『弥生時代』第10回(最終回)後期 ② | 奈良の鹿たち

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『弥生時代』

第10回(最終回)

「後期 ②」

 

卑弥呼

<邪馬台国>

邪馬台国が、どの地に存在していたのかは現在も謎のままです。有力な説としては畿内説九州説がありますが、いずれも決め手を欠いて確定はしていません。

こうした論争の背景には、邪馬台国の位置を示す『魏志倭人伝』の記述の問題があり、邪馬台国への距離と日程の読みをめぐり様々な解釈が発生しています。

帯方郡から邪馬台国までの距離(弥生ミュージアム)

 

<邪馬台国 畿内説>

以下、その主張・・・・・

(『魏志倭人伝』の解釈)

「不弥国から南へ行くと投馬国、更に南へ行くと邪馬台国。この南は東の誤り。投馬国は今の山口県防府市。瀬戸内海を船で行き、10日後山陽の何処かに上陸し、陸を1月で大和に達した。」

『倭人伝』の編者陳寿は、日本列島を東西に延びているのではなく南北に延びていると思っていた。従って、大和を不弥国から東なのに南と思いこんでいた。行程を考えれば邪馬台国は当然大和となる。当時は太陽が昇る方向を東と考えており、朝鮮半島から魏の使節が船で来航しやすい夏には、実際の東は時計と反対回りに45度ずれることになる。近世以前の中国の地図では日本列島が南に延びるように描かれている例がある。

(考古学的解釈)

『魏志倭人伝』で卑弥呼が魏よりもらったとされる銅鏡100枚が論点となっている。卑弥呼が魏から貰った銅鏡は三角縁神獣鏡と呼ばれるものですが、これは畿内から多く出土し九州や関東でも出土する。これは、邪馬台国がその勢力下に従属した地域の王に、魏が卑弥呼にしたように鏡を配った結果ではなないかと考えられる。古墳時代の前、即ち鏡が輸入された卑弥呼の時代には、大和の勢力が九州や関東に及んでいたと見るべきである。邪馬台国は大和にあった証拠である。魏と邪馬台国が交流していた3世紀後半には九州の文化所産は貧弱となり、畿内の古墳の方が副葬品は立派である。また近畿地方の古墳からは一つの古墳から多くの中国製の鏡が発見されており、文化的に近畿地方の方が進んでいる。当時の中国と交通があった事が、この文化の進展を促したのである。従って、卑弥呼も大和朝廷の権力者の一人であった。三角縁神獣鏡は中国で出土例がないことなどから魏の鏡であることを疑問視されているが、京都府丹後から青龍3年鏡(235年)が発見された。これは明らかに魏の鏡である。

卑弥呼は4年後に魏から銅鏡をもらっているが、その一部と考えられる。

魏志倭人伝には卑弥呼が死んで径100歩の墓を作ったとあるが、この規模は奈良盆地にある箸墓古墳にちょうど符合する。こうした大規模な墓は当時の北部九州地方には無い。

箸墓古墳の近くにある弥生時代終末期の大規模集落の纏向遺跡からは、東海地方をはじめ他の地方の土器が多数出土している。ここに、日本各地を支配するような大きな勢力があったことを窺わせる。

北部九州勢力が大和へと移動したことを示す物的証拠は、ほとんど認められない。むしろ北部九州勢力が、鉄などの資源を入手していたのを畿内勢力が奪い取ろうとして起こった戦いが倭国大乱であった。

 

<邪馬台国 九州説>

以下、その主張・・・・・

(『魏志倭人伝』の解釈)

『魏志倭人伝』の記述方法は伊都国までと伊都国から邪馬台国までは大きく異なっている。即ち、伊都国までは方位・距離・到着国名の順番だが、そこから先は方位・到着国名・距離の順番になっている。『魏志倭人伝』の伊都国の記述では、魏の使者は伊都国に常駐することになっており、ここから先へは実際には行っていない。これらのことから考えて、伊都国から邪馬台国への里数や日数は、伊都国を基点としていると解釈できる。南水行10日、陸行1月というのは伊都国からの日数である。更に、南水十日陸行一月というのは、水行すれば10日、陸を行けば1月という意味であり、陸行1月というのは倭人伝の伊都国から邪馬台国までの1500里と一致する。「帯方郡より女王国にいたる距離は12000余里」と『倭人伝』に記されている。ここから、里数が確かな帯方郡から伊都国までの10500里を引くと、残りは1500里。伊都国は今の福岡県糸島市付近と考えられるため、ここから1500里と考えれば邪馬台国は北部九州である。『魏志倭人伝』は奴国の副官を卑奴母離(ヒナモリ)と伝えているが、他の古代文献の語法との比較から「ヒナ」は中心・中心地という意味であると考えられる。ここから、ヒナモリは中心地の周辺を守るの意と解釈できる。ヒナモリが奴国にいたとすれば、中心である邪馬台国は奴国の周辺、すなわち北部九州のどこかにあったと推定できる。

