超自己満足的自己表現 -465ページ目

第126章 晩秋の頃

 忙しかった夏が過ぎ、気候の良い秋になった。泰明の若君は小さく生まれながらも、病気ひとつすることなく、元気に育っている。彩子はふとあることに気づく。泰明は若君をたいそう可愛がるのだが、今まで抱き上げた事がない。


「泰明、泰大をいつになったら抱いてくれるの?」
「ああ、いずれ・・・。」
「生まれてから一度も抱いた事がないじゃない・・・。どうして?」


泰明は苦笑していう。


「忘れたの?私の腕のこと・・・。」


そういえば彩子は忘れていた。彩子が女御時代に大和国で賊に襲われ腕に重傷を負い、左手が不自由になっていたことを・・・。何とかしようとして典薬頭が治療を試みたが、癒えることはなく、物を持つときなどは右手ばかり使っている。身内以外はこのことを知らないので気づくものはいない。


「泰明・・・ごめんね・・・すっかり忘れていた・・・。」
「ん?いいよ。今まで誰にも悟られないようにしていたから・・・。医師として致命傷だからね・・・。」


彩子は泰大を抱き上げて、脇息にもたれて座っている泰明の前に座る。


「右手で支えればいいんじゃないの?左手は添えるだけでいいのよ。そういうところに気づかないのね・・・。」


彩子は泰大をそっと渡し、抱かせてみる。泰明は恐々膝の上に泰大を乗せて右腕で頭を支え、左手を添えた。


「ほら、これでいいのよ。泰大、お父様に抱いていただけてよかったわね・・・。」


泰明は微笑んで、感覚の弱い左手で泰大の頬を触わる。泰大はじっと泰明を見つめて、時折笑う。いつの間にか泰大はスヤスヤと眠っており、彩子はそっと泰明から抱き上げて、泰大付きの女房に預ける。


「本当にいい子でしょ。あまり手がかからないのよ。」
「うん・・・。いい子だ。」


彩子は泰明の左手を自分の頬に当てて言う。


「この手は私をかばってなってしまったのよね・・・。」


泰明は彩子を引き寄せて抱きしめる。


「いいんです。彩子が無傷で済んだのだから・・・。彩子のためなら命を捨てても良かったからね・・・。左手はまったく動かないわけではない。ただ力が弱いだけ・・・。」


二人はそのままの状態で一時間ほど過ごした後、泰明の従者が声をかける。


「申し上げます。本邸より使いが参りました。」
「何?」


彩子は泰明からはなれると泰明の側に控える。。


「いいよ近くに・・・。」


従者が泰明の前に座り、耳元で言う。


「何!伯父上が???今すぐ行くと伝えてくれないか。すぐに馬の用意を。」
「は!」


泰明は立ち上がって、診察道具を抱える。


「彩子、伯父上が倒れた。今すぐ行ってくるから、彩子は車で後から来なさい。」


泰明は従者の用意した馬に飛び乗ると急いで本邸へ向かった。彩子は身支度を整え、泰大を置いていけないため泰大と女房を連れて和気家本邸に行く。彩子は女房に泰大を預け、別室に控えさせ、泰明達のいる寝殿に向かう。典薬頭の周りには泰明をはじめ、典薬頭の兄弟、姉妹、家族、師弟の者たちが取り囲んでいる。泰明は典薬頭に治療を施すと、溜め息をついて、振り返り彩子に気が付く。泰明は立ち上がって、彩子のほうにくると彩子を表のすのこ縁に連れて行く。


「泰大を連れてきましたか?」
「はい・・・。」
「今意識を取り戻されたが、今夜が山だろう・・・。まだ泰大を御見せしていない。顔を合わすたびにみたいみたいと言っておられたからな・・・。こちらに連れておいで。」


彩子は控え室に戻って泰大を抱き連れてくる。泰明は彩子を誘導して典薬頭の前に座り、頭を下げる。


「伯父上、泰大にございます。さ、彩子・・・御見せしなさい。」


典薬頭は北の方に支えられて、うっすら見える泰大を見つめる。丁度泰大は起きており、典薬頭の顔を見て笑った。


「泰大、お爺様ですよ・・・。お抱きになられますか?」


典薬頭はうなずき、泰大を抱いてみる。泰大は指を吸いながら、じっとして典薬頭を見つめている。


「彩子姫、いい子をお産みになられた。きっと泰明のような立派な医師になるであろう。」
「お褒め頂きありがとうございます。」


典薬頭は彩子に泰大を返すと、再び横になる。そして嫡男である泰明に言葉を残す。


「泰明、お前は和気家代々の中で一番の天才だ。もうすでにこの私を越え、競えるものはいまい。本当にお前は弘法大師の再来のような男だよ。たった四年で宋の医術を身につけてきよった・・・。私が亡き後はお前が当主となり、みなの指導を頼んだよ。あと、泰大を立派な医師に・・・。」
「伯父上、あまりしゃべらず・・・。お休みください。」


典薬頭はそのまま目を閉じ深い眠りにつく。意識が戻らないまま、泰明はずっと側に控え夜明けを迎える。


「そろそろ出仕の時間だ・・・。和気家のみ抜けるわけにはいかない。手が空いているものから出仕しなさい。何かあれば使いを出すから・・・。」
「侍医様は?」
「こういうときだ、他の侍医に帝の診察を頼んでくれないか・・・。直安殿、今日は助殿が宿直されているはず。早く行って事情を説明し、伯父上と私の勤務表を他の者と差し替えるよう・・・。帝にはまだ伯父上が倒れたことは伝えなくていい。当家の私用と伝えてほしい。」
「わかりました。」


泰明は和気家一門の者に指示を飛ばすと、典薬頭の側に座る。彩子も泰明の後ろに座ると泰明は彩子に言う。


「彩子、邸に帰りなさい。蘭も寂しがっているだろう・・・。何かあったら使いを出すから・・・。」
「でも・・・。」
「いいから・・・。また誰かと交代するし・・・。」
「寝食を必ずしてね・・・。」
「わかっているよ。」


彩子は泰明の言うとおり邸に泰大を連れて戻っていった。泰明は昨日から一睡もしていないので、座りながらウトウトしていると後ろに誰かが近寄り、泰明に単をかける。


「ん?」
「泰明様、お風邪を召しますわ。」
「治子姫・・・。」


典薬頭の末娘治子は父親の病を聞き、やってきたのだ。泰明は微笑んで礼を言うと、黙ってじっと典薬頭の側に座る。


「泰明様、お父様の容態は?」
「この私でも手の施しようがありません・・・。お歳を召しておられるし・・・。」
「そう・・・。泰明様、私が交代します。私も和気家に生まれた娘。少しくらいの知識は・・・。丹波家に嫁ぎましたし・・・。」
「そういえばそうですね・・・。では一時程休ませていただきます。何かあれば呼んでください。」


泰明は交代前に、典薬頭の脈を取り、病状を確かめると治子と交代して隣の部屋で横になる。やはり気になってか熟睡は出来ず、元の場所に戻ると治子と変わってまた看病をはじめる。夕刻になると続々と出仕を終え一門の者達が戻ってくる。


「泰明殿、兄上はどうかな・・・。」
「叔父上・・・。良くもなく悪くもなくって感じですね。相変わらず意識は・・・。」
「そうか・・・。今晩は私が・・・。泰明殿は休んだほうがいい。食事もまだだろう・・・。ここにいるものは皆医師だから安心だよ。」
「ではお言葉に甘えて・・・。」


泰明は立ち上がって別室で夕餉を摂り、脇息にもたれかかると、治子が入ってくる。


「泰明様、お着替えをお持ちいたしました。お手伝いいたしましょうか?」
「いいよ自分で出来るから・・・。そこに置いておいてくれないか・・・。」
「でも・・・お疲れのご様子・・・。」
「では少し頼もうかな・・・。」


泰明は狩衣を脱ぎ、小袖も着替えると、治子は恥ずかしそうな顔をして単を羽織らせた。治子は泰明の脱いだものをきれいにたたみ、部屋の隅に置いた。


「治子姫ありがとう。もういいよ。あなたに女房のようなことをさせてしまって悪かったね・・・。」
「いいえ。ところで北の方様は?」
「朝帰らせたよ。泰大や蘭がいるからね・・・。こちらにいても邪魔になるだけだし。何かあれば呼び寄せるから・・・。じゃ、何かあれば起こしてほしい・・・。」
「はい・・・。」


泰明は用意された寝所に入り横になる。治子は泰明の寝所の前に座り、溜め息をつく。治子は泰明を未だに慕っている。側に想い人がいるのにも関わらず、何も出来ないもどかしさが治子を苛立たせる。


(お父様がああでなければ、泰明様の寝所に入るのだけど・・・。)


泰明は治子の気持ちなど知らないまま、ぐっすりと一晩休んだ。何もないまま夜が明け、泰明は覚める。ずっと治子は泰明の寝所の前にいたようで、座りながら寝ている。治子は泰明が起きたことに気が付くと、慌てて座りなおす。


「泰明様、お目覚めになられましたか?」
「んん・・・。伯父上に変化はなかったようだね・・・。ずっとここにいたの?」
「はい、何かあれば泰明様を起こさないといけませんので・・・。あ、お着替えのお手伝いを・・。」


泰明は寝所を出ると、治子の前に立つ。その時部屋の表で声がする。
「泰明、着替え・・・を・・・。」


彩子は着替えの入った包みを部屋の中に置くとしかめっ面でその場を立ち去る。


「彩子!」


泰明は慌てて単を羽織り、烏帽子を被ると、彩子を追いかける。


「彩子待って。」
「治子姫とそういう関係だったの?治子姫はあなたの部下に嫁いだ姫でしょ。いくら従兄妹とはいえ・・・。こんなときに・・・。」


泰明は彩子を引き寄せ抱きしめる。


「誤解だから・・・。ただ治子姫は着替えの手伝いをしてくれるだけ・・・。わかっているだろ。私の手ではきれいに着られない・・・。いつも誰かに手伝ってもらっているだろう。典薬寮でも着替えるときは従者に手伝ってもらっているし・・・。ましてこのようなときに・・・。彩子、今から交代しないといけないから、着替えるのを手伝ってよ・・・。」
「さあどうだか・・・。泰明はモテるのだもの・・・。」


泰明は溜め息をついてとりあえず彩子の手を引き部屋に戻る。すでに治子は下がっており、泰明は彩子を座らせて自分も彩子の前に座り溜め息をつく。


「結婚前に約束したでしょう・・・。彩子以外妻はいらないと・・・。前も典薬寮の部屋で言ったよね。彩子以外の女には興味がないと・・・。どうして最近の彩子は疑り深いの?一昨日の夜の泰大のことといい・・・。もういいから着替えるのを手伝ってよ・・・。」


彩子は渋々泰明に持ってきた狩衣を着付け、彩子は泰明と目を合わさないまま泰明を送り出す。泰明は彩子の態度に気になりながらも、典薬頭の看病を和気家の者と代わる。泰明が代わった途端典薬頭は危篤状態となり、和気家一門を集め、泰明は治療を施す。すると北の方が、泰明の治療の手を止める。


「泰明殿、もういいのです。延命治療をしても、主人は苦しいだけ・・・。もう助からないのですから、このまま静かに逝かせてあげて下さい・・・。皆さんもいいでしょう・・・。思ったよりも長く生きられたのですから・・・。泰明殿、あなたには感謝しております。そして皆さんにも・・・。主人に皆さんの一生懸命さは伝わっているはずです・・・。お願いします。このまま・・・。」


泰明は治療道具を片付けると、典薬頭の手をとり、脈を診る。だんだん脈は弱くなり、脈が当たらなくなった。泰明はそっと典薬頭の両手を胸元に重ねると、北の方に頭を下げる。


「伯父上は眠るように息をお引取りになられました・・・。私は邸に戻り、身を清め、穢れを落としてから参内し、典薬寮や宮内省、帝へ報告に行ってまいります。その後、すぐにこちらに戻り、葬儀について皆さんと・・・。」
「わかりました。後のことは次期当主である泰明殿にお任せします。はやく・・・。」


泰明は彩子と共に邸に戻り、身を清めてから彩子の用意した薄墨色の喪服に冠をつけて参内の用意を整える。泰明は彩子に喪に服す準備をするよう頼むと彩子は女房達に邸中の調度類を喪用に変更させる。


「彩子、内裏から戻ったら即本邸に行くから当分帰れないと思うけれど、こちらの邸は女主人である彩子に頼んだよ。」
「はい・・・。」


泰明は急いで車に乗り込み、参内する。まずは身内の不幸のため、清涼殿の庭で御簾越しに帝に報告をし、帝からお悔やみを賜ると、宮内省、典薬寮、式部省に報告に回る。邸に戻ると邸はすべて喪中色に改められ、彩子をはじめ、女房達も喪服に着替えている。彩子は泰明のために数日分の着替えを用意し、泰明の従者に渡す。



《作者からの一言》

ついに泰明の一番の理解者である伯父典薬頭がなくなってしまいました。このことにより徐々に帝の計画が始動します。でもまだ次は番外編です・・・。典薬頭の若い頃の話があります^^;もちろん泰明の父君も出てきます。

第125章 東宮の病気

 泰明は帝一家担当の侍医であり、東宮担当ではない。東宮担当は泰明の叔父である医師和気直安である。叔父は毎日診察のために東宮ご在所の五条邸には行くことはないが、最近毎日のように五条邸を訪れる。


この叔父は泰明の才能よりは劣るものの、腕は確かで仕事熱心な医師である。泰明よりも年上の三十九歳。出世もこれからという叔父である。性格は温厚であるが、無口で仕事の話もあまりしない。東宮の健康状態も診察日誌を見ない限り知る事が出来ないくらい何も話さないのだ。


「叔父上、最近五条邸に毎日のように行かれますが、東宮が何か・・・?」
「ああ、泰明殿か・・・。ちょっとお風邪を召されたのかもしれない。毎日嘔吐を繰り返されるのですよ。熱はないが・・・。」
「嘔吐に熱がないか・・・。本当に風邪ですか?」
「たぶん・・・。」
「他の症状は?」
「食欲もない。薬湯をお召し上がりになることも出来ない。詳しくは日誌を見てくれないか・・・。私はもう帰るから・・・。」


直安は東宮の日誌を見るとある程度の診察内容が書かれている。これだけの内容では東宮の病状がわからない。皇族一家の日誌を持ち帰ることは禁止されているが、荷物に忍ばせて邸に持って帰る。泰明は束帯を着替えず、夕餉も食べないで泰明の部屋に医学書などを持ち込んで部屋に籠もる。


「泰明、夕餉は?」
「彩子、いらない。ちょっと気になる事があってね・・・。調べものが・・・。」


仕事を持ち帰る事が滅多にない泰明を見て彩子は不思議に思う。彩子は心配になり、女房に泰明の夕餉をこちらに持ってくるように命じ、彩子は泰明の側に座る。


「何か食べないと体を壊します。いつも泰明は何かに集中すると食事も摂らないのですから・・・。さあ、食べて・・・。」


泰明は邪魔されたことに腹を立て、立ち上がると持ち帰ったものを包んで彩子に言う。


「ここでは落ち着かないので典薬寮に行ってきます。今夜は帰らないよ。」
「泰明!」


いつも温厚な泰明が見せた苛立つ姿に彩子は驚き、引き止める事が出来ずに泰明を見送った。彩子は読み散らかした医学書を片付けると、ある日誌に気が付いた。泰明は間違えて違う日誌を持っていったようで、忘れていったのだ。彩子は中身を確認するとその日誌はここ最近の東宮の診察日誌だった。彩子はある程度の医学用語を知っているので、東宮は病気である事がわかった。


(泰明はこれで苛立っていたのね・・・。でも泰明は東宮担当ではないはず・・・。しかし東宮が・・・病気だなんて・・・。)


「誰か、車を出してくれないかしら・・・。殿が大事なものをお忘れになったから・・・。今から届けるわ・・・。」


彩子は日誌を包み、身支度を整えると、車に乗り大内裏に向かった。大内裏の門で車を降りると、従者の案内で典薬寮にたどり着く。典薬寮に着くと、役人達は彩子のことをどこかの女房で誰かの使いだと思って、扱う。


「あの・・・侍医和気泰明様は?」
「ああ、突き当たり左を曲がって一番奥の部屋だ。今在室中である。しかし今取次ぎ無用と・・・。」
「ありがとうございます。」


もちろん典薬寮の役人達は彩子を泰明の妻であることに気づかないどころか、彩子の美しさに見惚れる。


(おい見たか、あの女。)
(和気様の使いの者か?)
(それにしても美しい女房だな・・・。)


彩子は礼を言い微笑むと、いわれたとおりの部屋の前に立ち扉を叩く。すると泰明の声がする。


「何?取次ぎは断れといったはず。」
「私・・・。」


泰明は声に驚き、慌てて扉を開けて彩子を部屋の中に入れる。そして誰も見ていないことを確かめ、部屋の鍵を閉める。


「さ、彩子・・・。なぜここに???」
「泰明、忘れ物よ。これってあなたの担当外の東宮日誌でしょ。慌てて邸を出て行ったから、間違って持って行ってない??」


彩子は日誌を泰明に渡すと、じっと泰明を見つめて座る。


「さっきはごめん、急に邸を出て怒らせてしまったようだね・・・。しかし突然ここに来るなんて・・・。誰かに使いを出せばいいものを・・・。」
「このように大事なものを他のものに託せますか?私がここに持ってこないと・・・。」
「でもあなたは私の北の方だよ。このようなところに来たら・・・。変な輩が多いしね・・・。」
「みんな私のことを泰明の女房と思っているはずよ。だから衣装も女房のを借りてきたのよ。」
「こんな夜にありがとう感謝するよ。もしかして中身見たの?」


彩子はうなずく。泰明は人の気配を感じ彩子を黙らせ、そっと部屋の鍵を開けて扉を開けると数人の典薬寮の者が泰明の部屋の様子を伺っていた。


「あなた方は何?やましい事はしていませんよ。丁度私の妻が大事な忘れ物を届けてくれただけだから、もう下がりなさい!」


典薬寮のものは驚いて自分の持ち場に戻って行った。彩子は笑いがこみ上げてきて我慢が出来ない様子であった。泰明は再び周りを見回し、部屋の鍵を閉め苦笑して文机の前に座る。


