数か月のぶりの更新。
最初は多少張り切って更新していたが、めっきり書かなくなってしまっていた。理由はひとえに時間がなかったから。既に書いたが、ブログ一記事に2,3時間かけてしまうので毎週は書いていられない。その時間をチェコ語の勉強や趣味に充てたかったのと、あえて記事にすることがなかった。あるにはあるが、インスタなどで写真一枚挙げれば済んでしまうので、このブログの必要性を見いだせなかったのである。
しかし、数か月ぶりにこの場を使う必要性(?)が生じた。
それはタイトルにあるとおり、語学学習と、外国人の彼女を作ること・外国人との恋愛はどのような関係性にあるのかを、自分なりに書き出したいという衝動に駆られたからである。この点、日本人女性が外国人の彼氏を作ることについては今回触れない。自分はここで一般論を論じるのではなく、あくまで自分に資する、自分の頭の中にある考えを吐き出したいだけなので、男である自分がその方法論みたいなものをここに書くことはできない。
誰がこの記事を読むことになるかは検討がつかないが、少なくともTwitterやFacebookのように他人のリツイートやシェアで流れてきて嫌でも見てしまった、ということにはならない(はず)。したがって、読まない権利もあるなかで、敢えてこれから読もうとしている方は少なくともこの分野にポジティブな関心があるという認識でいる。
また、いろいろなSNSで同僚、友人、共通の趣味コミュニティの人達とつながっているが、このブログの場を選んだのは、Twitterのように140字では伝えきれないこと、往々にして見知らぬ人と議論、というより喧嘩になるのが嫌だからである。またインスタのように写真数枚で説明できるものでもない。そして何よりこのテーマそのものに原因がある。だからこの場で書くことにした。
さて、本筋に入る前に外堀を埋めたところで、なぜこの記事を書こうと思うに至ったか、というところから始める。
自分はもう何年もツイ廃、というのは冗談だがTwitterをやっている。
外国語の勉強はもちろん、恋愛や彼女を作ることにも人並に関心があるので、数日前にTwitter上で話題になった議論にとても興味をもった。
それは、ロシア人の奥さんがいるある日本人男性が、ロシア語があまり出来ないということに対し、いわゆるアンチが、「奥さんがロシア人なのにロシア語ができないとは何事か、ロシア語ができるようになってから付き合うのが正しい順番だろ!」といった主張を展開し、その男性が「恋愛する前に語学ができないとダメ、などど勝手に順序付けるのは全く的外れ」と反論していたのである。
また、それを脇から見ていたある方がその男性を擁護・補足するかたちで、「語学学習は恋愛(ストレートに言うと性欲)をモチベとするのが正しい。先に彼女を作り、彼女から言葉を習い、会話の練習するのが良い」という内容をツイートされていた。
つまり、語学を学んでから彼女を作るのではなく、先に彼女を作ってしまえば、語学は学ぶ姿勢があればおのずとある程度ついてくる、という趣旨である。
自分はこのツイートにいいねしたのだが、後でふと考えなおし、この主張が本当に的を射ているか考え直してみた。
ここで対立している二つの主張を簡単に整理してみる。
①「語学をある程度習得してから彼女を作ろうとするべきである。そもそも語学ができなければ外国人の彼女はできない。」
これはいわゆるアンチの主張。実際には、嫉妬から男性に噛みついているだけであると思うが。。
②「最初に外国人の彼女を作ってしまうのが良い。そうすれば彼女とよりコミュニケーションを取ろうと語学学習の意欲も湧くし、お互いの言語を教えあうことができる。」
①、②の主張は卵が先か、鶏が先かの議論である。
外国語が話せるから彼女ができるのか、彼女ができると外国語が話せるようになるのか。ちなみに私は何人から「チェコ人の彼女を作るのが語学の上達には一番早いよ」と言われた。
結論から言うと、自分はどちらの主張にも半分程度しか同意できない。一方で、自分の考えは両者の中間にあるともいえる。
ここで、ある一冊の本を紹介したい。前回の留学時に友人から勧められた本で、今の自分の語学学習の根幹をなしているといってもよい。
今はなき、チェコ語の大家でもある千野栄一教授の「外国語上達法」という本である。現在手元になく、ずいぶん昔に読んだきりなので、詳細な紹介はできないが、以下は私の持論とごっちゃになっているので、興味があるなら実際に読んでみてほしい。タイトルからするといわゆるノウハウ本、自己啓発本のようだが、この本には、語学を学ぶ際の基本姿勢について書かれている。