(考古学的解釈)

考古学の遺構・遺物をめぐる解釈では、『魏志倭人伝』で卑弥呼が魏よりもらったとされる銅鏡100枚が主要な論点となっている。卑弥呼が景初三年に魏からもらったとされる三角縁神獣鏡は、中国からは一枚も出土していない。これは、日本で作られた鏡であり魏の鏡ではない可能性が高い。魏の鏡は、後漢の官営工房で作られてものである。これは魏が後漢の権威を継いだ存在であることを示すためであった。したがって魏の鏡は後漢の官営工房で製作された後漢鏡であり、卑弥呼が貰った鏡も後漢鏡であったはずである。前期古墳の鏡の副葬の状況を見ても、後漢鏡は棺内に置かれ最も重要な鏡として扱われている。これに対して三角縁神獣鏡は棺外に置かれている。弥生時代後期以来、最も権威ある鏡であったのは後漢鏡であり三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではない。『古事記』など日本の古代文献に上位支配者(天皇など)が、服属した豪族に鏡を配ったという記述は無い。反対に服属した豪族が鏡を天皇に捧げ、服属の意を示したという場面は描かれている。三角縁神獣鏡は棺外から何十枚と副葬された状態で発見されることが多いが、これは服属した首長から古墳の被葬者である王に捧げられたものと解釈できる。このことから考えて、三角縁神獣鏡は当時、地域の首長クラスの支配者が持つことができた鏡であり、卑弥呼の鏡とは考えられない。

九州地方の3世紀後半の文化所産は貧弱になると言われてきたが、吉野ヶ里遺跡の発見でその定説は覆された。吉野ヶ里遺跡のような物見櫓や北内郭の主祭殿、倉庫群などを備えた大規模な環濠集落が3世紀後半の北部九州に存在することが確かめられた。『魏志倭人伝』に描かれた邪馬台国の望楼(物見櫓)、城柵、宮室、邸閣などに相当する遺構がセットで発見されているのは、現在までのところ吉野ヶ里遺跡だけであり、近畿地方の遺跡からは発見されていない。

後期中葉以降に至っても瀬戸内地域では鉄器の出土量は北部九州と比べて明らかに少なく、また鉄器製作技術は北部九州と比べて格段に低かった。

 

<倭国大乱>

弥生時代後期~末期の2世紀後半に倭国で起こったとされる争乱。中国の複数の史書に記述が見られます。

『三国志 書』 卷30 東夷伝 倭人(魏志倭人伝)

其の国もまた元々男子を王として70~80年を経ていた。倭国は乱れ、何年も攻め合った。そこで、一人の女子を共に王に立てた。名は卑弥呼という。鬼道を用いてよく衆を惑わした。成人となっていたが、夫は無かった。

『後漢書』 卷85 東夷列傳第75(後漢書東夷伝)

桓帝・霊帝の治世の間(146年~189年)、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、何年も主がいなかった。卑弥呼という名の一人の女子が有り、年長だが嫁いでいなかった。鬼神道を用いてよく衆を妖しく惑わした。ここに於いて共に王に立てた。

『梁書』 卷54 列傳第48 諸夷傳 東夷条 倭

後漢の霊帝の光和年間(178年~184年)倭国は乱れ、何年も攻め合った。そこで、卑弥呼という一人の女子を共に王に立てた。(卑)弥呼には夫が無く、鬼道を用いてよく衆を惑わした。

『隋書』 卷81 列傳第46 東夷傳 俀國

桓帝・霊帝の間はその国(倭国)が大いに乱れ、互いに攻め合い、何年も主がいなかった。卑弥呼という名の女子がおり、鬼道を用いてよく衆を惑わした。ここに於いて国人は共に王に立てた。   