「あの者たちはまだ独身の者達だらけだからね・・・。色々女を物色している節がある。典薬寮は女医が出入りすることもあるけれど、若い女はいないからね・・・。たまに使いで来る若い女を見ると目の色が変わってね・・・。調べ物が終わるまでここにいなさい。危ないから・・・。」
「うん・・・。」


一生懸命調べ物をしている泰明の傍らで、彩子ははじめて自分の夫の仕事場を眺める。小さな部屋だが、泰明の仕事用の道具や書物、そして着替えなどがきちんと整理しておいてある。彩子は厨子に置いてある文箱に気が付く。


「泰明、これ見てもいい?」
「なに?ああ、それねいいよ、興味ないから処分してもらっていい・・・。」


文箱を開けると泰明にあてた女官達や女医たちからの恋文が入っている。女官の中には知っているものの名前も含まれている。


「ふうん・・・泰明ってもてるんだ・・・。」
「さあね。他のものに言わせると、皆私の愛人の座を狙っているらしいが、私は興味がないからね。だいいち愛人を持つほどの甲斐性はない。処分しても処分しても一晩でそれくらい入っている。前はいちいちお断りしていたが、今は面倒でね・・・そのままにしているんだ。」


彩子は暇つぶしに一つ一つ呼んでいく。中には微笑ましい内容の歌や、しつこそうなもの、様々な内容の文があり、彩子は暇をつぶすことが出来た。度々泰明が溜め息をつくたびに彩子は調べ物の内容が気になり、泰明に聞いてみる。


「東宮は病気なの?」
「たぶんね・・・。東宮の主治医は感冒だというが、なんだか気になる。それで症状と医学書を照らし合わせて色々な可能性を考えているんだ。主治医である叔父上の手前、何かない限り勝手に私が診ることはできないからね・・・。私は帝一家の担当だし・・・。彩子、気になる?東宮はあなたの子だもの・・・。」
「・・・。」
「熱がないのに嘔吐するのが気にかかる。感冒や食あたりならいいが・・・一番私が診察するのが確か・・・。でも勝手に出来ないから・・・。まあ明日にでも叔父上に聞いてみるよ。さあ、もういい。彩子帰ろう・・・。なんだかお腹空いた。邸に戻ったら何かある?」
「もちろん、置いてあります。泰明は何かに夢中になると寝食を忘れるから・・・。」
「そうだね・・・早く帰らないと泰大がお腹をすかせて泣いているよきっと・・・。」


泰明は着ている束帯を脱ぎ、あこめを脱ぐと、彩子に被せる。そして束帯を着なおし、帰りの準備をする。


「それを被って帰りなさい。あなたはれっきとした殿上を許されている侍医の妻だし、元女御。顔を見せていい身分ではない。さあ、帰ろう。」


泰明は自分の部屋の明かりを消し、彩子と共に典薬寮を出る。そして朱雀門に止めてある車に乗り込むと、一緒に邸へ向かった。


「彩子、わざわざ届けてくれてありがとう、あの日誌は持ち出し禁止なんだ・・・。あのまま邸にあればえらい目に遭うところだった・・・。東宮のことは叔父上と相談して何とかするよ。だから安心して・・・。」


泰明は彩子を抱きしめて邸まで戻る。


次の日やはり昨日の彩子のことで噂がいっぱいで、泰明が出仕してくるなり、質問攻めに合う。


「和気殿、昨日麗しい女を部屋に連れ込まれたそうだが・・・。」
「そうそう、とても美しい女だと聞いた・・・。」


泰明は苦笑して言う。


「あれはわたしの妻ですよ。忘れ物を届けにわざわざ・・・。」
「そんなことはないだろう・・・。侍医殿の北の方は元女御様だぞ。こちらへ平気に来ることは出来ないだろう・・・。やはり女を・・・。」
「ですから、私の妻ですってば・・・。私は妻以外興味がありませんから!」


みんなは呆れて言う。


「はいはい・・・そうでしたね・・・。今回はそうしておきましょう・・・。次はありませんよ・・・。」


泰明は黙り込んで自分の部屋に入っていく。そして昨日借りた東宮の診察日誌を返しに叔父の和気直安のもとに行く。


「叔父上、これ、ありがとうございました。これを見た限り感冒だと思いますが、まだちょっと腑に落ちないところが・・・。」
「侍医殿、私が誤診だとでも言うのですか?」
「いやいや・・・。感冒だと決め付けるのはどうかと思うのです。食あたり、胃腸炎、そして最悪の場合は毒。毒を盛ったとか言うのではなく食品の組み合わせによっては毒になることもございます。あの、今日の診察は私が代わってもいいでしょうか?」
「別に構わないが、感冒に間違いないと思うよ。気が済むまでやればいいと思いますが。まああなたはこの私よりも優れているから・・・。今日交代すると伝えておくよ。」
「ありがとうございます、叔父上。」
「いいよ、今日はゆっくり出来るから助かる・・・。」
泰明は帝の朝の健康診断を済ませ、直安にいつもついている助手を連れて、五条邸に入った。右大臣に挨拶を済ますと、東宮のいる部屋に通され、東宮を診察する。やはり見た目は感冒のような症状であったが、なんだか違う。もう一度脈診からやり直し、お腹を触診したりしてみる。


「あの、申し訳ありませんが、東宮様の膳の記録はありませんか?体調を崩された少し前のものから・・・。」


泰明は食事の記録を受け取ると、じっくりと食事内容を見る。一見普通の膳のように見えるが、やはり引っかかる。食事の記録と症状の記録を照らし合わせると、符合する点がいくつかあった。やはり食事の食べあわせからきているようであった。健康であればあまり害のないものであっても、体調の悪いときに食べてしまうと中ってしまうのである。泰明は処方箋を書き、助手に処方箋どおりのものを作らせる。助手は不思議そうな顔をして処方箋どおりのものを小さな壷に入れて持ってくる。


「これを朝昼晩に一さじずつ東宮にお与えください。これは蜜に薬を混ぜたもの。この蜜はお腹の調子を整え、苦い薬の味を和らげ、飲みやすくしてくれます。まだ小さな東宮様にはこれを・・・。これならきちんと薬を飲んでいただけるはず・・・。必ずよく混ぜてください。」
「で、何が原因なのですか?」


小宰相が泰明に問うという。


「主治医の言うとおり、感冒ですが、感冒でお体の調子を崩され、普段なら大丈夫な食べあわせを調子の悪いときに食べたことによる食あたりのようなもの・・・。先に感冒を完治させるときっと嘔吐されたり下されたりすることはなくなるでしょう。この頃の子供は内臓が弱くこのようなことがあります。ですので、ご安心を・・・。」


泰明は薬を一さじすくうと、東宮の口に運ぶ。東宮は喜んで薬をなめる。東宮はもっととせがんだが、泰明が言い聞かせてやめさせる。


「東宮さま、これは一さじずつです。いいですね。東宮様は賢い方だから、わかりますね。」


東宮はうなずくと、また横になり休む。泰明は微笑んで、東宮に頭を下げ、退出する。部屋から出た後で、彩子の妹であり、東宮の乳母である幸子が泰明を呼び止める。


「泰明様。お久しぶりです。お姉さまはお元気ですか?最近若君をご出産されたとか・・・。」
「はい。とても元気ですよ。」
「あの、お姉さまはいつ東宮様に会って頂けるのかしら・・・。」
「私からも聞いておきます。しかし臣下の妻が東宮に面会は・・・。」
「そうですわね・・・。お姉さまはもう東宮様の母君様としてお会いになれないのですもの・・・。おかわいそうに・・・。お姉さまによろしくと・・・。」
「わかったよ。いっておく。東宮様の薬の件頼みましたよ。一日三回一さじです。」
「はい。ではまた会えるといいですね・・・。」


泰明は会釈をすると、五条邸を去っていった。


典薬寮の入り口では珍しく和気直安がそわそわしながら泰明の帰りを待つ。泰明の姿を見かけると、急いで走ってくる。


「侍医殿、いかがでしたか?もしかして誤診でしたか?」


泰明は微笑んで言う。


「誤診ではありませんでした。」
「そう・・・良かった・・・。」


和気直安はほっとした表情で泰明の後ろを歩く。


「詳しくは私の部屋で・・・。」


泰明は和気直安を部屋に招きいれ、直安から東宮診察日誌を受け取ると、診断結果と処方、今後の治療方針を書きとめた。そして書きとめながら、東宮の病状と処方について詳しく説明し、今後の治療方針を告げる。そして泰明は自分の書物立てから自分の診察記録を取り出して、直安に見せる。


「年下の私が叔父上に申し上げるのは心苦しいのですが、診察日誌はこのように書くようにしてください。東宮の日誌を見た限りわかりにくい点が多々ありましたので・・・。これでは引継ぎが・・・。その診察記録をお貸しいたしますので、参考にしてください。大学寮等の医師養成施設でもこの様に教えましたから。」
「しかしこのようなものを借りては・・・。」
「いや構いません。その中身はすべて頭に入っています。返すのはいつでも構いません。叔父上の腕は確かです。自信をお持ちください。」


直安は診察記録を抱きかかえて泰明の部屋を退出する。泰明は診察記録を取り出し、新しいページに東宮の診察記録を書き記す。今日は呼び出しもなく定時になると荷物を整えて退出していく。邸に戻ると、彩子が待ち構えていた。


「珍しいね・・・。ここで彩子が待っているなんて・・・。」
「ちょっと気になって・・・。」
「東宮のこと?」
「うん・・・。」
「診察したよ。大丈夫・・・。感冒と、食あたりだから。そうそう、彩子の妹君に会ったよ。彩子に会いたがっていた。」


泰明は荷物を彩子に渡すと、微笑みながら彩子と共に寝殿に入っていく。


「彩子、東宮に会いたくなった?随分大きくなられたよ。驚くほど帝に似てこられた。いずれ帝は東宮を自分の子として親王宣旨をされるかもしれないね・・・。未だ東宮以外はお子様がおられないことだし、本当に複雑だよ・・・。私は帝と東宮の秘密を知っているからね・・・。彩子も覚悟しておいたほうがいい・・・。」


彩子は複雑な表情で泰明を見つめた。



《作者からの一言》

これは番外編のようなものです。

ホントになくてもいい内容ですね^^;

ただ彩子が典薬寮に突然訪問するって言うのを書きたかっただけですから^^;

第124章 新婚生活と康仁帝の意向

年が明け、宮中は喪中であるが、祝賀儀礼を除き新年早々儀礼がある。今日は元旦であるので、群臣はみな束帯を着て豊楽殿に集まり元旦節会を行うことになっている。いつものような華やかな祝宴はないが、とりあえず昼過ぎに出仕して形だけの節会と宴をして帰ってくることになっている。


泰明は彩子と共に朝ゆっくり邸で元旦を祝い、元旦節会のための出仕の準備を整える。今回彩子と結婚をし、新しい家庭をもったことで、束帯から宿直服に至るまで、新調した。彩子は泰明の女房に命じて束帯の準備をさせる。侍医ではあるが、従五位下である泰明は緋色の束帯に和気家の紋の織り模様が入った表袴やあこめを着ける。彩子は泰明の束帯をしっかり着付け、着付け間違いがないか、何度も何度も確認する。


「新調したてなのできっと苦しいかも・・・。どうかしらね・・・。」


すると泰明つきの女房が言う。


「北の方様、さすがにお上手で・・・。これでしたら型崩れはしないでしょう。」


彩子は女御時代に更衣のいない帝のために日常の直衣をはじめ、節会の礼服に至るまで着付け、手馴れている。


「泰明、本当に苦しくない?苦しいようだったらもうちょっと緩めるけれど?」
「ええ、大丈夫です。でも彩子、あなたは早く横になりなさい。」
「え?どうして?体調は悪くないのに・・・。」


泰明は微笑んで言う。


「気づいていないの?」
「何?」
「じゃあ言うのはやめておこう。もうすぐわかるから・・・。」


車の準備ができたので乗り込もうとすると、彩子がふくれっ面で泰明を引き止める。


「彩子、何ですか?」
「教えてくれないと離しません。」


泰明は微笑んで言う。


「月の穢れが来ていないでしょう。それに気づく私も私だけど、やはり職業柄気になってこっそり夜中に脈と触診を・・・。彩子は懐妊していますよ。初めての懐妊じゃないから気づいていると思ったのだけれど・・・。彩子は今のところ兆候はないけど、流れやすいから出来るだけ安静に・・・。前回の懐妊の主治医はこの私だったんだよ。あと安定するまで内密に・・・では行って来ます。」


懐妊を知った彩子は顔を赤くして泰明を見送る。彩子は泰明の言われたとおり、寝所に横になる。


 泰明は典薬寮に着き、伯父である典薬頭と出会う。いつもと違う泰明の表情に気づいた典薬頭は泰明を呼び、問いただす。


「何かいい事があったのかね。泰明は、仕事中はあまり表情を見せないけれど・・・。今日はなぜか嬉しそうな・・・。」


泰明は部屋の隅に典薬頭を連れて行き、皆に聞こえない声で言う。


「伯父上、彩子が懐妊しました。まだわかったばかりなので公言できませんが・・・。彩子も気が付かなかった程ですし・・・。彩子は二度、先帝の御子を流しておりますので、安静にさせています。ですから公言は・・・。特に帝のお耳には・・・。」
「そうだね、五の姫宮様のときも六の宮様のときも流産の兆候があったと聞く。そのほうがいい。しかしどうして帝には知られてはいけないのか?」

「帝は良く私をおからかいになられるので・・・。未だ御子の授からない帝からしたら結婚すぐに授かった私をきっとおからかいになるでしょう・・・。」
「なるほどね・・・。さて、節会の時間だ・・・。節会が終わり次第、すぐに帰ってやりなさい。宿直は私が代わってやるから・・・。」


泰明は典薬頭に礼を言うと、一緒に豊楽殿に行き帝出御の節会に参加した。節会後は例年通りの宴ほどではないが、宴会が行われる。典薬頭は早く帰れと合図をすると、泰明はそっと宴を抜け出し、邸に戻った。


彩子は何事もなく、安定期に入り梅雨時期になるとおなかが目立ってきた。あと三ヶ月で生まれてくる。少しずつだが、出産の準備を始める。彩子の女房達は産着を縫ったり、おしめを縫ったりしている。いまだ泰明は彩子の懐妊を公言していないらしい。もちろん宮中ではプライベートをまったく話さない泰明であるので当然である。あまりにも家庭の話をしないので、仲が悪いのではないかという噂が何度も流れた事があったり、勘違いする女官が、泰明に恋文を送ったりすることもある。もちろん恋文や贈り物に関しては相手が傷つかない程度に丁重に断り、宿直以外の日はさっさと用事を済ませて帰っていくので噂はデマであると皆は納得する。もちろんもともと恥ずかしがり屋で口数が少ないからでもあるが・・・。


梅雨はやはり気が滅入る。彩子は庭に植えてある紫陽花を見つめながら、泰明の帰りを待つ。いつもならばもうこの時間には帰っているが、雨のために帰りが遅いようだ。それとも急患か?


「北の方様・・・。」
「何?」
「あのお客様がお見えなのですが・・・。」
「まだ殿は帰ってきていないわ。どなた?」
「中務卿宮様と申されております。」


中務卿宮とは現内大臣であると彩子は首をかしげる。とりあえず宮様ということで、寝殿に通すように命じ彩子は着替える。


「まだ殿はお帰りではないから、私がひとまず挨拶に伺うといってちょうだい。」


彩子は寝殿に向かい、客人に挨拶をする。


「せっかくお越ししていただいたのにも関わらず、当家の主人はまだ戻っておりません。代わりに私がご挨拶に・・・。」
「そんなに堅苦しいことはしなくていいよ・・・彩子。」


彩子は顔を上げると驚く。


「院???」


元夫である院がやってきたのである。


「なぜ中務卿宮と?」
「あれ?和気殿は言っていなかったのですか?今年正月の臨時の除目で決まったのですよ。まだまだ邸で籠もっているような歳ではないからね・・・。まだ小さい宮もいるから再び無理をいい慣例を破って出仕しているのですよ・・・。もともと私は中務卿宮として出仕していたから・・・。本当に泰明は何も言わないのだね・・・。」


院は微笑み経緯を話す。


 院は父院が亡くなり、譲位の後から考えていたことを帝に告げる。
「父上、今なんと?」
「臣籍に下らせてくれないか?例がなかったではない・・・。」
「まだこの歳で隠居というのもね・・・。まだ小さな宮たちもいる。だから出仕させてほしい。内大臣であるあなたの伯父が兼任している中務を任せていただけると嬉しいのだが・・・。以前私は元服当時中務卿宮として出仕していたことだし・・・。」


帝自身、父院に東宮のことで大変な借りがある。しょうがなく正月五日の臨時除目で院の中務卿宮就任を発表するなり、宮中は驚き、対応に戸惑う。特に戸惑ったのは中務省であり、先代の帝が出仕してくる日、皆は院を出迎え慌てまわる。


「久しぶりだね・・・。大輔殿・・・。20年ぶりにこの中務に戻ってきたが、あなたもお変わりない。」
「いえいえ、宮様。私などもうそろそろ引退をしようかと思った矢先、宮様が中務卿宮に復帰されると聞き、引退を取りやめこうして・・・。」
「本当にこちらは懐かしい・・・。あなたは元服直後の私をよく指導して下された。1年程の任期であったが、あの頃が懐かしい。お願いがあるのだけれども、いいかな・・・。」
「はい。なんなりと・・・。」
「先帝とはいえ、今はもう臣籍に下った身。気を使うなと皆に通達してほしい。私も堅苦しいのは嫌いでね・・・。帝から禄を頂く以上、きちんと仕事をしたい。形だけの中務卿宮ではいたくはないのだよ。」
「はい・・・。そのように中務のものに伝えます。」


院は微笑むと、早速職務に付く。この院の朗らかなで人懐こい性格は皆を和ませ、緊張をほぐしていった。今ではもう、この院は中務卿宮として定着し、きちんと仕事をこなしているのである。


