で、それらが数百~数千の単位で集合して数万㎡の水田地帯を形成するものでした。

 

2003年、国立歴史民俗博物館は、水田稲作が日本に伝わり弥生時代が幕を開けたのは定説より約500年早い紀元前1000年頃、と特定する研究を発表しました。北部九州から出土した土器などから採取した試料を最新の放射性炭素(C14)年代測定法で分析し結論づけました。

最新のAMS−炭素14年代法などによって測定した結果、九州北部の弥生時代遺跡から出土した土器に付着する炭化物(コメのおこげ)や木杭は、紀元前900~800年のものであり、紀元前10世紀後半に九州北部で本格的に始まった水田稲作が、約800年かかって、日本列島を東漸したとの説を展開しました。

水田稲作が九州北部から各地に広がるのに要した年月は、例えば瀬戸内海西部地域までで約200年、摂津・河内までで300年、奈良盆地までで400年、中部地方には500年、南関東には600~700年、東北北部には500年であると推定されますが、水田稲作が、極めてゆっくりと各地に広がっていったことが分かります。弥生時代の前期の中頃には、水田稲作技術が北九州から近畿、東海地方へと広まっていきます。しかも、北九州から東海地方にかけて、同じような土器文化が見受けられるのです。さらに時代を下って弥生時代中期には、関東地方のみならず青森県でも、水田跡が発見されています。

この結果に基づくと、日本の古代史は大幅な修正を迫られる。考古学界には慎重論があり、教科書の書き換えなどをめぐっても論議が起こるのは必至です。

これまで稲作技術は、紀元前5~4世紀頃、中国の戦国時代の混乱によって大陸や朝鮮半島から日本に渡った人たちがもたらした、とされてきました。考古学者にとって「稲作文化の始まりは紀元前5~4世紀」というのは常識です。それが一気に500年も遡れば、弥生時代そのものの長さを始め、中国大陸や朝鮮半島との関係、日本列島の中での稲作や弥生文化の伝播など、大幅な見直しを迫られます。

 

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次回は 第3回 「弥生土器」

 

 

(担当H)

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