『北史』 卷94 列傳第82 倭國

霊帝の光和年間、その国(倭国)は乱れ、互いに攻め合い、何年も主がいなかった。卑弥呼という名の女子がおり、鬼道を用いてよく衆を惑わした。国人は共に王に立てた。(卑弥呼に)夫は無かった。

 

2世紀後半には、畿内を中心として北部九州から瀬戸内、あるいは山陰から北陸、東海地域以東にまで高地性集落や環濠集落が多く見られることなどから、これらを倭国大乱の証拠であると見られています。

倭国大乱がどこでどのような争いであったのかは、未だ具体的に解明されていません。

 

凄惨な争い

大規模な集団殺戮を示す遺跡としては、鳥取県の青谷上寺地遺跡(あおやかみじちいせき)があります。

この弥生の村の成立は、日本列島に中国の戦国時代の鉄器の流入が始まる中期頃でBC3世紀代頃と考えられています。弥生の村としては、約600~700年続いたことになります。そんな弥生の集落に悲劇が訪れたのは西暦200年前後であったようです。後期後葉に戦争の結果、集落が廃絶したと思われます。
青谷上寺地遺跡からは人骨が多数出ていて、その数は約5300点にものぼります。これは少なく見積もっても109体分にあたり、そのうち殺傷痕のあるものは110点で、これは10体分にあたります。人骨は女性や老人や幼児も含めて無差別に殺されており、刀剣による切り傷がついた骨、青銅の鏃が突き刺さった骨があります。骨に至る傷が致命傷となってほぼ即死したと思われます。判別したものの中の、男女の割合は2:1で、年齢構成は10代~40代でした。人骨から分かる平均身長は、男162㎝、女148㎝でした。何と言っても注目されるのは、脳が残っていた頭蓋骨が3点あったことです。出土状況も凄惨で、溝に多数の死体が埋葬ではなく折り重なって遺棄されていたということです。殺戮した後、死体の処理と施設の破壊を兼ねて、死体や廃棄物で溝を埋め立てたものと思われます。青谷上寺地遺跡の人骨は、頭蓋骨の計測によって、縄文人とは大きくかけ離れており、 韓国金海市の礼安里古墳群(4~7世紀)出土の人骨や、渡来系弥生人とされる福岡県 の金隈遺跡、山口県の土井ヶ浜遺跡の人骨との類似性が高いことが分かっていて、平たく面長な顔つきが想像されます。

 

<鉄器>第5回 鉄の使用 参照)

3世紀ごろには、朝鮮半島南部で生産されたが取引され、日本にも輸入されました。それは、日本の弥生時代後期後半から古墳時代初めに当たります。島根県雲南市の平田遺跡出土の鉄素材が丁度この頃の時期のものになります。すなわち日本で最初に製鉄が行われるまでは、大陸で製鉄された鉄を輸入し、これを加熱・鍛造するなどの鍛冶工程だけが国内で行われていたことになります。さて、このような多量の鉄器を作るには多量の鉄素材が必要です。製鉄がまだ行われていないとすれば、大陸から輸入しなければなりませんでした。

『魏志』東夷伝弁辰条に「国、鉄を出す。韓、濊(ワイ)、倭みな従ってこれを取る。諸市買うにみな鉄を用い、中国の銭を用いるが如し」とありますから、鉄を朝鮮半島から輸入していたことは確かです。鉄を求めて、弥生人が盛んに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。では、どんな形で輸入していたのでしょうか?

朝鮮半島南部では、4世紀の中ごろに鉄梃(てってい)という両端が幅広になった長方形の鉄板が出現し、持ち運びに便利でいろいろな鉄製品を作る加工素材として広く取引されていました。またこの鉄梃は、貨幣的意味も持っていたらしい。日本では弥生時代中期ないし後期には鍛冶は行なわれているので、その鉄原料としては恐らく鉄鋌の形で輸入したものと思われます。

下の写真は、奈良県大和六号墳出土の鉄鋌です。5世紀には鉄梃の形で加耶(かや)の鉄が倭国にもたらされていました。

後期には、北九州地域の遺跡から鉄器が大量に出土しますが、瀬戸内沿岸や近畿地方の遺跡からはわずかしか出てきません。すなわち北九州地域が、鉄資源の入手ルートを独占していたと考えられます。そこで、鉄資源の入手ルートの支配権を巡って勢力争いが起こったのではないかと考えられています。

 

 

 

 

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弥生時代  全10回  完

 

 

(担当H)

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