「本当に泰明は仕事のことは何も言わないようだね。宮中でもまったくあなたの名前さえ出ないよ。ちょっと心配なくらいだよ。で、幸せなの?」


彩子は微笑んでうなずくと、院は安心した様子で微笑む。


「院、泰明がなぜそれほどまで口数が少ないのにも理由が・・・。私に仕事のことを言わないのは、たぶん私を心配させまいと思ったからでしょうか・・・。しかし家のことを言わないのは、帝に理由があります。帝はいつも泰明をおからかいになると聞きます。婚儀の夜に、急な呼び出しがあったのも・・・泰明は私には何も言いませんが、なんとなくわかるのです。ああ今日は言われたなとか・・・。」


院は驚きの表情で言う。


「そうか!そうなのか・・・。度々何もないのに和気を呼びつけ何か話して帰らせるのは・・・。その時はいつも溜め息をついて典薬寮に戻っていってね・・・。これで疑問が解けたよ。なるほどね・・・。」


彩子は女房に命じて何か口にするものを持ってこさせる。


「北の方様、何をお持ちいたしましょう・・・。」
「そうね、この宮はお酒を召し上がらないので、水菓子や菓子類をお持ちして・・・。」


彩子は立ち上がる際におなかを気にしながら立ち上がることに院は気になり聞く。


「あれ?懐妊しているの?」
「はい。秋口には生まれます。ところで今日はどうしてこちらへ?」


彩子はおなかを気にしながら座り、微笑む。


「こちらの邸ができ、あなた方の所顕を兼ねた宴に呼ばれていたのだけれど、父上が亡くなり、喪に服していたからお祝いできなかった。だから今日の佳き日に遅れながらお祝いに来たのだが、しかし泰明は遅いね・・・。」
「まもなく帰ってくると思います。家のものに呼びに行かせましたので・・・。」
「そう・・・ちょっと遅いね・・・また帝に引き止められているのかな・・・。」


すると表が騒がしくなったので、彩子は立ち上がって車止めを伺いに行く。やはり泰明は疲れきった表情で戻ってくると、彩子に荷物を預けて寝殿に向かう。


「客人とは珍しいね・・・。彩子、誰?」
「中務卿宮様です。」
「え!!!!」
「私、院が臣籍に下られたことなど知りませんでした・・・。恥をかきましたわ。」
「すまない・・・でも言っていなかったっけ?」
「いいえ・・・。結婚してから何も。」
「・・・。」


泰明は寝殿の前に着き、座って頭を下げると、院の側による。


「遅かったね泰明殿・・・。帝に引き止められたのかな・・・。あなたの北の方に聞いたよ。」
「はあ・・・。今日は何か?」
「あなた方のお祝いに来たのですよ。喪に服していたからあなた方のお祝いもできなかった・・・。秋には子供が生まれるようだね驚いたよ。和気殿は家のことをしゃべらないからね・・・いつまで内密にするつもり?」


泰明は苦笑して言う。


「いつかは言わないとはいけないですね・・・。別に知られてはいけない懐妊ではありません。」


院は贈り物を渡すと、二人は礼を言って受け取る。


「和気殿、やはり帝は少しあなたに嫉妬しているようだね・・・。私から注意しておくよ。でも和気殿に子が生まれるとわね・・・。北の方も安心だ。優秀な和気殿が側にいるから・・・。男の子ならいいね・・・。和気殿、もう少し家の話をされてはいかがですか?付き合いが悪いと言う者もいる。もし帝が口を挟むようだったら言いなさい。あれでも私の息子だからね・・・。さ、帰るよ。」


泰明は院を車まで見送る。泰明は見送ったあと、寝殿に戻って束帯を狩衣に着替えると、彩子と話をする。


「泰明、院に言ってはいけなかったかしら・・・。」
「別に構わないよ。私も今まで家のことや仕事のことを言わなかったのが悪いのだから・・・。まあ院に知っていただきたので何とかなるといいけれど・・・。」


泰明は彩子を側に寄せて今までのことについて謝罪をする。


 侍医和気泰明の妻彩子が懐妊し、秋口に生まれてくることは皆知ることとなった。皆は泰明に対して、お祝いを述べ、そして色々聞いてくる。もちろん以前とは違い、朗らかな顔をして、話に耳を傾ける。


(やはり和気殿は御子が出来るというので、変わられたね・・・。)
(そうそう、最近は例の北の方との惚気話まで言うようになったしな・・・。)
(北の方とは例の先帝、中務卿宮様の?)
(そうそう・・・。東宮の御生母だ。ややこしいことだねえ・・・。)
(そういうことであったから今まで家庭のことは公言しなかったのではないか?)
(後宮の和気殿を狙っていた女官達はみな北の方の懐妊を聞き嘆いたそうだよ。)
(本当に、和気殿はまじめで浮いた話のない今時珍しい者だからな・・・。あ、噂をすれば・・・。)


帝の夕方の診察を終え、退出する泰明を、噂をしていた者達が声をかける。


「今日はこれから宿直ですか?和気殿の麗しい北の方のご様子はいかがでしょう。」
「これは中納言様方。妻はまずまずですね・・・。もうそろそろ準備をしようと思っているのです。来月末に子が生まれますので・・・。宿直も今回以降は当分控えさせていただこうと・・・。では失礼します。」


足取り軽やかに内裏を退出する泰明を見て、皆は不思議そうな顔をして退出の準備をする。最近は泰明が家庭を公にし、幸せそうにしているのを見てか、それとも父宮である中務卿宮の意見があったのか、なぜか帝は嫌味を言う事が少なくなった。典薬寮に戻り、宿直装束に着替えると、帝の診察日誌と、他の公卿達の診察日誌をつけ始める。泰明は毎日のように自分が診た患者一人一人の症状から処方、治療内容まで事細かく自分の日誌にまとめている。結構、医学書に書かれていない事が事細かく書かれているので、わからないとき、読み返すのに便利である。また誰に見せてもいいように図も書きわかりやすく書くようにしている。この日誌は泰明が医師を志した頃から書き続けているのである。


「今日は何もなく終わりそうだな・・・。」


と泰明は書き物を終えると、典薬寮の自分の部屋で横になる。そしてうとうととしているときに誰かが部屋の前まで走ってくるのに気が付き起き上がる。


「侍医和気様は御在室ですか!」
「なに?入っていいよ。書き物は終わったから・・・。」


泰明は散らかっている文机を片付けて扉を開ける。


「何?」
「和気様、お邸から急ぎの文が・・・。」


泰明は文を受け取り、読むと顔を青ざめ、持って来た典薬寮のものに言う。


「今日は誰が宿直か!侍医以上の者で残っているものは?」
「助様が残業されていますが・・・。」
「わかった・・・助様に会って今すぐ邸に戻る。」


泰明は典薬助の部屋に行き、声をかける。


「丹波様、まだ居られますか?」
「うむ。もう少しで帰るが・・・。和気か?入っていいぞ。」


泰明は部屋に入ると、土下座をして言う。


「丹波様、突然ですが、宿直を今すぐ交代していただけないでしょうか!」
「何ですか急に・・・。」
「あの、私的なことで申し訳ありませんが、妻が破水いたしまして・・・。今すぐ邸へ戻りたいのです。」
「なに???まだひと月以上先ではないか???早く帰りなさい!宿直のことはいいから。早く行ってあげなさい。」


泰明は典薬助に礼を言うと、仕事道具を抱えて従者が乗ってきた馬を借り急いで邸に戻る。泰明の女房の中には女医の技術を持つ者が数人いるので、万が一何かあったときには最悪なことは避けられるが、経験の浅い者たちばかりなので心配でならないのだ。邸に着くと、泰明は治療用の白装束を上に着ると早速彩子の部屋に向かう。


「どれくらいの破水だ。」
「結構な量が・・・。今はもう出ていませんが。」
「当たり前だ、もう全破水してしまっている。陣痛は?」
「いえ。ありません・・・。」
「困ったな・・・。今から子を出すから、産湯の準備を。薬草庫へいって今からいう処方の薬草で薬湯を作ってくれ。早くな。」


泰明は突然のことで放心状態になって横になっている彩子の側に座り、角盥の水で丁寧に手を洗い、彩子に声をかける。


「彩子、大丈夫だから・・・。陣痛はない?」
「少しだけ・・・。子供はどうなるの?」
「大丈夫・・・。任せたらいい・・・。」


泰明は彩子を診察し、おなかの具合を触診する。案の定羊水は出てしまっており、早く出さないといけない状態である。宋の国では何度かこのようなことを経験しており、最悪の場合は帝王切開をしたこともある。もちろんここにはそのような事が出来る用具もないし設備もない。帝王切開をしたといっても、助手として付いていただけで、実際の執刀はしていない。女医の知識がある女房が、泰明が処方した薬湯を持ってくると、彩子に飲ませる。


「これは陣痛を促す薬湯だから飲みにくいかも知れないけれど、全部飲んで・・・。思ったよりも子供が下のほうにいて助かった・・・。最悪のことはなさそうだ・・・。」
「本当に大丈夫?」
「落ち着いて。針も打つから・・・。」


泰明は針を取り出し、陣痛が来るように針を打つ。泰明は額に流れる汗を女医の女房に拭いて貰いながら、今までの中でも最も経験の浅い産科の処置にあたる。何とか薬と針が効いてきたようで、陣痛が始まった。順調に子供も下がってきており、何とか帝王切開を行わなくても済みそうだ。泰明は彩子の手を取り言う。


「私はここまでしかできない。後は女医の知識を持つ者達にやってもらう・・・。もう少しの我慢だから・・・。私は寝殿に戻って生まれるのを待つよ・・・。」
「うん・・・。」


泰明は立ち上がると寝所から出て、すのこ縁に腰掛け、白衣を脱ぐ。


「何かあったら呼んでくれないか・・・。」
「はい。たぶん大丈夫でしょう・・・。あとは逆子ではないことを願います。」
「うんそうだね・・・。また予定日までだいぶん早いから、生まれたらすぐに呼んでくれ・・・。子の診察は私が行うから・・・。」


泰明は白衣を手に持ち、寝殿に戻る。寝殿では狩衣に着替えると、脇息にもたれかかって、心配そうに生まれる時を待つ。


(そういえば蘭の母は蘭を開腹出産で・・・。あれは出来るだけやるもんじゃない・・・。あの手術のおかげで命を落としたようなものだ・・・。)


やはり泰明は待っている事が出来ずに、彩子の北の対の屋までいき、白衣を着てすのこ縁の階に腰掛け、月を眺めていた。今日は満月。雲ひとつない満月だ。明るい光が泰明を包み込む。すると人影が浮かび上がる。


「誰だそこにいるのは!」


泰明は庭に下りてその人影のほうへ歩み寄る。


「お前は・・・。」


そこに立っていたのは亡くなったはずの蘭の母である。蘭の母は宋の言葉で泰明に言う。


「あなた・・・あなたの腕なら大丈夫。きっと可愛い赤ちゃんが生まれてくるわ・・・。あの姫は私の可愛い蘭を大切にしてくれているのです。きっと私があの姫と子供をお守りしますから・・・。」
「宝玉姫・・・。私はあなたをあの時助ける事が出来なかった・・・。」
「いいえ、あなたに出会えなかったら私は大好きなあなたと結婚して蘭を産む事が出来ずにあの時病で死んでいた。感謝しているのよ。あなたに出会えて、そして短い間でしたが、幸せで・・・。会えてよかった・・・。」


消えていく蘭の母の姿を見て涙を流し立ち尽くす。


「侍医様、そちらに居られましたか?お生まれになられました。」
「え?」
「ですから、若君のご誕生でございます。母子共に健やかで、早くおいでくださいませ。」


泰明は驚いた様子で走り出し、彩子と生まれたばかりの若君のもとに向かう。泰明は綺麗に手を清めると、彩子と若君の診察をする。若君は小さく生まれたものの、何も悪いところはなく健康そのもので、スヤスヤと眠っている。


「彩子、よくがんばったね・・・。一時はどうなるかと思ったけれど・・・。」
「はい、都いちの侍医様が側にいてくれたから・・・。泰明がいなかったらきっとこの子は生まれてこなかったでしょう・・・。」
「うまくいってよかったよ・・・。一番経験の浅い医術だからね・・・失敗したらどうしようと実は思ったのですよ。冷や冷やものでした・・・。自信がなくて・・・。ところで早く生まれすぎて、乳母の用意が・・・。」


彩子は微笑んでいう。


「私この子を自分の乳で育てるわ・・・。乳母は必要ないの・・・。さっきも乳のやり方を教えてもらったの・・・。そうしたらこの子も飲んでくれて・・・。この小さなお口でよ・・・一生懸命・・・。とても可愛らしい・・・。名前は?」
「早すぎて考えていなかったよ・・・。また考えておく。そっか・・・男の子か・・・。」
「これで和気家を継ぐ者が出来てよかった・・・。」
「うんそうだけど、今度は姫を産んでほしい。産んですぐにで悪いけれど・・・。」


泰明は生まれてきた若君をじっと見つめながらいつの間にか眠っていた。三人並んで眠っている光景は急な出産で疲れきっていた女房達を和ませた。まもなく夜が明けようとしている。


 夜が明け、泰明は疲れているのか、まだ白衣を着たまま眠っている。若君が泣いても起きないくらいだ。彩子は起き上がると若君に乳を与えながら、横になって休んでいる泰明を見て微笑む。女房が、泰明を起こそうとしているのを見て、彩子はいう。


「寝かせてあげて・・・。きっと大変疲れているから・・・。本当に昔と変わらない寝顔・・・。」


彩子は若君を女房に預けて、また横になる。若君は満足そうな顔をして再び眠った。日が昇りきり、部屋が明るくなると、彩子は泰明に声をかける。


「泰明、いつまで寝ているの?もう立派な若君のお父様なのに・・・。」


泰明は治療着のまま眠っていたことに気が付くと、起き上がって彩子に苦笑する。


「彩子・・・。あ!伯父上に報告を忘れていた!」


泰明は慌てて彩子の寝所から出て寝殿に戻ろうとすると、泰明の従者が泰明に言う。


「侍医様、ただいま典薬頭様が寝殿にてお待ちに・・・。」
「ああ、丁度良かった・・・。」


泰明は急いで寝殿に戻り、入り口の前で慌てて白衣を脱ぎ、女房に渡す。


「伯父上、おはようございます。」
「丹波に聞いたよ。北の方が破水したそうだな・・・で、様子は?」


泰明は微笑んで言う。


「伯父上、未明に生まれましたよ。」
「で、どちらだ?」
「男です。大変小さく生まれましたが、何事もなく健康な子です。」
「おお、それは良かった・・・。」


泰明は典薬頭に彩子の詳しい経緯を話す。典薬頭は、知識はあっても経験はないので、興味津々な表情で、話を聞く。そしてうなずきながら感心する。


「今のところ子は何事もなく過ごしておりますが、小さいため急に何があるかわかりません・・・。ですので十日ほど、休みを頂きたいのですが・・・。」
「そのほうがいい。で、名前は何にするのだ?いつまでも名無しではいけないだろう・・・。」


泰明は悩みながらひとつの名前を出す。


「泰大(やすひろ)はいかがでしょう。私の一字に大きくなってほしいので「大」をつけて・・・。」
「やすひろか・・・。いい名前だ。典薬寮のものにはお前の休暇の件を言っておくよ。もう少し大きくなったら『やすひろ』を見せてくれよ。では私は出仕してくる。」


典薬頭は泰明の肩を叩き、微笑みながら泰明の邸を出て行く。泰明は紙に筆で若君の名前を書くと、嬉しそうに北の対の屋に入り、彩子や女房達に若君の名前を見せる。すると蘭が女房に連れられて入ってくる。


「父様、母様、弟が生まれたって聞いたの。蘭は弟が欲しかったのよ。」
「蘭、いいよ入っておいで。だいぶん小さな弟だけど、姉であるお前がちゃんと守らないといけないよ。」
「うん。」


蘭は寝ている若君の側に寄り、嬉しそうに小さな頬や手、足を触ってみる。


「母様、本当に小さくって可愛い弟だね。母様に似ている?それとも父様?」
「姫、まだわからないわ・・・。でも可愛い弟君ね。やすひろって言うのよ。」
「やすひろ?やすひろかあ・・・。」


蘭は微笑みながら小さな若君を眺める。午後になると様々な人々からお祝いの品が届く。もちろん中には中務卿宮からの祝いの品が入っている。泰明は一つ一つ確認して一つ一つ丁寧にお礼を書く。そして従者に届けさせる。


 十日が過ぎ彩子は、もう起きて泰明の出仕準備を手伝う。泰大は生後十日がたち、何事もなくすくすくと育っている。泰明はいつもどおり朝餉を済まし、顔を洗ったり、女房に髪を結いなおしてもらうと、彩子は女房が準備した束帯一式を順に着付けていく。やはり彩子が着付けた場合は型崩れが少なく、見た目もきちっとして見える。いつも女房達は感心して、着付けの仕方を教わる。


「彩子にはいつも感心するね・・・。彩子が着付けると、きちっと着付けても苦しくない・・・。誰に上手に習ったの?」
「誰かしらね・・・。宮中で色々な方に教わったから・・・。院の乳母様かしら・・・それとも小宰相?まあ誰でもいいけれど・・・。」
「彩子、まだ産後日が浅いから昼間は出来るだけ横になってください。育児も程々に・・・。ではいくとするか・・・。」


彩子はいつもどおり、泰明の仕事道具を持って、車の前まで見送ると、一言声をかける。


「今日から出仕再開ですので、お祝いをしていただいた方々に改めてお礼を・・・。」
「わかっていますよ。」


泰明は彩子から仕事道具を受け取ると、車に乗って大内裏へ向かった。典薬寮に着くと、今までの急な休みのお詫びと、お祝いをもらった人にお礼回りに行く。皆は予定日よりも随分早い誕生に心配して、様々な殿上人から声をかけられる。もちろん帝も同じように泰明に聞き、泰明はきちんと報告する。


「和気殿、嫡男が生まれてよかったね。これで和気家も安泰だ。本当に母子共に大丈夫なのだね?」
「はい。はじめはどうなることかと思いましたが、無事生まれ、今のところ何も異常はありません。」
「それは良かった・・・。さすが和気殿・・・。あのような状況で冷静に対応できるとは・・・。」
「いえいえ、私も経験の浅いことでしたので・・・。まあ私にとってもいい経験になりました。」