まず、語学を学ぼうという時に一番大切なことは何か。それは、その言語を学ぶ「必要性」である。学問、研究、仕事、恋愛。なんでもいいが、そこには「なぜその言語を学ぶのか」という必要性が絶対的に不可欠である。自分は仕事で必要だからチェコ語を学んでいるのであって、全く必要もないアマゾンの原住民の現地語を習得しようと思っても、その必要性が一切ないので習得は不可能だろう。我々の脳みそは偉大だが、必要ない言語を覚えるほど愚直ではないのである。
多くの語学学習者は、まずこの出発点から間違えている。なぜ日本人が学校であれほど英語を勉強させられながら全く話せないのか。話す練習をしていないというのも大きな原因だが、そもそも英語を話す必要性が乏しいのである。外国人観光客や労働者がいくら増えようと、彼らが日本語を習得する必要性は生じても、我々が英語を話す必要性はあまりないのである。
だから、日本にいながら必要もないのに何となく勉強したところで、未来永劫流暢に話せるようにはならない。他方、TOEFLなどの語学試験を勉強している人もいるだろう。そういった語学試験で良い成績を取ろうとすると、良い成績が取れる語学力に特化される。スピーキングがないTOEICで950点を取った人が全く話せないのは、この点を踏まえれば全く驚くに値しない。
では、ある程度その語学を学ぶ必要性があるとして、次に必要なものは何か。黙々と学び続ける継続力・忍耐力である。また本によれば、最も重要なのは語彙・ボキャブラリーで、最初の一か月で単語1000語をとにかく覚えることが大事であるという。
ここが最も語学学習の基盤になると思うが、語学で最も大事なのは「語彙」、次に「文法」である。
そして、語彙力とは、色々な方法があるにせよ、究極的には暗記する・覚えるということであり、これは自分との闘いである。ここを逃げようとすると伸び悩む。なぜなら知らない言葉は読めないし、読めなけば聴いても理解できず、ましてや書く、話すなど不可能だからである。
次に重要な文法もまあ、言ってしまえば暗記みたいなものだろう。学生時代スペイン語を履修していたのだが、その先生がこう言われた。「文法はある言語を学ぼうとする外国人が体系的に理解できる助けとなるもの。すなわち体系化され、規則がある。だから理解できる。この規則を覚えるのが文法。君たち法学部生は法体系や法の規則を学んでいるのだから、こういうのは得意だと思うんだけどね。活用が~と苦しんでいるのは少し滑稽だよ笑」
この語彙と文法、体でいえば文法が骨格で、語彙は肉といったところ。そして、その出来上がった体を「使う」という行為が読む・聞く・話す・聞くである。体の完成度によって、そのパフォーマンスに差が出ることは明白である。
さて、タイトルから離れて本に書かれている内容をいささか端折って紹介した。つまるところ、私の語学論はこの本の内容を語学のベースとしており、それを今回の語学と外国人の彼女を作るという主張に当てはめてみようというのが、この記事の狙いである。
先に当てはめが簡単な②から考える。
②「最初に外国人の彼女を作ってしまうのが良い。そうすれば彼女とよりコミュニケーションを取ろうと語学学習の意欲も湧くし、お互いの言語を教えあうことができる。」
一見非常に説得力のある主張だが、いくつかの問題がある。
自分が勉強したことがない言語を操る外国人の彼女ができたとして、彼女の母国語を学ぼうとしようとしたとする。
本に書かれている「必要性」の条件は満たされる。ただし、部分的にのみ。すなわち、彼女とのコミュニケーションにある程度支障がないように、という必要性である。カップルがよく話題に知るテーマは話せても、普通のカップルは政治の話はほとんどしないだろう(チェコ人には当てはまらないかもしれない笑)。話さなくていいテーマに関する語学力は伸びない、その必要がないから。もっと言ってしまうと、お互いが英語ができてコミュニケーションが取れるなら、相手の母国語を学ぶ必要性はない。自分のクラスには、彼女、奥さん、旦那さんがチェコ人のインド人、アメリカ人、韓国人がいるが、もしこの主張が真だとするなら、おそらく彼らはすでにチェコ語がペラペラなはずである。しかしそうではないのは、彼らがお互い英語で意思疎通を取ってきたからであり、今回勉強しているのは、家族や親戚がチェコ語しか介さないから、という必要性が生じたからである。正直な話、たとえ住むとしてもプラハにいるだけならチェコ語はほぼ必要ない。
次の語彙と文法は書いたとおり、自分との闘いであり、彼女に教えてもらうことができても、代わりに覚えてもらうことはできない。また、その言語を話せることと、「教えられること」は基本別次元の問題である。私は教授法を学んだことがないので、どうやって日本語を外国人に分かりやすく教えられるか全く自信がない。母国語を操ることは無意識レベルの話なので、これを明朗に言語化することはまた別の能力である。
