幼児から小学低学年の頃、隣にS教授という脳学者が住んでいらっしゃって、とっても可愛がっていただきました。これでもちっちゃい頃はかわいかったのかもしれません。
幼児の頃はグチャグチャ(今もあまり変わってませんけど)でしたから、僕はその頃の記憶などまったくありませんが、なぜかひとつだけ切り絵的にハッキリと覚えていることがあります。それはちょうど教授が脳みその展開図らしきものを広げていらした時のこと、
「心ってどこにあるの?」
と、常々疑問に思っていたことを質してみたんです。たぶんアホなボクちゃんは「心」を臓器の一部かなにかだと思っていたんでしょうな。でもそれにしてはまったく正体不明な感じがしていたもんで、なんとなく脳学者であるこのS教授に訊けばわかるような気がしたんじゃないかと思います。少しく間があって、教授は脳の図の全体を掌で覆うように円を描きながら、ここだよとおっしゃってくださいました。ふーん・・・よくわからないけど、これ以上突っ込んでもなんとなく解決しないような気がしたもんで、わかったフリだけしてみたのと、妙な質問で教授を困らせたように感じたのを覚えています。ただ、僕はアホが抜けませんから「頭で考える」のと「心に思う」のとはまったく別物だと、いまだになんとなくそう感じてはいます。よくわかんないの。
高学年になった僕は頭のいい子になりたくて、いったいどうしたらそうなれるのか、日々考えていました。勉強ができるのと頭がいいのとは違うぞ、頭が良くなりさえすれば、ひょっとして大嫌いな勉強なんかする必要がなくなるんじゃないか?しかしある日のこと、そもそもなにをもって頭がいいというのか、そこが疑問になって、今度はやはり近所にお住まいの北大出のエンジニアの方にインタビューに行きました。今思えば結局勉強が出来る人に訊きに行ってます。
その方曰く、例えばAからCという結論を導き出すためには、普通の人なら途中Bを経由しなければならないが、頭のいい人ならばAから直接Cに到達できるのだと。ふーん・・・またなんだかわかったようなわからないような。でも僕はその日からそれを指針にして頭がよくなろうと決めました。要は点と点とをマルチ配線しようってことで。ただいったいどうやったらそんな芸当が出来るんでしょうかねぇ。だからしょうがない、オヤジの書棚から「頭の良くなる本」だとか「頭の体操」だとか、勉強そっちのけでそんな本ばかり引っ張り出しては片っ端から読んでいました。・・・オヤジも苦労してたんだなぁ。
確かにこの人アタマいいなと思う人って、いきなり話が飛んだりします。でも最終的にはちゃんと辻褄が合っちゃう。それってもしかするとBを経由していない証拠かもしれません。で、大学生社会人になるにつれ様々な人と出会い、ある人がAを語り始めた刹那、あ・・・結論はCだななどと予測し、それがピッタッシだったりしたひにゃもうもう、鬼の首でも獲ったようにオレってアッタマいいじゃんなんて、ひとり悦に入ってました。
ところが、ある日これがガラガラと音を立てて崩れたんです。
ある日テレビを視ていたら、神津善行って人が奥さんのメイコさんと娘のカンナさんとのやり取りを紹介していました。そしてボクにはとてもついていけないと、首をかしげながら嘆いていらっしゃいました。作曲家で早稲田大学理工学部特別研究員なんですから、頭はいいはずなのに。
ご家族で鍋をつついていた時のこと、菜箸にネギを挟みながらメイコさん、
「あれさぁ・・・どこで降りるんだっけ?」
当意即妙カンナさん、
「下仁田インターでしょ。」
ああそうだった・・・って、おふたりの間ではこんなことが茶飯事だそうな。
と、いうことはですよ、話の飛躍についていけるかいけないかは、思考回路を同じくするかどうかだけのことであって、頭の良し悪しにはまったく関係がないということになります。回路が似てるか同じなら、CはおろかDだろうがZですら通じてしまうことでしょう。と、いうことはですよ、思考回路に乖離があれば頭のいい人同士でも、ヘタすりゃ話はまったく通じないことがあり得るということでもあります。そういやどこぞのバカ夫婦なんざ、年がら年中同じことを同時に発声するし、なんのマエフリもなく同時に同じ歌を、それも途中の同じ箇所から歌いだしたことすらあって、話が通じないことはほとんどありません。母娘は血縁ですが、夫婦なんて元はまったくの他人なのにこういうこともあるんですから、AからCにバイパスできて、それを瞬時に理解するなどというのは、誠にアタマのデキとはなんの関係もないんでしょうね。
と、いうことはですよ、世の中には頭のいい人も悪い人もいないということかもしれませんね。
・・・もっと早く言ってくれてりゃよぉ、もう少し勉強してたかもしれなかったのによぉ・・・んもぉ・・・手遅れじゃーん。