帝は人払いをして泰明を御簾の中に入れ、他のものに聞こえないような小さな声で話す。


「東宮のことなのだけど・・・。」
「東宮様??」
「先日相撲節会で久しぶりに対面してね、驚いたよ・・・。ますます私に似てきてね・・・。やはり私の子であると実感するようになった・・・。泰明が以前私に言ったように結婚して三年。安子との間に子は出来ない。一度懐妊したがすぐに流れたことだし・・・。土御門の女御とはそういう気にはなれないし・・・。土御門女御は苦手だ・・・。だから私の隠し子である良仁を正式に私の子として親王宣旨したい。でもきっと父上は許さないだろうね・・・。和気殿の北の方にも迷惑がかかる・・・。臣下のものの中には最近疑いを持つものも出てきた。和気殿、どうだろうか・・・。」
「それはおやめください。未だに妻は夜中うなされる時がございます。あの時のことはもう一生妻から消えない心の傷となっております。ですからさらに傷を深めるようなことは・・・。やっと先日子が生まれ、落ち着いてきたのです・・・。」
「そうだね・・・。でも、私は思うのだよ。良仁が物心つく頃には譲位しようと思う。」
「どうしてでしょう・・・?」
「やはり私は父上と違って何をやってもだめな帝・・・。体もあまり強くはない。」
「早まらないでください。」
「ではあなたの北の方を、東宮が五条邸から御所に移ったとき、お借りできないだろうか・・・。御生母としてではなく、いち女官、そしていち教育係として・・・。もうそろそろ小宰相が隠居を考えているようなのだ・・・。小宰相の代わりに・・・。もちろんあなたの若君も連れてくればよろしい。良仁の遊び相手として・・・。まあまだまだ先の話になるのだけれど・・・。これは私のためではなく、東宮のためである。母がいない寂しさはあなたが良く知っていることだろう。もちろん私も十歳の時に最愛の母をなくし、母の面影を追い求めてきた。だから母にそっくりなあなたの北の方に想いを寄せ、あのようなことになってしまった。」
「考えさせてください。まだまだ時間があります。私にとっても妻は最愛の妻なのです。一度宮中に上がったらなかなか邸には帰れないでしょう。ですから・・・時間を・・・。」
「そうだね・・・まだまだ先のこと・・・。すまないね・・・。下がっていいよ。」


泰明は御簾から出て退出する。典薬寮に戻ると、自分の部屋に入り溜め息をつく。いくら東宮のためとはいえ、彩子が東宮御所に出仕するなど、きっと彩子は断るに違いないと泰明は思った。


もちろんこれは帝の本心ではない。


《作者からの一言》

この時代の医師は白衣のようなものを着るのか知りません。時代劇で医師は割烹着のようなものとマスクのようなものをつけていたりしますよね・・・。そのような格好だと思っていただけたらよろしいのかと・・・。きっと着たに違いない・・・。でないとお衣装が血で汚れたりするでしょう?医学的なことはよくわかりませんので突っ込まないでください^^;


最後の帝の本心?それは後ほどわかることとなります。そろそろおとなしくしていた帝の行動開始です。

第123章 新生活のはじまり

 まだ正式に婚儀を行っていないが、泰明と彩子の新生活が始まる。彩子は出仕の準備をする泰明を手伝い、蘭姫と共に見送る。蘭姫は彩子を母のように慕い、仲良くやっているのをみて、泰明は安堵の表情で車に乗り込んで邸を出る。典薬寮に到着すると、早速殿上して帝の健康診断を行う。


「和気殿、香を変えられたのですか?」
「いえ?」
「覚えのあるいい香りがします。昨日は典薬頭と共に休みを取られたが、何かいい事があったのですか?」
「・・・。」


新帝は泰明の邸に彩子が移ったことを知っていて嫌味を言う。


「和気殿は幸せ者ですね。私にさえ叶わなかった父上の妃を手に入れられたのですから・・・。」
「・・・。帝、やはり帝位に就かれたばかりで少々お疲れのようですね。最近持病の発作もないようですし、もう完治されたかもしれませんね・・・。では私はこれで・・・。」


そういうと泰明はさっさと御前を下がっていく。


(ああやはり帝の嫌味が・・・。未だ彩子を想っておられると見た・・・。毎朝の殿上を誰かに変わっていただこうかな・・・。)


泰明は溜め息をついて、典薬寮に戻る。典薬寮の自分の部屋に入り、昨日休んでいたときの報告書や書状、そして今日の帝の診察日誌を書き留める。泰明は急に立ち上がって隣の典薬助丹波の部屋の前に立つ。


「和気泰明でございます。少しご相談が・・・。」
「泰明殿か・・・。入りなさい。」
「失礼いたします。」


泰明は典薬助の前に座ると、ちょっと気まずそうな顔をして言う。


「あの・・・帝の朝の診察を交代していただけないでしょうか・・・。二日に一度、いえ四日に一度で構いません・・・。」
「どうかしたのか?朝の診察は泰明殿の役目・・・。別に構わないが・・・。理由は?」
「あの・・・なぜか帝に嫌味ばかり言われまして・・・。別にお役目をサボるとかそういうのではありませんので!」
「ああ、わかった。帝がどういわれるかは責任持たないぞ。明日は私が行く。その代わり五日に一度、宿直を頼んだよ。」
「代わって頂けるのなら、喜んで・・・毎日でもいいくらいです。」
「それはちょっと言いすぎだろ。まずは明日・・・交代しよう・・・。」


泰明は丁寧に挨拶をすると、あちらこちらの侍医に声をかけ、何とか三日に一度の間隔で帝と顔を合わさない日を作る事が出来た。


(院にご相談するのもな・・・。)


泰明は大変疲れた表情で邸に戻る。彩子は泰明の着替えを手伝うと、二人で薬草園を散歩した。


「何かあったの?」
「ん?んん・・・。明日は宿直だから・・・昼過ぎに出仕して帰らないよ・・・。」
「珍しい・・・。泰明が宿直なんて・・・。何かあったのね・・・。」
「帝が彩子のことで嫌味を言われるんだよ・・・。」
「まあ・・・。」
「いつまで続くのかな・・・。今日、帝に言われて胸の辺りがしくしく痛かったよ・・・。」
「でも泰明、帝から逃げてはいけないわ・・・。大事なお役目を放っておくなんて・・・。あなたらしくない。」


泰明は苦笑して言う。


「早く正式に結婚したら帝もお諦めになられるだろう。それか院にご相談するかだ・・・。まあ当分様子を見ます。」


彩子は泰明に寄り添い、綺麗な夕日を眺める。


次の日は宿直があるので遅めに起き、彩子や蘭と楽しげにしゃべる。蘭と彩子は手遊びをしながら、楽しそうに遊んでいるのを見て、微笑みながら出仕と宿直の準備を整える。


蘭は彩子のことを母と呼ぶ。こちらに来てもう一年となるので、こちらの言葉も堪能になり、宋国の姫であることなど、誰も忘れているほどである。


「母様、いつ父様と結婚するの?」
「え?父様にお聞きなさい。蘭姫はこの彩子が母でいいのかしら?」
「うん。蘭は母様が大好きよ。母様はいろいろなことを教えてくれるから。」
「なんて可愛いのでしょう。ねえ泰明。」


泰明は準備の手を止めて微笑みうなずく。


「ねえ父様、いつ母様は蘭の母様になるの?蘭ははやく治子おば様のところの都子姫のように妹か弟がほしいもの・・・。」
「気が早いね蘭は・・・。すみません・・・。」


彩子は顔を赤らめ微笑む。


「さあ、もうそろそろ出仕します。蘭、今日父様は帰らないから、母様と一緒に寝なさい。」
「うん。行ってらっしゃい。」


蘭は手を振り、女房達と部屋で遊ぶ。彩子は泰明の仕事道具を持って、車の前まで送るという。


「泰明、六年前のように思い余ったようなことはやめてね・・・。」
「何を言うのですか・・・。もう私には守るべき者があるので、あのようなことはいたしません。」


彩子は心配そうに荷物を渡すと、泰明はその手を引き彩子を引き寄せ抱きしめる。


「あなたと蘭がいるから大丈夫です。」
「ホントかしら・・・。」


泰明は彩子のくちづけをすると彩子から離れる。


「これはお約束の証です。では行ってまいります。」


彩子は顔を赤らめて手を振り、車を見送る。


じっと車が見えなくなるまで見送っていると、後ろから声がする。


「まあ、結婚もまだなのに昼間っから仲のよいこと・・・。」


彩子が振り返ると、典薬頭の末娘で、蘭がおば様と呼ぶ治子が立っていた。治子は泰明と同じ歳で、六年前典薬頭が泰明をこの治子の婿にしようと思っており、結局泰明が失踪して諦めたのである。もともと治子は泰明を一目見たときから気に入り、慕っていた。泰明が失踪後、やむを得ず、他家に嫁ぎ出産のため里帰りをしている。もちろん治子は彩子が気に入らない。彩子が元女御であることも知っているのだが・・・。


「泰明様が先代の帝から褒美として賜らなかったら、きっとお父様はあなたのような方とはお許しにならなかったでしょうね・・・。元女御様であっても田舎の姫なのに。」


彩子はこの手の嫌味には慣れている。散々元中宮の女官達に言われていたからである。この手の嫌味には無視が一番。何か言うと、喧嘩になる。それでもちょっかいをかけてくるのなら別であるが・・・。彩子は無視して部屋に戻ろうとすると、治子はまたちょっかいをかける。


「都中の姫君はあなたのことを噂しているわ。あなたの産んだ東宮様は後二条院様の子ではないってね・・・。どこかの地下人との間に出来た御子ではなくて?よく静養だとか言ってお里の大和に帰られていたし・・・。だから院は寵愛されていたあなたを手放されたとね。」


彩子はやんわり言い返す。


「あの宮は院のお子ですわ。噂は噂・・・。そのような噂を信じておられる治子様、どのような育て方をされたのかしら・・・。きっと今を時めく泰明様を独り占めにしている私に対する勝手な噂かしら・・・。そのような噂では私は引き下がりませんわ・・・。では失礼・・・。」
「彩子様、泰明様に浮気されないようにね・・・。みんな泰明様の隙を狙っているわ。おきをつけになって・・・。」


二人は寝殿の前で別れ、それぞれの部屋に戻っていく。もちろん部屋に帰った治子は悔しさのあまり、女房達に当り散らす。彩子は部屋に戻ると、溜め息をつく。


(覚悟をしていたけれどね・・・。どうして女ってこう噂を面白がるのかしら・・・。まあ東宮の父が院じゃないってことは真実だけど・・・。でもばかばかしいわね・・・。)


 一方典薬寮についた泰明は、典薬助に呼ばれすぐ殿上するように言われる。またかというように泰明はうなだれながら殿上し、帝の前に座る。


「泰明、今日はどうかしたの?朝、丹波がきたけれど・・・。」
「いえ、宿直とかわっていただいただけで・・・。なにも?」
「例の姫とけんかでもした?」
「いえ。」
「おかしいね。今まですすんで仕事をしていたのに・・・。浮かれてる?」


泰明は苦笑して言う。


「いえ。御用がなければこれで・・・。明日の朝はきちんと参りますので・・・。御前失礼いたします。」
「ああ、例の姫にもよろしく・・・。まだ結婚していないのだろう。」


この一言に切れそうになったが、帝であるため泰明は我慢した。


 泰明は内裏で、彩子は和気邸で毎日のように嫌味を言われる生活をしている。しかしこれは一時的なことであると二人は我慢した。


 医博士も兼ねている泰明は医師養成施設にも出入りをする。地方から出てきた医学生を指導しているのである。泰明は宋で身に付けた医術をわかりやすく教えるので、他の医博士たちよりも人気がある。もちろん女医博士にも混じって女医学生にも指導に当たることも度々ある。泰明は何でも得意ではあるが、特に脈診に関しては飛び抜けて優秀であり、脈診についての指導を任される事が多い。今日は帝の朝の診察後、この養成施設に入り浸っている。もうそろそろ退出時刻となるので、帰り支度をすると、典薬頭がやってきて泰明を引き止める。


「泰明、ちょっと来なさい。」
「伯父上、何か?」
「いいものをみせようと思ってな・・・私の車に乗りなさい。」
「はい・・・。」


泰明は言われるまま、典薬頭の車に乗り込むと、賀茂川沿いに車を進め、和気邸に行く道を少し外れる。こちらも下賀茂の閑静な地域である。下賀茂神社に近く、環境も良い。和気家の車はある邸の前に止まり中へ入る。この邸は新築のようで、新しい木のにおいが心地よく感じられる邸である。


「伯父上、ここは?」
「もともとここに本邸が建っていたのだけれど、私が若い頃に老朽化で壊して今の上賀茂に移ったのだが、あなたが養子に入られてすぐに建て始めたのですよ。ようやく完成した。大邸宅とはいえないが、泰明と彩子姫、蘭姫そして生まれてくるであろう子達が住むにはちょうどいい大きさだと思う。」
「え?」
「ここなら出仕するにも本邸より近い。便利なところであるし環境も良い。泰明にやろうと思ってな・・・。将来ここを和気家の本邸にすればいい。材木は大和国吉野から取り寄せた。大和守も彩子姫のためにと随分協力してくれたよ。思ったよりも安く立派にできた。」
「え、この私にこのような立派な邸を?」
「結婚を先延ばしにしていたのも、この邸の完成を待ってのこと・・・。やっと完成したのだから、もう泰明と彩子姫の結婚の日取りを決めてもいいだろう。こちらを新居にしなさい。」
「伯父上・・・。なんと感謝したらよいか・・・。」
「いやいや・・・。」


 師走に入ってすぐ、先に彩子が入居することになった。彩子は寝殿の北側の部屋に入る。調度類も新しいものが揃えられ、彩子の婚礼の衣装なども置かれていた。


「彩子、いい邸でしょ。ここなら気の使うものはいないし・・・。この調度や衣装はすべて父君の大和守が彩子のためにと揃えてくださったらしい・・・。そしてこの私のものまで・・・。」
「そうね・・・。お父様に感謝しなきゃ。」
「私達の婚礼も三日後に決まったし、やっと落ち着ける。」
「ええ、お庭も綺麗ね・・・。なんか大和の景色を見ているみたい・・・。」
「そうだね・・・大和守が石やら木やらを手配してくださった。東の桜は吉野から、持ってきていただいたらしい・・・。」


ふたりは寝殿のすのこ縁に座り、庭を眺める。


「婚礼が済んだら、親しい人を呼んで、邸と婚礼披露の宴をしよう・・・。そんなに盛大にはできないけれど・・・。」
「そうね・・・。」


彩子は微笑みながら泰明に寄り添う。


「下働きのものや、従者、女房の数人を大和から呼び寄せたよ。知っているものもいるのではないかな・・・。」
「大和から?」
「そう、今からその者たちを呼ぼうか・・・。」


泰明は従者に指示し、新しく雇った者たちを庭に集める。やはり知っているものばかりで、彩子は驚き、微笑んだ。そして中には小さな子供が一人含まれていた。


「あの子は?」


泰明は微笑んで彩子に言う。


「その子は私の甥、兄上の子だよ。兄上がぜひ、都で医術を学ばせたいというのでね・・・。まだ七歳だけど、兄上に似て賢いのです。今から私が指導すればきっと立派な医師になるでしょう・・・。さあ、智也おいで・・・。」


甥の智也は走って泰明のところにやってくると、彩子にお辞儀をする。


「でもね泰明、こんなに小さな頃から親元から離れて大丈夫かしら・・・。よくお姉さまが許したわね・・・。」
「まあいい顔はしなかったけれど、兄上がどうしてもというし、蘭がいるから・・・。智也は蘭と仲がいい。蘭の遊び相手にもいいんじゃないかなって思ってね・・・。」
「そう・・・。」


泰明は蘭を呼び寄せて、智也と遊ばせる。


「でも泰明、あなたは大体昼間のお役目が多いのでしょ?いつ指導するの?」
「宿直を増やすことにした。帝もご承知だ・・・。そうそう今晩は宿直だから・・・。あと三日後から三日間お休みも頂いた。その分働かないとね・・・。」
「そう・・・。」


泰明は婚儀の日に休みを頂くためにせっせと働く。もちろん残業もし、急な宿直も引き受ける。着替えに帰ってきてもまたとんぼ返りで典薬寮に戻っていく日が三日間続いた。婚礼の日の昼前、疲れた様子で宿直から帰ってきた泰明は、遅い食事を済ますと、横になった。


泰明は必ずと言っていいほど、邸では典薬寮での話をしない。彩子が何を聞こうとも話をそらせ、違う話をするのだ。彩子はきっと邸では典薬寮での仕事を忘れたいのではないかと、思うようにした。


 今日は婚儀の日、いくら再婚同士とはいえ、慣例どおりの婚儀を行うことにした。しかしこの婚姻は普通の婿入り婚とは違うので、その点が逆であり婚儀の方法は宮中の婚儀と少し似ているところがあった。二人は寝所に入ると、向かい合いながら照れ笑いをする。今夜は別に二人にとって初夜ではないが、なんとなく正式の婚姻というだけで緊張しているのである。


「彩子、こっちにおいで・・・。」


泰明は彩子を引き寄せ、抱きしめるとくちづけをし、彩子を横にする。二人は見つめあい再び泰明が彩子にくちづけをしながら、彩子の小袖の帯を解く。そしてこれからという時に泰明つきの女房が表から声をかける。


「申し上げます。ただいま内裏より使者が・・・。」


泰明は彩子に単を被せると、自分の小袖を調え、上着を着て表の扉を開け女房に聞く。


「何?今日、取次ぎはお断りといったはずだよ・・・。」
「いえ、帝直々に参内せよとのご命令が・・・。」
「わかった・・・今から参内する。用意を頼む。」


泰明は顔をしかめて参内の準備をする。


(誰かが帝に婚儀のことを漏らしたな・・・。あれほど内緒にしようと思っていたのに・・・。)


「彩子、聞いた?今から参内してくる。早めに切り上げてくるから・・・。待っていてください・・・。きっとつまらないこと・・・。遅いようでしたら先に・・・。」


泰明は別室で衣冠に着替え、すぐに車に乗って参内する。案の定帝は眠れないから話し相手がほしいだの、これはどうしたらいい、あれはどうだろうとつまらない話につき合わせる。


「帝、本日から三日間お休みを頂いたのです・・・。特に、夜に呼び出すなど・・・。」
「あ、ごめんごめん・・・。今日はこ・ん・ぎの夜だったね・・・。邪魔して悪かった。さあ帰ったらいい。麗しい彩子姫が待っているよね。早く帰れ。」