なので、「互いの言語を教えあえる」というのは、日本語でLOVEは愛(あい)だよ、といった簡単な単語レベルの交換はできても、それ以上に複雑な学習は非効率である。また、書籍にもその趣旨が書いてあるが、人間は現金な生き物なのでお金と時間を投下しないと覚えられないのである。自分も言語交換をやっているが、その点で真に効率的かを考える必要がある。また、彼女にいちいち「あれは○○語でなんていうの?」なんて聞いてたら、まもなく愛想をつかされてしまうのではないだろうか。。
また、この主張に対し、彼女を言語上達のためのいわば道具として利用するのは道徳的倫理にもとる、という批判も見られた。この点、何が正しいかは各人が考える問題なので、ここでは書かない。
戻って①について考える。
①「語学をある程度習得してから彼女を作ろうとするべきである。そもそも語学ができなければ外国人の彼女はできない。」
多くの外国人の彼女が欲しい日本男児がもつ思考回路だろう。以前は自分もそう考えていた。
こちらの主張をする人たちは、目指す方向性や進み方を間違えている気がする。
推測に過ぎないが、こう主張する人たちは彼女を作るなどといういわば「低俗な」理由ではなく、勉強や仕事でその必要性がある人でえ、かつ彼女がいたことがない人であろう。
こういう人たちはもともとの必要性があり、また語彙や文法をしっかり勉強し続けるだけの継続力や忍耐力がある人達。
だから彼らは黙々と、勉強しそれなりの語学力を有している。しかし、外国人の彼女はできない。
真面目な彼らなので、こう考えてしまう。「自分の語学力が不足しており、コミュニケーションが円滑じゃないからだ。もっと語学を勉強しないと彼女はできない。」
そうして、今までどおり学問なら論文を読んだり、ビジネスなら自分の仕事に関することをその言葉で習得していく。しかし彼女はできないままである。
彼らの問題は、語学的な問題ならば、学問やビジネスで求められる語学力と、恋愛(あるいは口説き)で必要な語学力は違う次元にあるということを理解できていない。自分は英語で留学していたこともあり、本当に少しくらいは喋れるが、自分の身の回りにある関心のある出来事なら話せるというレベルである。そこで、あるとき同業の集まりに行った際、彼らが社交というか飲み会の場で使う英語はかなり砕けており、ほとんどわからなかった。そしてそもそも、そういった場で彼らが何を話しているのかという共通の背景や前提知識に欠けていたためである。このように、母国語の日本語を含めて、場面ごとに必要な語学力は変わるのである。
それを理解しないまま、もし彼女が欲しいのだとして、ただ学問や仕事のための語学力を磨いたところで、それが直接、恋愛にも使えるとは限らないのである。彼女を作るために必要な語学力というのもまた存在する、と自分は考えている。それは別に下ネタとかスラングとかではないとは思うのだけど、そういうものも含まれうるだろう。
そして、言い忘れていたが、今自分にはチェコ人の彼女がいない。
なので、自分がこんなことを書くのも矛盾している気がするが、①の主張をする人が多く抱えていそうな最大の問題点は、そもそも彼女を作るのに語学力はそんなに重要ではない、ということである。必要ではある、だが重要とは必ずしも言い切れない。
ここからは僭越承知で書くが、国籍を問わず(日本人も含めて)彼女ができないのは、外見・容姿、自信・態度、内面(性格、経験の多さなど)、出会いの絶対数、のどれかに起因している。伝聞情報に過ぎないのだが、上記3つを満たしているある人は、語学が全然できないのだが、非常にモテるために言語の必要性が生じず、いつまでたっても語学が上手くならないという。極端な例だが、語学ができなかろうと、その他に備わっている武器がたくさんあれば、語学力がなくともよいのである。
したがって結論、語学の上達と彼女を作ることは、両者が相互のファクターとして存在する。
手順や方向性を間違えなければ、彼女を欲しいというのは根源的な欲求のため、モチベーションとして機能するし、語学を上達させたい人が彼女を作れば、彼女とのコミュニケーションを通して話す・聞く力は彼女がいないよりは確実に身につくだろう。
しかし、もし真に外国人の彼女が欲しくて語学を学んでいるなら、語学がその他の要素を見ないふりをする隠れ蓑になっていないか、よく考えてほしい。たぶん、彼女をつくるために必要なことはある程度普遍的であると思う。
・外見
・相手と接する態度
・内面
・出会いの数(どんな相手なら渡り合えるかというマーケティングも含む)
これらをより細かく分解し、自分には何が欠けているのか、何がボトルネックなのかを考えるという、少し辛いが自分を等身大に評価すること、そしてそれを改善する努力が必要である。これらに背を向けて語学ばかりやっただけでは、目標を達成できないだろう。
最後まで読んでくれた皆さんの武運を祈る。