サヴァールとその仲間たちによるビーバー「戦い」。
この頃ビーバーを聴くとわくわくする。
オスカー シュムスキーの放送音源をDOREMIレーベルがまとめてくれていた。シュムスキーの音に無個性の個性、無名(むみょう)の存在感、無人の温もりを求める日々。
ブフビンダーのハイドン。おそらくベーゼンドルファーと思われるピアノの響き。まるっこくて無個性。この頃そういうものに心惹かれる。
カラヤン晩年のハイドン集成より「驚愕」。こんなに豊かな響きなのに何も心に来ない、そのことを不満に思う日々は通り過ぎて、むしろその不思議さに皮肉でなく打たれるこの頃。
ヤニグロとデームスによる60年前のベートーヴェン、ソナタ全集より第4,5番。
この私を通り過ぎていく素直な音たちの懐かしさ。
リヒテルのRCA録音集成よりシューベルトの舞曲集。
この朴訥さ、ひとりで遊んでいる少年感。
オーマンディ指揮によるメンデルスゾーンのオラトリオ「最初のワルプルギスの夜」。よもやのヴァイオリン両翼配置に聞こえる。こんなに素晴らしい透明感と力感。合唱団まで凄く生きてる感。オーマンディは曲がマイナーならマイナーほど素晴らしいという不思議さ。
ホロヴィッツのRCA録音「ショパンⅢ」より1953年のスケルツォ第1番ほか。
米田栄氏の少し斜に構えたライナーノーツが興味深い。
ピアノの音に信念がない者のショパンは聴けないということに同意。その点ホロヴィッツの苛立つような硬いエッチングのような線は、完全に個性的であるという以上に、もう個性を突き抜けて何かただならぬ無名の心痛だけを立ち上がらせる。
ネヴィル マリナー指揮シュトゥットガルト放送交響楽団によるシューマン、「序曲、スケルツォとフィナーレ」。
マリナーは音が鳴っているということさえ感じさせない。
カラヤンに対するのと同様長年そこに偏見を抱いていたが、この頃やはりその虚しいほどの透明感に惹かれる。
アルマンゴーのサティ全集より「星の息子」ほか。
鳥のさえずりまで素晴らしくよくとれている。もうむしろ、さえずりにピアノが伴奏している。個人的には大好きな、ヨーロッパならではの録音ポリシーであると思う。
ケッケルト四重奏団によるドヴォルザーク「アメリカ」。音が生きている。
クヴァピルによる1967〜1970年録音のドヴォルザーク全集より作曲順最後の「ユモレスク」集。2017年から少しづつ聴いてきて、ドヴォルザーク没後120年となった今日、聴き終わった。長年ドヴォルザークは苦手で、スメタナの方により惹かれることは今も変わりはないが、この頃その幸福感がようやく沁みてくるようになった。
ドヴォルザークを聴いてるときのこんな素晴らしい幸福感は、現実のどこを探してもほかにない。それをもって長年どこかおめでたい嘘を感じてきたのだが、いやここまで貫かれた嘘はもう真実の一種であろう。
クーベリック指揮によるドヴォルザークの交響詩「真昼の魔女」。
ドヴォルザーク晩年の4つの交響詩はその背景にグロ過ぎる陰惨なバラードがあって、この頃「新世界」などの有名諸曲より心惹かれる。
ジョン オグドン独奏によるブゾーニ、小品2曲と合唱付きの長大なピアノ協奏曲を聴く。幸いwikipediaに合唱部分の邦訳があった。
濃すぎる、この素晴らしい時間に心から感謝する。
同じオグドンの箱より1971年のラフマニノフ作品39より7曲。
この頃オグドンの素晴らしさに気付いた。
人を見かけで判断してしまうのは人のとりあえずの本能であろう。しかし例えばその人の選曲、生みだす音、そしてその人の側にいたパートナー(つまりすべてはその人の「選び方」ということになるが)を知らずに、その人を知ったつもりになるのは、結局はこちらの魂に不利益となる。
アルギス ジュライチス指揮ボリショイ劇場管弦楽団によるハチャトゥリアンのバレエ音楽「スパルタクス」全曲。
ハチャトゥリアンの弟子、寺原伸夫氏による興味深い回想録。
この頃フランシス ピカビアに惹かれる。自分が何者かは永遠に保留、その危険な自由を生きた一種の海賊。
そして稲垣足穂にこの春出逢い直した。
30年前、「君に合うと思う」と稲垣足穂の単行本を貸してくれた北原君、ごめんね当時おれはこれが分からなくて、ほとんど読まずにわずかな日数でつれなく返した時、君が浮かべた寂しげな表情が今も脳裏にある。
しかし君の言葉通りだったとやっと分かったのだ。稲垣足穂はおれに合うと思う。
その孤独で静かな童話風の大人話の、激しい心の天文学が、今のおれの心をこんなに魅するから。