帝は嫉妬もあるが、泰明をからかうのが面白いからか、未だに彩子のことでちょっかいをかけてくる。そのためか、決して仕事場ではプライベートのことについては一切口にしないのである。泰明は二時間ほどして帰ってきた。彩子は寝所に横になり、待っていた。泰明は溜め息をつきながら、衣冠を脱ぎ、小袖姿になると彩子の側で横になる。


「ただいま彩子・・・。予想通りだった・・・。ただの帝の暇つぶしにつき合わされた・・・。ごめん・・・。もう寝る?それとも・・・。」


もちろん二人は婚儀の続きを選ぶ。次の日に呼び出しはなかったものの、最終日に三日夜餅を二人で食べて寝ようとしたときに今度は緊急の呼び出しがかかる。今回は帝のいたずらではなく、典薬寮の医師、侍医すべてが招集される。衣冠に急いで着替えると、典薬寮に入る。典薬寮では、典薬助が典薬頭に代わり召集内容を言う。


「休みを取っているものたちまで集めて悪かったね・・・。ここのところ典薬頭は宇治に詰めておられるのは知っているであろうな・・・。もちろん先々代の帝であられる宇治院のお体の調子がお悪いのは皆知っているだろうが、先程、早馬で相当お体が悪いとの報告があり、この中の何人かで組んで宇治院の治療を行ってほしい。さて、まず第一団として、侍医和気泰明殿、医師和気直安殿、医師丹波輝定殿、医師丹波継貞殿、この四名で治療を・・・。泰明殿、あなたが指揮をとり、宇治院の治療にあたられよ。今から泊り込みの準備を・・・。わかりましたね。」


泰明は典薬助の指示通り、準備を整える。あとは着替えを邸に取りに戻るだけ。とりあえず邸に戻ろうとしたときに典薬助が声をかける。


「泰明殿、今日のような日に呼び出して悪かったね・・・。また埋め合わせをする。5日したら第二団と交代だから辛抱を・・・。」
「しかしなぜ私が・・・?」
「先帝の後二条院様のご指名だよ。お断りしたがどうしてもといわれたからな・・・。」


泰明は急いで邸に帰り荷物を整え、馬に乗ると宇治院の住む宇治に向かった。一番乗りだったらしく、とりあえず泰明は宇治院のいる寝殿に行き、典薬頭と会い病状について詳しく聞く。その後、宇治院の寝所に入り脈診やらいろいろな方法で、どのような状況なのか、確かめる。


険しい表情で別室にて宇治院の妃、後二条院、典薬頭と話をする。泰明は険しい表情のまま、現状を包み隠さず、申し上げる。


「残念ながら、たいそう御弱りのご様子・・・。院は御年ですし、治療しても治る見込みは・・・。延命程度にしかなりません・・・。御覚悟ください・・・。病名は・・・」


泰明はわかりやすく詳しく申し上げると皆は納得して診断結果を受け入れた。泰明も出来る限りの事はしようと、三日三晩寝ずに診察治療したが、その甲斐も空しく、院は崩御したのである。もちろん縁のものは泰明の努力を認め、院の死を受け入れる。


師走の忙しい時期に院が亡くなった事で、祝賀の意味を持つ儀礼はすべて取りやめになり、先代の帝や帝は喪に服した。やっとのことで邸に帰ってきた泰明は疲れきり、飲まず食わず眠り続けた。彩子は心配して泰明の側に寄りそう。泰明は体調が良くなるまで休みをもらえることになった。



《作者からの一言》

新生活の始まりです。

やはり都中の憧れの的である泰明の婚約者である彩子は都中の姫君や宮中の女官たちに僻まれ、あることないこと噂にされ、もちろん嫌味な文なども届いたことでしょう。泰明も泰明で、宮中では帝に嫌味を言われ、内裏では殿上人たちに先帝の女御を賜ったことで嫌味を言われたりで散々な目に遭います。婚儀一日目は途中に帝に呼び出され、最終日は宇治院(この連載の始めの主人公)の診察で呼び出されたりで・・・・。どうして山あり谷ありなのでしょうこの二人は・・・・。

第122章 彩子が彩子に戻る日

 帝が譲位をし、後二条院(院号)として二条院に入る。無事に東宮は即位の儀礼を済まし、帝になった。後二条院の七の宮として生まれた生後三ヵ月の良仁親王は、帝の弟宮として立太弟し、東宮となる。もちろん摂関家の中宮腹の三の宮四の宮を差し置いて生まれたばかりの宮を東宮にしたことに異を唱えた者は居たが、新帝がこの宮を是非にと決めた。もちろんこの宮が新帝の隠し子とは皆は知らない。東宮即位の儀礼は行われたが、儀礼中泣いたりするので、なかなか進まず、普段の倍以上かかった。彩子についていた小宰相や大半の女官は新東宮につき、彩子には数人の女房のみが付いている。


「彩子、このように少ない女房たちでいいのかい?鈴華にはあのようにたくさんのものたちがいるのに・・・。」


と、後二条院が心配する。もちろん入内するまでこのような生活をしていたので、彩子はなんとも思ってはいない。


「もうこの院から出るのですから、今までいてくれたものたちで十分です。今まで着ていた華やかな衣装も、お道具も私には必要ありません。この衣装もお道具も綾子に譲ります。」
「しかしね・・・。」
「私はもう右大臣家の養女ではありませんもの・・・。右大臣家にお借りした女房たちもお返ししましたし・・・。泰明も、身一つでもいいと・・・。ですから・・・。」
「話は変わるけれど、彩子は良仁ともう会わなくていいのかい?」
「すべてを小宰相に頼みました。院と離縁し、新帝の臣下に嫁ぐのですから、もうあの宮には会えません。母であるとも言えません。私に生母という称号もいりません。私はもう大和守二の姫の彩子です。こうして院の側にいることさえ恐れ多い身分になりました。綾子にも誠仁にももう会いません。」


院は寂しそうな顔をして言う。


「母宮も遠慮なく遊びに来なさいと言っていたでしょう・・・。彩子は母宮のお気に入りなのに・・・。鈴華には悪いけど・・・・。気が向いたらでいい、遊びにおいで・・・。」


彩子は微笑んでうなずく。


「本当であれば、ずっと彩子が側にいてくれるといいが、彩子の想いは私ではない。手放すのは心苦しいが、あの者に彩子を譲ろうと決めたのだから・・・。もう明日なんだね・・・。」
「はい・・・。」
「彩子、最後に彩子を抱きしめてもいいかな・・・。彩子の馨りや感触を覚えておきたい・・・。」


彩子はうなずくと、院は彩子を引き寄せ抱きしめる。何時間も夜が更けるまで抱きしめる。


「院・・・?」
「何?」
「明日は早いので・・・。」
「あ・・・彩子すまない・・・。私は部屋に戻る・・・。ゆっくりお休み・・・。」


院は彩子を話すと立ち上がって、彩子の部屋を退出する。彩子は溜め息をつくと、寝所に横になると扉が開き、声がする。


「お母様、一緒に寝ていい?」


綾子は誠仁の手を引き、彩子の部屋に入ってくる。姫宮と若宮付きの女房がやってきていう。


「お休みのところ申し訳ありません・・・。宮様方が、どうしてもと・・・。なかなか寝付かれず・・・。」
「別に構いませんよ。さあいらっしゃい・・・綾子、誠仁。母様と一緒に眠りましょう・・・。」
「お父様は?この前みたいに四人で寝たかったな・・・。」
「そうなの?では呼んできていただきましょう・・・。武州、院がお休みになられたか籐少納言に聞いてきてくれないかしら・・・。宮たちが一緒に寝たいといっていると・・・。」
「綾子もいく!」


武州は姫宮を連れて院の部屋には向かうと、院もなかなか寝付けないようで、綾子を抱いて彩子の部屋にやってくる。


「お母様、お父様がいいって・・・。さあ、お父様ったら・・・。早く綾たちとねえ~~。」
「彩子構わないかな・・・・?最後の夜を四人で・・・ちょっと狭いし暑いけれど・・・。」
「はい。」


彩子は微笑んで院と宮たちを迎える。院と彩子の間に宮達が入る。宮達は二人の間に挟まれて安心したのか、すぐに寝てしまった。院は微笑んで言う。


「帝であったら考えられないことだね・・・。こうして宮達と眠れるってこと・・・。ほんとに可愛らしい宮達だ・・・。新帝康仁にも、斎宮篤子にも、帥の宮雅博にも、式部卿宮雅盛にもこのようなことはしてやれなかった・・・。今夜はいい思い出になったよ彩子。ありがとう・・・。」


彩子も微笑んで宮達の寝顔を見つめる。そして二人は一晩中手をつなぎ眠った。


 次の朝、光がさしてくると院と彩子は目覚め、顔を見合わせる。まだ宮達は眠っていたが、とても幸せそうな寝顔であった。院は名残惜しそうに彩子の部屋を出て戻って行った。彩子は時間が許す限り、この宮達の寝顔を見つめる。


(連れて行けるものなら連れて行きたいわ・・・。本当に可愛い宮達だもの・・・・。)


起床の時間が来ると女房たちが彩子を起こしにくる。


「まあ、宮様達がこちらにお泊りに?どういたしましょうか?早くご用意をされないと大和守様の迎えの車が来てしまいますわ・・・。」
「寝かせておやり、私は隣の部屋で準備をするから・・・。」


彩子は朝餉を食べ、隣で準備を整える。


「彩子様、宮様たちを部屋に戻さなくてよろしいのでしょうか?出立は、宮様たちが寝ている間にこっそり行う予定でしたのに・・・。起きられたらきっと彩子様についていくと駄々を・・・。」


彩子は微笑むと黙々と着替えを済ます。寝殿のほうは、大和守が到着し、院に挨拶をしているようで院の女房が彩子を呼びに来る。彩子はその女房と共に寝殿に入り、院に最後の挨拶をする。


「院、長い間大変お世話になりました。とても可愛がっていただけ、彩子は幸せでした。院、残していく宮達のこと、よろしくお願いします。お元気で・・・。」
「んん・・・。彩子も元気で・・・。和気殿と仲良くな・・・。幸せになるのですよ・・・。」
「はい・・・とてもありがたいお言葉に感謝しております。」
「またいつでも遊びにおいで。気兼ねなど要らないから・・・。」


彩子は院に深々と頭を下げると、寝殿前に横付けされた大和守の車に乗り込む。車が動き出し、二条院を出ようとしたとき、邸から誠仁の泣き声が聞こえる。


「母様!母様!どこ?母様!」


そして綾子の泣き声も聞こえる。


「お父様。お母様はどこ!起きたらいないの!お母様の女房達も!お母様はどこ?ねえお父様!」


彩子は涙をこらえながら、二条院を後にした。鴨川の畔に来ると大和守は車を止める。


「彩子、泣いているのか?彩子の気持ちはわからないこともない・・・。しかししょうがないこと・・・。和気家に宮様たちを連れてはいけないからな・・・。」
「わかっています・・・。わかっているからこそ涙が・・・。お父様行って・・・。」
「わかった・・・。」


再び車が動き出し、上賀茂にある和気邸に向かった。


 和気邸では彩子を迎えるために朝早くから準備を整えた。典薬頭も泰明もこの日休みを取り、彩子の到着を待つ。泰明はついに彩子が和気邸に入るというので、昨夜は眠る事が出来ず、今日も朝からそわそわして落ち着かない様子であった。


「泰明殿、朝餉も食べず、大丈夫ですか?嬉しい気持ちはわからないでもないが婚礼の日取りはまだまだ先のこと・・・。」


典薬頭は微笑んで泰明を見つめている。典薬頭も嫡男である泰明に嫁が来るのを楽しみにしている。特にこの嫁は先帝のご寵愛を一身に受け、泰明に褒美として与えられた元女御である。公達にとって、帝から寵愛を受けた妃を賜ることは大変栄誉なことであった。


泰明は部屋でじっとしている事が出来ず、邸を抜け出した。少し経つと、大和守の車が到着し、和気邸に入る。典薬頭は大和守と彩子を寝殿に案内する。


「大和守、これはこれはよく大和から来ていただきました。即位の礼以来ですなあ・・・。あの時は祝宴で杯を交わしましたね。」
「こちらこそ・・・。ほんとに和気殿は酒に強い。今日は土産に大和の酒をたくさん持参しました。」
「ああ、ありがたい。今夜は祝いの宴を催すのでゆっくりして行ってください。」
「で、泰明殿はどちらに・・・せっかく・・・。あの者は小さい頃から要領が悪いというか・・・。いつも彩子姫の後ろをビービー泣きながらついていたのですよ。そのものがあのように立派な青年となるとは・・・。大和に埋もれずに良かったよかった・・・。大和にいれば未だ少目のままであった。」
「あの歳で従五位下に叙されているのだから・・・。私でもあの歳は名も無き医師だったが・・・。本当に泰明はすばらしい・・・。しかし・・・汚点が・・・。」
「汚点?」
「あの事件で腕をやられましてな・・・。左手の感覚が戻らないようなのです・・・。あれからもう数ヶ月・・・。もう完治していてもいいものを・・・。利き手でなかった事が不幸中の幸いとはいえ・・・本当に残念なこと・・・。」


彩子は泰明の腕について聞き驚く。大和守は知っているような口調で言う。


「そうですな・・・泰明の兄、智明も同じようなことを・・・。何とか治らないものか・・・。」
「全力を尽くして治療を試みております。左手の件は典薬寮にも、帝にも内密にしておりますので、そのように・・・。」


大和守はうなずき、溜め息をつく。彩子は典薬頭に問う。


「あの・・・泰明様はどちらに・・・。」
「そうだそうだ・・・。彩子姫がこちらにいらしたのだった。ちょっとお待ちください。」


典薬頭は従者を呼び、泰明の行き先を問うと従者は邸の東の薬草園にいるといった。


「彩子姫、泰明は東の薬草園にいるようです。呼びに行かせましょうか?」
「いいえ、私が行きます。」
「しかし姫様が・・・。」


彩子は立ち上がって、邸を出ると、東の薬草園に入り、泰明を探す。泰明はまだ生育途中の薬草をいじりながら、溜め息をついていた。


「泰明、ここにいたのね・・・。心配したじゃない・・・。」
「彩子様・・・もう着かれたのですか?」
「だからここにいるのよ。」


そういうと彩子は泰明に胸に飛び込んだ。泰明は顔を赤くして彩子を抱きしめた。


「彩子様・・・。」
「泰明、私はあなたの妻になるのよ。『様』をつけないでちょうだい。」


泰明は照れながら言う。


「彩・・・子・・・。」
「なに・・・?」


泰明は彩子に微笑むと、言う。


「よく来てくれましたね、彩子。ずっとこの日を待っていました。本当にいいのですか?このような私のもとに嫁いで・・・。昔あなたの後ろを泣きながらついていた泣き虫泰明ですよ。」
「いいのよ。今は立派なお医師様じゃない。都中のものに尊敬される・・・。そして慕われている・・・。私が泰明を独り占めにするのよ。あなたを狙っていた姫君や女官達に殺されそうだわ・・・。」


彩子が微笑むと泰明は言う。


「それは大変ですね。これからは私があなたをお守りしますから安心してください・・・。」


そういうと、泰明は真剣な顔をして彩子のあごに手を当てると、彩子に口づけをした。彩子は口づけの後、泰明の胸にうずくまった。


「もう離さないでね・・・泰明。」
「もう離しませんよ・・・。院に返して欲しいと言われても。」
「私は子供が三人もいて、一度結婚しているわ・・・それでもいいの?」
「何を言っているのですか?私もそうですよ。蘭もいるし・・・。お互い様です・・・。さあ、邸に戻りましょう。皆が心配しているはずです。」


泰明は彩子の手を引き、邸に戻った。


《作者からの一言》

やっとのことで彩子は先帝の側室という身分から解放され、大好きな泰明のいる和気邸に入ります。どうしてまだ婚儀の日取りは先かというと、後ほどわかります。とりあえず、和気家に入って泰明と共に過ごすことになりました。

第121章 彩子の帰京と惨状

 新宮が帰京して十日後、彩子も帰京の準備を整える。右大臣家の使者は近衛府の警備の者数人を連れてやってくることになっている。今回は譲位の準備で忙しいのか、良仁のように博雅やそのほかの大夫クラスの役人は付いてくる事が出来なかった。特に運悪く大和守は所要で国を離れていた。その上、最近国境いで賊が続出しているのである。困り果てた智明と泰明はできる限りの警備の者を集め、自分たちも普段を持ち歩かない刀を携帯することにした。


「山城国まで何もなければいいのだが・・・。山城国のに入れば、検非違使たちも付くという。」
「兄上、蘭を彩子様の車に乗せていいでしょうか。」
「そうだね。賊は金品も狙うが、最近は女子供を連れ去るらしい・・・。 蘭姫も彩子様の車に乗せよう。運よく蘭姫は彩子様になついていることだし。」


夜、関係者を集め、次の日の打ち合わせを行った。何度も何度も確認して夜が更けるまで打ち合わせをする。


 次の日朝早く、準備がすべて整い、彩子は家族の者にお別れの挨拶をする。


「このような時にお父様がいないのは残念だけど・・・。もう都に戻らないと・・・。みんな元気でね・・・。」
「彩子も・・・。」


彩子は右大臣家の車に乗り込み、大和の国を発つ。彩子の車の側には数人の近衛の警備の者と、泰明が馬で警護をし、大和守の代わりに智明が先頭を歩いた。後ろには数人の右大臣家の者達が並んでいる。彩子は車の中で、蘭姫と共に手遊びをしたり、歌を歌ったりして時間を過ごした。


智明はいつもならばこの街道を行きかう人々が多い時間帯であるのにも関わらず、誰も通らないことを不思議に思い、警戒をしながら国境に近づくと、列の後ろのほうで叫び声が聞こえる。


「賊だ!大和女御様の車を守れ!」


その声に智明は大和守の従者に山城国に助けを呼ぶように命じると、馬を走らせ彩子のいる車に急ぎ、刀を取り出すと、車に近づこうとする賊を追い払う。


「早く山城国に入れ!すぐに助けが来る!」


牛飼い童はおびえて動く事が出来ず車は動こうとはしなかったので、しょうがなく智明は賊を追い払いながら彩子に言う。


「大和女御様、必ずお守りいたします!車から出てはなりません!」


泰明も車の後ろで賊と戦っていた。泰明の腕からは切られたらしく血が流れている。泰明は相手をしている賊の顔に見覚えがあった。


「お前は大和のものだな!」
「だからなんだ!」
「こちらの車におられる方は大和女御こと、大和守二の姫彩子様であられる!十年ほど前の天災時に受けた御恩を忘れたか!彩子様はお前らのような者たちにも手を差し伸べられたではないか!私は大和守様、彩子様と共に救援に回った大和国元少目で国医師であった和気泰明である!」
「なんと!彩子様の車か!」


賊の男は部下の者たちに声をかけ、賊は蜘蛛の子を散らすように下がっていった。泰明は立ち去って行った賊に切られた腕を押さえながら、右大臣家や近衛のもので怪我をしたものの手当てをしようと馬から診療道具を取り出す。


「泰明!」


彩子は泰明の怪我に気が付き、車から飛び降りて小袖の袖を破くと、泰明の腕を手当てする。


「彩子様、ありがとうございます。しかしこれ以上触らないでください。彩子様が穢れてしまいます。怪我した者達の手当ては私がいたしますので早く車に戻り、都にお戻りください。」


車の反対側にいた智明は彩子と泰明に気づき、言う。


「女御様、車にお戻りを!泰明!怪我をしたのか。大丈夫か!」
「兄上・・・これくらい大丈夫です。それよりも怪我人を・・・。兄上、先に山城国へ彩子様を・・・。」
「ああわかった・・・。山城の者達がもうそこまで来ているので、彩子様を引き継いだ後、戻ってくる。頼んだぞ。泰明。」


智明は彩子を車に戻すと、無傷であった者数人と共に山城国に向かう。すぐに山城の警備の者と山城守がやってきて惨状に驚き嘆く。


「ああ!無傷の者はこれだけですか!和気殿、良くここまで女御様をお守りした。このことは帝にきちんと報告しておこう。怪我した者は?」
「私の弟、典薬寮侍医和気泰明が怪我を押して手当てをしております。私も国医師ですので、今すぐ戻って手当てを・・・。大和女御様をよろしくお願いします。」
「わかりました。また詳しくは後ほど知らせて欲しい。」
「はい、ではよろしくお願い申し上げます。」


智明は山城守に一礼すると、もと来た道のりを戻っていった。蘭はこの状況にショックを受けたのか、彩子に抱きついたまま震えていた。彩子は蘭の頭を撫でで言う。


「蘭姫、あなたの父上様は良くがんばりました。誇りに思わないとね・・・。今も怪我人の手当てを・・・。」


一方泰明は痛い腕を我慢しながら手当てをする。数人は重症であり、意識のないものもおり、泰明は重症の者から手当てをし、自分を後回しにした。智明も到着し、智明は大和の役所に助けを求めるように使いを出してから手当ての手伝いをした後、泰明を診る。泰明の緋色の束帯の左袖は真っ赤な血に染まり、智明は驚く。智明は袖を破ると、傷が結構深く、なかなか血が止まらない様子だった。


「お前の大事な腕を・・・。大丈夫か?」
「大丈夫です。しかし少し感覚が・・・。利き腕ではないので・・・。」
「何が大丈夫だ!左腕をだめにするところだったぞ!」
「それよりも、怪我人が・・・。」
「命に別状ないものばかりだ。安心したらいい。もうすぐ助けが来る。」


怪我人の十数人は和気家の邸に運ばれ、治療をする。賊に襲われたということを聞いた大和守は急いで戻ってきた。大和守は泰明たちを呼び、話を聞く。


「彩子は無事で何より・・・・。朝廷にご報告をしないといけない。詳しく述べよ。」


一番近くにいた泰明が大和守に包み隠さず言う。


「なぜ、賊はやめたのか?」
「賊の中に見覚えのある者が・・・。十年ほど前の災害で救護した者達が含まれており、彩子様の名を出したとたんに去っていきました。もし気づかなかったとしたら彩子様は無事では済まなかったでしょうね・・・。」
「大和の者か・・・。取締りを厳しくしないといけない・・・。智明、頼んだよ。ところで怪我人の様子は?」
「はい、右大臣家のもの四人、いずれも軽症。右近衛少将様軽症、右近衛将監様がた三名のうち1名重体。うち2名重症。あとは大和国で雇った者たち10名軽症です。そして泰明なのですが・・・。左腕を・・・。もしかしたら障害が残るかもしれません・・・。」
「わかった・・・そのように朝廷に報告しておく。泰明、怪我をしているのに悪いが、落ち着いたら報告書を都に届けてもらえないか・・・。怪我を負ったものは大和国が責任を持って治療をしよう。」


 無事に後宮に戻った彩子は蘭と共に承香殿に入った。彩子も蘭もおびえていたが、彩子は蘭のためにも蘭を励まし、そして慰めた。蘭は疲れたのか、泣きながら寝てしまった。帝は無事に無傷で戻ってきた右近中将の報告を聞き、承香殿に急いでやってくる。


「彩子!無事か!」
「帝・・・。」


帝は彩子を抱きしめると、彩子は緊張の糸が切れたのか、気を失ってしまった。帝は彩子を抱きしめながら、彩子についていた侍女に詳しく聞く。侍女もおびえた様子で詳しく話すと、帝は顔を青ざめ、彩子の顔を撫でる。


「ところで怪我をしたものの様子は?」
「よくはわかりませんが、後ろに控えていた者十数人・・・。中には倒れて動かない者も・・・。そして・・・・そして・・・。」
「どうした。申せ。」
「侍医の和気様が・・・。彩子様の車に近づいてきた賊を止めようと・・・。腕を切られました・・・。怪我をしながらも彩子様をお守りし賊を一喝した途端、賊は逃げていきました。」
「泰明がか?彩子を守ろうと怪我を?」
「はい・・・。」
「容態は?」
「わかりません・・・・でも彩子様が車から飛び降り和気様の手当てを・・・。それ以上は・・・。」
「そうか・・・お前も大変な目にあったねゆっくりするといい。・・・おやその子は?」
「和気様のご息女蘭姫様にございます。和気智明様が念のためと彩子様の車に乗せたのです。」
「そういえば泰明には宋国から連れて帰ってきた姫がいたね・・・。なんと可愛らしい・・・。」


彩子が目を覚ますと、彩子は帝にしがみつき涙を流す。


「泰明が・・・泰明が・・・そして帝からお借りした近衛の者達が・・・・。右大臣家の者達、大和の国の者達が・・・・。私のために・・・。」
「きっと大丈夫だ。現場には和気智明もいる。泰明はきっとけろっとた表情で帰京するよきっと・・・・。彩子、心配はいらない。きっと大丈夫だから・・・。」
「帝・・・。私が親王と帰っていればこのようなことには・・・。」
「大丈夫・・・。さっき賊討伐に検非違使を大和に派遣した。無事だった者に聞くと、賊にも数人負傷者が出ているようだ。きっとお父上が怪我をしたものたちの世話をしているだろうから、安心したらいい・・・。疲れただろ、産後間もないのだから、ゆっくりお休み・・・。」


彩子は女官たちに支えられながら御帳台に入り横になる。帝は清涼殿に戻り、大和からの報告を待つことにした。やはり帝は、身を挺して彩子を守った泰明の事が気になり、大和に使いを出した。


次の朝には帝のもとに続々と報告が入ってくるが、泰明の容態については入ってこなかった。帝はこの事件が落ち着くまで譲位を延期することにした。この日のうちに軽症だった者が、使者と共に都入りした。この事件で怪我をした者たちに帝は見舞いの品を与え、近衛のものについてはさらに休みを与えた。都入りした者の中に泰明も含まれており、まず和気本邸に入った。典薬頭は泰明を迎えて、怪我の治療を行う。思ったよりも怪我はひどく、まだ完全に血が止まってはいなかった。典薬頭は泰明に治療と薬湯を処方し、安静にするように言う。


「伯父上、、今から参内を・・・。帝や関係各所にご報告を・・・。」
「ではそれが終わればすぐに戻り、安静を・・・。」
「わかりました。すぐに参内し、戻ってまいります。」


泰明は束帯に着替え、参内の準備をする。準備が整うと、車に乗り内裏に向かう。痛い腕を我慢しながら報告書を手に内裏に入る。


「帝、侍医和気泰明殿、殿上願いが出ておりますが・・・。」
「和気が参内したか!早く通せ!」
「しかし、まだ怪我の穢れがありますのでいかがいたしましょう・・・。」
「では庭に通せ・・・。」


泰明は清涼殿の東庭に通されると、大和守よりの報告書を侍従を通して渡す。帝は書状に目を通すと、泰明にねぎらいの声をかける。


「和気殿、よく女御を守ってくれた。傷を負ったと聞いたが、どうですか?」
「いえ・・・このような傷・・・。」
「女御もたいそう心配していたよ。あなたのご息女蘭姫は女御が預かっている。あとで迎えに行くと良い。承香殿殿上を許す。そして身を挺して女御を守った和気泰明殿に、褒美として私が譲位をした後、女御である彩子を与える。」


帝の周りにいた近臣の者たちは帝ご寵愛の女御を侍医である泰明に褒美として与えるという言葉に驚く。泰明は正式に彩子をいただけるという帝の言葉を頂き恐縮し言う。


「恐れ多いお言葉・・・。恐縮しております。帝ご寵愛の女御様をこのような私に賜るとは・・・。」
「遠慮は要らない。泰明殿であれば、安心して彩子をやれるのだから。さ、あなたの可愛い姫を迎えに行くといい。関係各所には私から報告しておく。泰明殿は当分休みを取られよ。」


泰明は帝に深々と頭を下げると、立ち上がって彩子の御殿である承香殿にむかう。


 あの事件からひと月たち、重症を負った者達が都入りした頃、帝は再び譲位の日を決めなおした。はじめに後宮を出た彩子はひとまず二条院に入る。ここは以前まで右大臣邸として使われていたが、帝の祖父の亡き二条宮の遺言により、今上帝雅和親王に引き渡され譲位後の住まいとされる。右大臣の正妻で、帝の母宮である和子女王は右大臣の本邸になる五条邸には付いていかず、孫である彩子の産んだ五の姫宮と、六の宮と余生を過ごすことになった。彩子と東宮の間に生まれた七の宮良仁親王は右大臣邸にて次期東宮として養育され、帝王学を学ぶことになる。彩子は帝の母宮である和子女王に面会し、挨拶を交わす。


「彩子様、先月はご帰京の際に散々な目に遭いましたね・・・。死んだ者がいなかったのが不幸中の幸いでした。」
「本当にあの折は右大臣家の者達が負傷し、本当にどのようにお詫びを申し上げたらいいか・・・。」
「構いません。あの時あの・・・侍医和気殿がいたおかげで、助かったようなものです。あのあと和気殿は?」
「傷が癒えずに未だ休みを取っていると・・・。」


彩子は溜め息をついて、心配そうな顔をする。


「彩子様、お見舞いに行っていらしては?帝より今後のあなたの事を伺ってあります。あなたの姫宮若宮たちは寂しいでしょうが、あなたが想っておられた方と再婚されるのですから、良かったではありませんか・・・。」
「母宮様・・・。」
「どうぞいってらっしゃい。彩子様と和気殿のことは皆知っていること。帝が和気殿に彩子様を譲られると聞いたときは皆驚いていましたが・・・。よろしければわたくしの車をお使いなさい。」


母宮は微笑んで彩子を送り出す。


 和気邸は鴨川を挟んで東側の上賀茂にあり、閑静なところである。邸の周りに朝廷とは別の自家薬草園を持ち、たくさんの医術を学ぶ者が地方から集まり、下宿している。和気家は丹波家と共に昔から朝廷に仕え、代々典薬寮の二大勢力として地位を争っている。泰明は当主の甥に当たり、当主に継ぐ者がいないので一族で一番優秀な泰明を養子に迎え嫡男とした。彩子は先触れも無く和気家を訪問したので、和気家の者達は驚いて、泰明に伺いに行く。


「あの・・・泰明様、大和守二の姫彩子様がお見舞いに参られましたが・・・。」


泰明は驚き、読んでいた書物を落とすと慌てて従者に通すように言う。泰明は慌てて部屋中読み散らかした書物や蘭が書き散らした紙を整理すると、女房たちに言って蘭を別室に行かせる。
「思ったより元気そうで安心したわ・・・。」
「彩子様・・・。」


彩子は突然の訪問に慌てている泰明を見て微笑む。彩子は泰明の側によると座って様子を伺う。


「どう?怪我の様子は?」
「おかげさまで随分良くはなりました・・・。伯父上の許可が下りないと出仕ができないのです。毎日こうして和気家の書物を読み漁っておりました。すべて読み終わってしまいそうです・・・。」
「泰明は本当に勉強熱心ね・・・。」
「それは・・・あの・・・彩子様を養わなければならないからです・・・。もっと禄をいただけるようにならないと・・・。彩子様やその・・・あの・・・。」


泰明は顔を赤らめて彩子から目を逸らす。


「何?泰明。」


彩子は泰明の顔に近づいてじっと見つめる。泰明はさらに顔を赤らめて言う。


「あのその、私にも跡継ぎが必要なのです・・・。男(おのこ)を・・・。私は和気家を継ぐ者として・・・。彩子様に産んでいただきたいのです。ですから、彩子様と、生まれてくるであろう私たちの子供たちを養うために、もっと禄をいただけるようにがんばらないと・・・。」
「なあんだ・・・。」
「何だとは何ですか・・・。僕はやっとのことで彩子様との仲を正式に許していただけたのに・・・。」
「私も嬉しいのよ。泰明と一緒になれるんだもの。本当に大丈夫?その腕・・・。」
「まだちょっと感覚が鈍いのですが、何とかなりますよ。利き手じゃありませんし・・・。体は元気です。病気じゃありません。早く出仕できるように大人しくしておきます。」


二人は向かい合いながら楽しげに笑う。すると思い出したように泰明が言う。


「御殿を抜け出してこられたのでしょう?早く戻らないと、大騒ぎに・・・。」
「いいの、今日から帝の母宮のおられる二条院に移ったの。母宮様が泰明のお見舞いに行ってらっしゃいといってくださったから・・・。ゆっくりできるのよ・・・。」
「そうですか・・・。ではゆっくり私の話し相手にでもなっていただけますか?」
「はい・・・。」


二人はいい雰囲気になり見つめあい、泰明は彩子の肩に手を置き抱きしめ口づけをしようとすると表で人の気配がする。二人は離れ、顔を赤らめる。


「あの・・・泰明様、お取り込み中申し訳ありませんが、御当主様がご帰宅され、こちらに・・・。後ほどにいたしましょうか?」
「いや、いい。伯父上もご存知の方だから・・・。」


泰明の女房が下がっていくと、彩子はさらに泰明から離れ、泰明は彩子に几帳を立てかける。
すると典薬頭が入ってきて言う。


「お客様らしいね・・・。良かったのかなお邪魔して・・・。」
「いえ、伯父上、彩子様がお見舞いに・・・。」


典薬頭は驚いて几帳の前に座り、お辞儀をする。


「これはこれは大和女御様。このようなところへ来られるとは・・・。」
「お久しぶりですね、典薬頭殿。泰明から色々あなたのことを伺っております。今日二条院に移ったので、泰明のお見舞いに・・・。帝の母宮様も、まだ出仕していないと帝から聞かれてたいそう心配されていますの。母宮様も先月の件でたいそう心配されて・・・。」
「右大臣家の和子女王様までご心配を?なんとまあ・・・。女御様、今から泰明の治療をいたしたいと参りましたが・・・・後にいたしましょうか・・・。」


泰明は彩子との間を邪魔されたように感じ、むくれて言う。


「伯父上、また後にしてください。今大事な話を・・・。」
「そうだな、邪魔して悪かった。女御様、ごゆっくり・・・。」


典薬頭はさっさと部屋を後にすると、泰明は溜め息をつく。彩子は立ち上がっていう。


「もう帰るわ・・・。明日は中宮様が二条院にお入りになるから、お迎えの準備をしないと・・・。私はなんだかんだいっても側室だからきちんとお迎えしないとね・・・。あと今日は久しぶりに姫宮、若宮とゆっくり過ごす約束をしていたし・・・。」
「できるものなら、彩子様のお子様も引き取りたいくらいです・・・。しかし帝がお許しにはならないでしょうね・・・。」
「ええ、姫宮は裳着を済ましたら伊勢斎宮になるし、若宮は元服後、源氏を賜って臣籍に下ることになっているのよ。帝が譲位されて、私があなたのもとに嫁ぐまで、あの二人の宮を可愛がってあげないと・・・。」
「彩子様、あの宮にはもう会われないのですか・・・。可愛くないのでしょうか・・・。」


彩子は振り返って微笑みながら言う。


「可愛くないわけじゃないわ・・・。ただあの方に似すぎて、あの時のことを思い出してしまうから・・・。本当は会いたいわ。でも会えないのよ。生まれて顔を見た時そう決めたの・・・・もうあの子は私の子ではないと・・・。帝の子として生まれたけれど、きっと大きくなると疑問に思うときがくるはずよ。そのとき私はあの子になんていえばいいの?もうそれならば私はもういないことにすればいいのよ・・・。泰明は侍医としてずっと次期帝やあの子のもとにいるのでしょう・・・。決して父があの方であることは漏らさないで・・・。帝のお許しが無い限り・・・。私はあなたを通じてあの子の成長を感じるだけで満足だから・・・・。いいわね泰明・・・。じゃあ帰るね・・・。」
「彩子様・・・。」
「あ、言い忘れていたわ!早くその怪我を治しなさい!私がお嫁に来るまでに治さないと、きちんと禄がもらえなくなるわよ。じゃあね。」


泰明は彩子を見送ると、溜め息をついて、すのこ縁に座り込む。


もう日が傾きかけ、とても綺麗な禁色の色をした夕焼けが、泰明を包み込んでいた。



《作者からの一言》

彩子を賊から守って腕に重症を負った泰明。もちろんこれは医師として致命傷となります。利き手ではないので他の者たちに悟られないように生きていくのです。


禁色の色の夕焼けって見た事がありますか?とてもきれいな柿色というかオレンジ色というか茶色の混じった色なのです。夏に見られます。今年の夏にとてもきれいな夕焼けを見てきっとこれが禁色なのかなって感動しましたね^^;別に季節をあらわしただけでこれがどういうことはありません。

第120章 東宮の結婚と隠し子

 暖かい春が訪れ、十八歳となった東宮はいよいよ結婚することになった。東宮妃に選ばれたのは左大臣の孫である姫君と、東宮の叔母に当たるのだが、同じ歳の右大臣家安子姫と決まった。もちろん東宮にとってあまり乗り気ではない縁談であったが、この2大勢力の結婚話に世の中は驚き、騒ぎ立てる。


特に安子姫の場合は母方の父違いの兄が東宮の父である帝であり、父方の腹違いの姉が東宮の母に当たる。血筋的にはこの上ない姫君なのだが、このような複雑な関係に周りの者達は疑問を覚える。


(きっと形だけの入内に違いない)


と周りの者達は噂する。はじめ帝自身もこの縁談に疑問を覚えたが、彩子と泰明の件での色々迷惑をかけたからか、疑問に思いながらも、右大臣の申し出を受け入れた。もちろん帝の母であり、安子の母そして東宮の祖母である和子女王はこの縁談にとても反対し、他の縁談相手を探すようにと右大臣の申し入れたのだが、頑として縁談を進め、和子女王は右大臣にある条件を出して承諾した。その条件は今住んでいる二条院を帝譲位の後は帝に譲り渡すことである。もともとこの二条院は和子女王出身の宮家の邸であり、帝の祖父もこの邸を帝である雅和に相続させるつもりでいたからである。


今、この邸には彩子が産んだ内親王と、親王が住んでいる。しかし彩子は和気泰明に譲るつもりでいるので、この子達は彩子と住む事ができない。それどころか、中宮である鈴華がこの邸に住むことになる。譲位後は亡き皇后綾乃に贈皇太后の位を与えることになっている。譲位のことについてはまだ正式には決まっておらず、帝は東宮の婚儀が終わり落ち着いてからと考えている。


「雅和様、私の意向も聞いてください。」
「何、鈴華?」
「篤子はもう裳着が終わりいいのですが、十三の三の宮、四の宮はまだ元服していません。譲位されるならあの二人を元服させてからにしてください。そして帝の親王として見合うくらいをお授けください。」
「んん・・・。では年明けに二人の元服を許そう。見合う位と言われてもね・・・。今は埋まっているのですよ。私としてはあの二人に氏を与えようと思っているのだけれど・・・。」


鈴華は納得をしていない様子で藤壺に戻っていく。


 まずは左大臣家の姫が先に入内する。左大臣家の姫は東宮よりも二歳年下である。特にこれといって美しい姫ではないが、摂関家嫡流であることと、多産系である事を理由に帝が決めたのである。そしてひと月おいて、右大臣家の安子姫が入内する。この姫は右大臣に似ており、東宮の母である亡き皇后に面影が似ているので、東宮としてはこの安子を側に置きたがった。この二人の東宮妃の御在所は後宮の隅とされた。


「なに?東宮が桐壺の東宮女御を東宮御所に移したいと?」
「はい・・・。」


春宮坊大夫である源博雅が帝に東宮の意向を申し上げた。


「麗景殿の東宮女御を移すのならまだしも・・・。東宮は安子ばかり寵愛している。安子は私や博雅、そして亡き皇后綾乃の妹だぞ。私の大和女御ほど生き写しではないが、安子は東宮の母に似ている。博雅には申し訳ないが、土御門の東宮女御にも通うように言って欲しい・・・。私の立場もあるのだから・・・。婚礼から数回しか通っていないと今日土御門殿に言われたよ。まあ、母恋しさに母に似た安子を寵愛するのは構わないが・・・。倫理的にね・・・。あれもわがままに育てすぎたのかな・・・。どう思う博雅。」
「さあ・・・。いかがなものでしょう。」


譲位のことといい、鈴華の産んだ親王たちのことといい、そしてこの東宮のことといい、帝の悩みは尽きず、ついには悩み悩みすぎて、体調を崩してしまった。帝は東宮侍医である泰明を指名して治療にあたらせる。もちろん治療だけではなく、東宮のことで相談したい事があるからである。東宮は叔父である大夫の博雅の言うことさえ聞かず、この泰明のことは何とか聞くのである。


「泰明、東宮と私の妹である東宮女御について医学的にどう思う?」
「宋でもこのようなことは良くないとされていました。ただの叔母ならよろしいのですが、東宮様たちの場合は・・・。たぶんお子様は見込めないでしょう。万が一生まれたとしても、血が濃すぎますので色々不都合が・・・。宋国でも書物に色々と書かれていましたが・・・・。」
「そう・・・。泰明からも東宮に土御門の姫に通うように言ってはくれないか・・・。」
「言っては見ますが、最近の東宮様は安子様に執着され過ぎでございます。私の意見を受け入れていただけるかどうか・・・。」


帝と泰明は治療中小さな声で相談をする。


「泰明、ここだけの話だよ。お前が宋国にいるときに東宮はこういったのです。大和女御を譲ってはくれないかとね・・・。はじめは冗談かと思ったが・・・。歴代の帝にこのようなことはなかったわけではない・・・・。もちろん厳しく叱った。泰明は心配しなくていい。女御を東宮に与えるつもりはない。安心しなさい。譲位ももう考えているのだから・・・。」


帝は治療中の泰明の耳元で言った。


 泰明は帝に言われたとおり、東宮の朝の診察のときに言ってみることにした。


「東宮様、あの、私の身分でこのようなことを言うのはおかしなことなのですが、わたくしは帝より東宮家の健康管理なども命じられておりますので、言わせていただきます。」
「何?」
「お子様に関することでございます。」


東宮はうっとうしい顔をして言う。


「泰明も大夫のようなことを言うのか?安子ばかりではなく、土御門の姫もと・・・。わかっているよ。」
「安子様をご寵愛されるのは構わないのですが、医学上安子様との間のお子様はお諦めください。宋国で実際に見てきたこと、書物で読んだことを検討して申し上げております。特に安子様はお父上、お母上どちらとも血縁関係にあります。それも血の繋がりが濃い妹君。帝も東宮様のお子様を大変楽しみにされております。また東宮というお立場。親王様がお生まれあそばさないと・・・。難しいことを言って申し訳ありません。私はこれで・・・。」
「それは本当なのか?安子との間には子が出来ないと?」
「できないわけではありませんが、五体満足な御子が出来ない例がたくさんございます。まあそれ以前に受胎しない例のほうが多いのですが・・・。私にはこれ以上のことは差し控えさせていただきます。では・・・。」
「わかった・・・。考えておくけれど、安子以外は考えられないから・・・。」


泰明は東宮に頭を下げて退出する。泰明は帝の診療のついでに東宮の返事を伝えると、溜め息をついて何も話さなくなった。きっと思ったような返事がなかったことからであろうか・・・。


東宮は婚儀の後からまったくというように殿上してこない。なぜなら、殿上するたび父である帝や土御門左大臣までも口うるさくするようになったからである。億劫になって泰明が殿上を誘っても行かないようになってしまったのである。宮中儀礼のときは来るが帝と目をあわそうともしない。東宮の母代わりとして接してきた彩子は心配になって、帝に無断で東宮御所に訪れ東宮と直接話そうとした。


「何?父上の女御様がこちらに?いいよ、東の部屋に通して。」


東宮は女官たちに几帳や御簾の準備をさせると、人払いをし、彩子を招き入れる。


「よくいらっしゃいました大和女御様。」


東宮は微笑むと、彩子を几帳の裏に通す。


「先触れもなく、そしてこのような格好で申し訳ありません。」
「いえ、大和女御様でしたらいつでも大歓迎です。格好など気になさらずに・・・今日は何か?」


彩子は夏の装いで、袿を上に単を重ね、打袴をはき、下に白の小袖をつけている。本来であれば正装をしないといけないのであるが、お忍びでの東宮御所への訪問なので、常着の夏の装いでやってきたのだ。


「お話がございます。私は父上様であられる帝より母代わりを仰せつかっております。この私の言葉を、亡き母君であられる皇后様のお言葉と思い、お考えくださいますよう、お願い申し上げます。」
「うん。だからなんですか?」
「東宮女御安子様のことでございます。」
「泰明から聞いたよ。安子との間には子供が出来ないという・・・。だから次期東宮を立てるために土御門の東宮女御の相手をするようにってことでしょう。」
「お分かりでしたら話が早いですね・・・。皇子が生まれる間だけでも、お相手を・・・。」


彩子は微笑むと、東宮は何か思いついたようで彩子に言う。


「彩子様はお爺様の養女で、お爺様と同じ源の血筋ですよね。」
「はいそうですが・・・。」
「安子と同じ叔母上になりますよね。」
「はい。」
「そして彩子様は亡き母の生き写しだ。」
「それが何か?」


東宮は彩子の側にやってきて、驚くべき言葉を言う。


「安子に子供ができないというのでしたら、あなたが私の子供を産んでください。」


そういうと、東宮は彩子を押し倒し、無理やり口付けをする。やはり東宮も男であるので、彩子が抵抗しても無駄だった。そして口を塞がれ、助けを求める事が出来ずに、東宮を受け入れてしまった。

東宮は事を済ますと、さっさと直衣を調えて、東宮御在所に戻って行った。彩子はそのままの姿で泣き崩れ、東宮を受け入れてしまった自分を責める。表では普段開いていない扉が開いているのに泰明は気付き、その部屋に入ると、人の気配がする。


「誰かいるのですか?私は東宮侍医和気泰明と申す者です。いるなら出てきなさい・・・。」


部屋に入ってきたのが泰明だということに気付き、彩子は黙って泰明が彩子のところに来ないことを願う。泰明は気配があるのに返事がないのを不審に思い、気配のするほうへ歩いていくと、確かに几帳の裏で人影が見えた。


「泰明!来ないで!お願い・・・見ないで・・・。」


泰明は彩子の声に気づき、几帳をどけると、単のみを被った彩子が座っていた。


「彩子様・・・これは?」
「お願い見ないで・・・お願いだから・・・。」


泰明は周りに散らばっている彩子の衣を拾い集めて彩子に渡すと、彩子は泣きながら泰明から受け取った衣を着る。しかし涙が止まらず、几帳の裏で泣き続ける。


「どうしたのですか?このようなところでこのような姿・・・。」
「東宮様に・・・東宮様にいきなり・・・。」
「お怪我はありませんか?いたいところは?」
「・・・・。」
「ひとまず、御所を離れお帰りください。帝に知られたら・・・。はやく!」


彩子は泣きながら急いで御所を後にする。泰明は部屋を片付けると、東宮の御在所に向かう。


東宮は何もなかったようにいつも通りの態度で泰明に接する。しかし明らかに東宮の頬には引っかき傷があり、相当深い。出血は治まっているものの尋常ではない。


「東宮様、この頬の傷は?」
「庭に迷い込んだ猫にやられた。」
「猫にしては大きな傷ですが?東宮様、帝には内密にいたしますので、本当のことを・・・。」


泰明は人払いをして東宮に近づくと、東宮は小さな声で本当のことを言う。


「実は父上の女御を無理やり・・・。そのとき引っかかれた。これでいいだろう。泰明は私の味方だろ。父上には言うなよ。」
「しかし・・・あのお方は帝のご寵愛の・・・。」
「わかっているとも。そして私の初恋の人。安子に子供ができないのなら、あの方に産んでもらおうと思ったのだ。うまくいけばだけど・・・。」
「東宮様、帝やあの方の名誉もございますので帝にはご報告はいたしませんが、せめてあのようなことをされたのですからあの方にお詫びを・・・。」
「わかった。あの時はどうにかしていたよ。後でおわびの文を届けさせるよ。これでいい?」
「はい。」


大事な彩子をああいう様にして泣かせた東宮を泰明は怨んだ。しかし自分の気持ちを押し殺した。


(万が一、彩子様が懐妊されたら・・・・とんでもないことに・・・。帝は床に伏しておられるのに・・・。)


 泰明の不安は的中し、あの事があってから数ヵ月後、彩子の懐妊が発覚した。もちろん東宮の子を懐妊した彩子は嘆き悲しみ、そしてつわりのひどさから床に伏してしまった。彩子はこの懐妊を帝には報告せず、どうしようか悩む。東宮との経緯を彩子に打ち明けられた小宰相はどうすればいいのかと悩んだ。


(何とか帝のお子として辻褄が合わないかしら・・・。最近は帝のお渡りがあっても一緒にお休みになるだけだったし・・・・ちょうどあの頃は帝が寝込んでおられた頃・・・。ああ、私は自害しないといけないわね・・・。)


彩子も悩み悩んで不謹慎だが、お腹の子が流れてくれないかと思う。しかしどこからか懐妊情報が漏れ、彩子の懐妊の噂が流れてくると、急いで帝は泰明を呼び、人払いをすると真意を問いただす。


「もしかして泰明・・・・。」
「いえ私ではありません。しかし・・・。ありえるといえばありえるような人物でございます。」
「そうだよ・・・あれきり会わせてないからね・・・。で、だれ!」
「以前誰かが女御様を譲って欲しいといわれたのを覚えておられますか?」


帝は決してないと思われたものの名前が浮かび、泰明に言う。


「もしかして・・・・康仁か?」


泰明はうなずくと、ことの経緯を包み隠さず帝に申し上げた。帝は驚いて、黙り込んだ。考え事をすると、彩子の懐妊が本当であるか確かめるため、泰明を連れて承香殿に入る。そしてひどいつわりのため、御帳台の中で横になっている彩子を泰明に診察をさせる。泰明はる彩子の前で、まず彩子に診察することを告げ、挨拶をし頭を下げると、彩子の御帳台に入る。診察のため、中に入り几帳と御簾にて目隠しをされる。泰明は脈などを診る。


「女御様、お腹の触診を・・・失礼いたします。」


小袖の上からお腹を触診し、足にむくみなども診た。貧血がないかと確かめようと彩子の頬を触ると、彩子は泰明の首に両手を回し、泣きながら泰明に小さな声で言う。


「お腹の御子があなたの子であれば・・・もう少し気が楽なのに・・・。」
「彩子様・・・そのようなことを言っては・・・。帝のお耳に・・・。つわりがお辛いようでしたら、今から針を打ちましょう。まったくはなくならないのですが、紛らわす程度には・・・。」


泰明はつわりが少しでも楽になるように針を打つ。彩子は少し楽になったようで、放心状態で泰明の顔を見つめる。


「女御様、これで終わらせていただきます。」


泰明は挨拶を済ますと御帳台を出て帝の前に座り頭を下げる。


「どうだった。懐妊しているか?」
「はい確かに・・・。春ごろのご予定でございます。触診させていただきました。お腹のほうも順調に大きくなられております。来月あたりに安定期になられると・・・。つわりがひどいようでしたので紛らわす程度でしたが、針を打ちました。これで少しお休みになられるでしょう。」
「順調なのか?」
「はい。女御様は流産されやすい体質と聞いておりましたが、そのような兆候もなく、順調でございます。」
「んん。この懐妊は内密にしないといけない。女御の懐妊についてはあなたに任せる。いいね。今から東宮御所に行く。支度を・・・。」
「御意。」


帝は泰明を残し、ごく近臣の者のみを連れて東宮御所を訪れる。突然の帝の訪問に驚き、何事かと思う。帝は寝殿の一番奥に通されると、東宮を前に座らせ人払いをする。


「右大臣も前に来ないか、あなたにも聞いていただきたいこと。」


右大臣は東宮の少し後ろに座り、帝の話を聞く。


「康仁、もっと前に来なさい。」
「はい・・・何か?」


帝は今までの表情とは一変し、まずらしく苛立った顔でいう。


「康仁、わが妃大和女御が懐妊した。」


右大臣は前に乗り出し言う。


「それはそれは喜ばしいこと。帝のご寵愛を一身に受けておられるからでしょう。」
「右大臣殿、喜ばしいことではない。私はここ半年女御の肌に触れてはいない。ということはどういうことか・・・わかっているね、康仁。」


東宮と右大臣は青ざめる。


「どういうことですか帝・・・。誰か御殿に・・・。」
「いや、それはない。小宰相がいるからね。この数ヶ月に小宰相が付かなかった事が一度だけある。それは彩子が私の許可なく東宮御所に訪れて康仁に桐壺東宮女御について進言した日のみ。覚えがないとは言わせないよ。康仁。」
「はい・・・。わかっております。その日一度のみ父上の女御の肌に・・・。」


右大臣は青ざめ東宮にいう。


「東宮、これはどういうことなのかわかりますか?私は東宮の教育係としてそのようなことをするような教育は・・・。廃太子は免れませんよ。」
「まあ早まることはないよ、右大臣。今はもう彩子に執着はしていない。だからといって東宮に譲るつもりはない。もう譲る相手を決めている。しかし東宮の子を懐妊した以上、この子をどう扱うかが問題である。ここにくるまでずっと考えていたのだが、来年春彩子が子を産んだら、私は東宮に譲位をする。もし子が皇子であれば、次期東宮として立てよ。もちろん私の子として立太弟せよ。もちろん中宮を始め、摂関家の者達は異を唱えるであろう。これは私の意向である。いいですか?右大臣殿。そして東宮。あなたの子として認めてやりたいが立場が悪くなるのでね・・・。妹安子の子として内密に処理してもいいのだが、彩子の懐妊は必ずどこからか漏れる。中宮にはこっそりとこのことを伝えてはおくが・・・・。」


東宮は帝に対してお詫びをし、帝が下がるまで頭を下げ続け、帝の心遣いに感謝する。


 正式に彩子の懐妊が帝の子として発表されて、彩子は少し気分的に楽になったようである。彩子は東宮の再三の面会にも断り続け、あまり人を近づけないようになった。つわりは治まりつつあるものの、精神的に不安定な面があり、小宰相が目を離す事が出来ない状態である。今年の新嘗祭は帝にとって最後の新嘗祭となる。


「帝、わたくしも最後の新嘗祭に参加させてください。」
「彩子は無理しなくていいのですよ。今日も倒れたと小宰相から聞いた。最近必ず一度は倒れる。」


彩子は残念そうな顔をして、承香殿に戻っていく。その後姿を見て、帝はなんともいえない顔をして溜め息をつく。


「鈴華、彩子は相当精神的に辛いようだね・・・。とても元気で明るい姫だったが・・・。」
「女としてああいうことになると人が変わると聞きます。私も彩子様のような状況でしたら・・・・。本当にお辛そうで・・・。」


鈴華は彩子の懐妊発表後に内密に真実を知らされており、次期東宮の件も知らされた。もちろん彩子に同情し、もし皇子が生まれたときの場合のことを承諾した。


「毎日自害してしまわないかと私は心配するのですよ。あと半年何事もなければいいのだが・・・・。」
「小宰相も大変ね・・・。寝ずに側に付き添っているのだから・・・。」
「侍医の和気泰明も交代でつけているから安心だが・・・。」
「あの東宮侍医の?」
「ああ、色々あるのですよ・・・。あの二人は・・・。もともと幼馴染だから、彩子は和気が側にいることで安心するのでしょう。和気が側にいるときは決して取り乱したりはしないし、倒れることもない。あの者が一番信頼をおける医師の一人ですよ。何人か女医もいるが、彩子は和気以外を側に近づかせないし・・・。和気も都一優秀な医師だ。近いうちには典薬頭いやそれ以上になるだろうね・・・。和気は医術だけではない。様々なことを習得してきたよ・・・宋国で・・・。鈴華のお父上の立場を危うくするような存在かもしれません・・・。」


鈴華は改まって帝に言う。


「私は帝のもとに入内して、十六年・・・。摂関家の姫として何不自由のない生活をさせていただき、ご寵愛を受け、雅和様の御子を二男一女頂きました。でもとてもうらやましかった・・・・彩子様が・・・。この宮中にいても天真爛漫で、ご寵愛を一身に受けられた。あのように可愛らしい彩子様がうらやましかった・・・。本当にいつも前向きだったあの性格が・・・。でも今は・・・当時の面影もない・・・。私は本当に同情してしまいました・・・。」
「鈴華も変わったよね・・・。彩子が入内してきたとき色々あったのに・・・。丸くなったよね・・・。歳?」
「まあ、雅和様も、御髪にちらほらと白いものが・・・。お優しすぎる雅和様は相変わらずですけど・・・。」
「もう三十五です。まもなく三十六になる。いい年だ・・・。鈴華も同じ歳なのだから、一緒だよ・・・。さあ、明日から色々儀礼や行事がてんこ盛りだ。」
「そうですわね・・・明日は御帳台の試みの日・・・今年の舞姫はいかがでしょうね・・・。」
「毎年鈴華も彩子も舞姫が楽しみだったものな。鈴華も彩子も以前舞姫だったし・・・。東宮が気に入る姫でもいるかな・・・。」
「そうなるといいですわね・・・。」


二人は微笑みながら、昔話をする。


次の日、登華殿で行われる五節舞に、彩子が現れる。帝は泰明を呼びいう。


「泰明、彩子は大丈夫か?」
「どうでしょう・・・どうしても観たいと言われ、やむを得ずこちらに・・・。私が影で控えておりますので、何かあればお呼びください。」
「今日は東宮や東宮女御たちもこちらに来る予定だ・・・。何もなければいいが・・・。頼んだよ泰明。」
「御意・・・。」


彩子は中宮鈴華の横に座り、鈴華と挨拶を交わす。


「彩子様、お体のほうは大丈夫ですか?無理をされては・・・。」
「いえ、今日くらいは参加をしたくて・・・。明日からはゆっくりとさせていただきますので・・・ご心配ありがとうございます。」


やはり少し気分が優れないような顔色をしているので、鈴華や帝は心配した。すると東宮たちが現れ、帝や帝の妃達の前で挨拶をする。


「父上、お招き頂きまして大変嬉しく思います。」
「うむ・・・。」
「中宮様もご機嫌麗しく、そして女御様は御懐妊とお伺いしました。お祝い申し上げます。」


彩子は会いたくなかった東宮の顔を見ると、急に気を失い倒れてしまった。


「彩子様!」
「和気はいないか!彩子が倒れた!早く御殿へ・・・。」


泰明は几帳の陰から現れ、彩子の前に座ると、頭を下げ彩子を抱き上げ退出する。会場にいるものは驚き、慌てた。もちろん彩子のお腹の子の父である東宮も慌てて彩子を追いかけようとするが、帝が止める。


「康仁!女御を心配してくれてありがとう。あれは、毎日最低一度は倒れるのでね・・・。泰明が側にいないといけないのだよ。元気がとりえの妃だったが今回の懐妊で体調を崩したのだ・・・。心配させてすまなかったね・・・。さあはじめてくれ。」


一方承香殿の御帳台に彩子を運んだ泰明は診察を始める。気を失ったこと以外は何とか異常はなく、気が付くまで側に座って看病をする。いつも診察のときは二人の間柄を知っている小宰相の配慮で人払いをする。彩子は気が付いたようで、泰明は彩子に微笑むと、彩子は起き上がって泰明抱きつく。


「彩子様・・・。東宮様がこられるのを知っていたら、お止めすればよかったですね・・・。」
「・・・。泰明、このままでいさせてちょうだい・・・。」


彩子は泰明の肩にもたれかかって、目を閉じ言う。


「泰明、帝に里下がりの許可をもらってくれないかしら・・・。できれば大和がいいのだけれど、どこか静かなところで・・・。」
「そうですね・・・右大臣様とご相談の上・・・。」
「ありがとう泰明・・・感謝するわね・・・。お腹の子さえいなければ・・・・このような苦しい思いなどしなくても・・・。」


すると泰明は彩子にくちづけをする。


「もうそのようなことは言わないでください・・・。私が側にいます。約束してくださいますか?」


彩子はうなずくと、二人は再びくちづけを交わす。


 彩子の願い通り大和への里下がりの許可が下りる。彩子は実家に戻り、休養をする。大和守はお腹の子の父が東宮であることを知らないので、彩子の里下がりにとても喜ぶ。彩子も東宮が近くにいないということで、気分が晴れるのか、倒れるということはなくなった。もちろん泰明も蘭を連れての帰郷をし、明日香と交代で、彩子の診察をする。


年を越し、だんだんと春が近づいてきた頃、桜の花のつぼみがほころび始める。彩子のお腹も大きくなりいつ生まれてもいいようになったので、大和守は出産の準備に取り掛かる。


「彩子、皇子ならいいね・・・。」


彩子はその言葉に動揺しつつも、父である大和守に微笑む。都では譲位の準備が整い始めた頃、彩子は東宮にそっくりな皇子を産んだ。その知らせはすぐに帝に伝えられ、東宮にも伝えられた。そして帝はすぐに譲位の宣言をした。帝は皇子の名前を「良仁(ながひと)」と名づけ、自分の子として親王宣旨をし、次期東宮として扱うように群臣に伝えたのである。


乳母は彩子の五つ年下の妹が務めることになった。やはり彩子はこの親王を抱こうともせず、顔も見ないのである。


良仁は生後半月が過ぎ、都に戻ることになった。彩子は良仁と帰郷することを拒んだので、泰明は彩子に会い、説得をする。


「彩子様、明日都よりお迎えの使者が参ります。彩子様もお帰りになられないと帝がご心配しなられますし、半月後に控えた譲位の儀礼にご出席できなくなります。あと良仁様にもご面会を・・・。もうこれから会う機会がなくなりますよ・・・。お願いです、良仁親王様をお抱きください。いくらお父上様があの方だとしても、お母上様は彩子様には違いないのですから・・・。彩子様・・・。」
「いやなものはいや!良仁はあの方にそっくりなの・・・。あの時のことを思い出してしまうのよ・・・。」


彩子は泰明に抱きつき、泣くのである。泰明は困った顔をして、彩子を抱きしめる。


 次の日、右大臣家の使者がやってきて、大和守に面会する。右大臣の代理として春宮大夫源博雅が彩子に会う。


「女御様に置かれましてはご機嫌麗しく・・・。本日はご帰京を迎え・・・・。」
「大夫殿、私は後から戻ります。先に親王だけお帰りあそばして。」
「は?」
「これを帝にお渡しください。」


彩子は博雅に帝にあてた文を託し、立ち上がって寝殿を退出する。すると乳母に抱かれた親王が入ってきて、博雅に親王を見せる。


「帝の七の宮、良仁親王様でございます。わたくしは親王様の乳母を務めさせていただくことになりました女御様の妹源幸子と申します。」


博雅は親王の顔を見て東宮の顔に瓜二つであることに気が付く。しかし気のせいであろうと、あまり気に止めなかった。出立の準備が整うと、博雅は親王と乳母のみを乗せて大和を出る。国境まで大和守と泰明が見送る。


「博雅様、わたくしも大和に残り、女御様のお側に控えております。必ず女御様を説得し、帝の譲位の儀礼までには帰京を・・・。そのように帝にお伝えください。」
「わかった。典薬寮にもそのように伝えておく。早めにご帰京を・・・。」
「かしこまりました。」


右大臣家の車が、見えなくなるまで見送ると、泰明は溜め息をついて戻っていく。


「泰明、どうして彩子は親王を拒否するのか・・・。あのような彩子を見た事がない・・・。」
「実は・・・彩子さまのお父上ですので申し上げますが、あの親王は帝のお子ではありません。帝の皇孫殿下にあられます。」
「何?どういうこと?皇孫殿下とは?」
「色々ありまして詳しくは申し上げられないのですが、あの親王様の父君は東宮康仁様。このことは内密にせよとの仰せです。譲位の後、あの親王様は康仁親王様の弟として立太弟することになっております。ですので彩子様は親王様がお生まれになってから一度もお抱きにもなられず、面会もされないのです。私も説得はいたしましたが・・・・。あれほど東宮様に似ておられると・・・。」


大和守は黙り込んで邸に戻る。


 一方都では、良仁親王のみの帰京に帝は驚き、博雅が彩子からの文を帝に渡す。帝は彩子の文を見ると、黙り込んで溜め息をつく。


「帝、良仁様をご覧になられますか?」
「そうだね・・・。東宮も呼んできなさい。」


東宮は安子のいる桐壷で、帝からのお呼びを待っていた。


「東宮様、帝より殿上のご命令が・・・。いかがいたしましょうか?」
「わかった・・・。大和女御様はご帰京か?」
「いえ、新宮様のみのご帰京です。」
「そう・・・。安子、待っていてくれないか・・・。」
「はい・・・東宮様。」


東宮は博雅に案内されながら、清涼殿に案内する。清涼殿ではすでに小宰相と乳母に連れられた良仁が帝に抱かれて待っていた。


「本当になんと可愛い親王だろうか・・・。(これが私の子であれば・・・。)」


帝は自分の孫である親王をあやしながら微笑んでいた。そこへ東宮が御前にやってきた。


「康仁か、さあ入りなさい。」


東宮は帝に言われ帝の前に座ると、頭を深々と下げる。


「さあ抱きなさい。弟宮の良仁である。本当にお前に似て可愛らしい宮だ。」


東宮は、本当は自分の皇子である良仁を恐々抱きしみじみと見つめる。


「きっと彩子がいれば抱くことも許さなかったであろうな・・・。この宮は次期東宮にするから、兄であるお前がこの宮を守るよう。そして立派な帝になるように良い環境を与えよ。決して三の宮、四の宮にはこの宮の東宮の座を譲らぬよう。わかったね・・・。」
「はい・・・。」
「もう一度言っておく。この宮は私の七の宮だ。皇位継承順位を越えてこの宮を次期東宮にすることで、摂関家などから異を唱えるものも多々あろう。次期帝である康仁がそのものの異を唱えさせぬよう、頼んだよ。これで私も安心して康仁に譲位できる。私は二条院にいるから、何かあれば私に相談しなさい。私はいくらでも口を出すよ。」


帝は微笑み東宮と良仁を見つめる。東宮は良仁の頬を触りながら自分の子であることを実感し、微笑んだ。



《作者からの一言》

東宮は寵愛の安子が血縁的に子が出来ないと知らされ、ショックのあまり母に瓜二つであり、初恋の姫君で父君の寵愛している女御彩子を無理やり懐妊させてしまう。そして東宮の思惑通り皇子が生まれました。

やはり彩子にとって最悪でしょう・・・。そして暴行されたあとの姿を一番愛する泰明にみられ相当なショックに違いありません。まあ泰明に見つかったからこそ、内密に事が運ばれ、新宮は当分の間、東宮の隠し子として育つのです。

しかしこの宮が生まれたことにより、さらに不幸が訪れるのですが・・・・。

やっと出た新刊!

なんて素敵にジャパネスク人妻編(4) なんて素敵にジャパネスク人妻編(4)


青春時代を思い出すシリーズものの漫画版続編が連載されています。

その本の第4弾。

月刊の雑誌を買わない私がこの最新版の出るのをどれだけ心待ちにしていたことか・・・・。



都いちのお転婆姫が出世頭の右近衛少将藤原高彬といろんな出来事を乗り越え、結ばれたあとの話。

やはりどちらとも摂関家の姫と若君との結婚生活なので、色々政治的な事が絡みややこしいのですけれど、なんだか陰のある鷹男帝にそっくりなの叔父帥の宮が裏主人公として絡んできます。

シリアスっぽいのですが、そうでもないところが、このジャパネスクのいいところではないでしょうか?

この巻までは結構だらだらして面白くなかったのですが、帥の宮が絡んできたところから面白くなってきました。

今度の最新刊は2月くらいかな・・・。

待ち遠しいですね^^


高校時代に平安物を書ききっかけになった作品の一部ですけれど・・・。

ファンサイトの第2創作も面白いです・・・。

ほんとに一気に読んでしまったな・・・・。



第119章 帝の配慮

 年が明け、泰明は殿上に必要な位、従五位下に叙される。官職では侍医であるので本来であれば正六位下相当なのだけれども、帝や東宮の信頼が厚く、毎日のように殿上をするようになったので、殿上に必要な最低位階である従五位下に叙された。これで泰明は六位以下の地下人から殿上を正式に許された公達として扱われることになったのである。束帯の色も緑から緋色へと変更になる。これでもう泰明のことを馬鹿にする者はいなくなった。また、浮いた話もなく、まじめで一生懸命な性格はやはり女官たちどころか都中の姫達の憧れとなる。殿上人となったので、もう車での出仕を許可されるのだが、なんとなく落ち着かないのか、たいていは馬に乗っての出仕である。宮中の憧れの的である泰明は、もちろん承香殿の女官たちも例外ではなく、ほぼ毎日のように清涼殿へ殿上する姿が見えるのか、泰明が東宮とともに殿上する時間を狙って、すのこ縁に陣取り、東宮を御簾の外で待つ泰明の姿を見て、うっとりするのである。


「女御様、年をひとつお取りになられた東宮侍医様はなんて素敵なこと・・・。」
「東宮侍医様は女御様の幼馴染の君であられるとはうらやましいことでございますね・・・。」
「東宮侍医をする傍ら、東宮様に色々ご指南されているとか・・・。ですから毎日のように東宮様は東宮侍医様をお側につけてこうして殿上されるのですね・・・。」


このような話を毎日のようにするので、小宰相は女官たちに言う。


「あなた方ははしたないですよ。帝のご寵愛を一身にお受けになられている女御様の女官であるあなた方が、そのようなところで騒いではいけません。あなた方はそれでも右大臣家縁者ですか?右大臣様の恥にもなりますからもうおやめなさい。」


小宰相の一言に女官たちは部屋の局に戻っていく。彩子は気にならないといえば嘘になる。御簾越しに遠目で泰明の姿を見ると女官たちにわからないように扇で隠しながら顔を赤らめる。泰明も度々風向きによって、彩子の香の匂いがするのに気付くと、帝や他の者たちに悟られないように胸をときめかせる。稀ではあるが、几帳や御簾の隙間から彩子の長く黒い美しい髪や、品のある色合わせをした衣の裾が見える事がある。泰明は無意識にじっと見つめ、承香殿の女官たちに勘違いされる事があった。


この日は春のような陽気であったので珍しく彩子が表近くに座って何か書き物をしていた。もちろん几帳を立てかけているのではあるが、時折吹く強い温かい風に、几帳がめくれ、彩子の横顔が見えた。年をひとつとり、二十五歳となった彩子は成長しきって、可愛らしさが抜け、美しい姫君へとなっていた。彩子は清涼殿のすのこ縁から見えていることに気付かず、そのまま書き物を続ける。小宰相は清涼殿からの視線を感じ、御簾を下げ格子を締める。


「泰明殿、いつも承香殿のほうを何気に眺めているが、気になる女官でもいるのですか?」
「東宮様?もうお済ですか?」


東宮に声をかけられ、驚いた泰明はあたふたして東宮の後をついていく。殿上の間の前に来ると、東宮が言う。


「泰明は今日ここでいいよ。」
「え?お一人で御所にお戻りに?」
「いや、そこの角で春宮大夫の博雅が待っているし、お爺様が後涼殿の一室で話があるから待っていると父上がいっていたのですよ。」
「右大臣様がですか?」
「うん。早く行かないとお爺様が怒ってしまうよ。最近お爺様は歳をとられて気が短くなってこられたからね・・・。」


東宮は微笑んで泰明と別れる。泰明は急いで右大臣の待つ後涼殿の一室に向かい、案内された部屋に入ると、右大臣が座って待っていた。


「申し訳ありません・・・。だいぶんお待ちになられたのでしょうか?」
「いや、近くに来なさい。内密な話であるから・・・。」


泰明は右大臣に言われるまま、右大臣の側に寄り頭を下げる。


「何か?」
「んん、十日後の夕刻以降、予定は入っているか?」
「いえ、特にはありませんが、娘のために宿直がない日は早めに帰るようにしているのですが・・・。」
「娘とは、例の宋国の姫だね・・・。一晩ぐらいは構わんだろう。あなたもそろそろ落ち着いてはいかがなものかと、見合いをしてもらおうと思ってね・・・。あなたの姫にも母は必要だ。もちろんお相手は右大臣家の縁の姫であるが・・・。帝もご承知である。勤めの帰りに五条邸に・・・。どうかな・・・。姫には宿直であるといえばいいのだ。」


泰明は承知して、そのように段取りを組む。


 この日までは宿直を入れず、出来るだけ蘭姫と過ごすようにした。見合い当日、泰明は蘭に言う。


「蘭、今日父様は用事があって遅くなるから、先に寝ておきなさい。待っている必要はないよ。」
「お父様、できるだけ早く帰ってきてね。」


泰明は蘭の頭を撫でて微笑むと、女房に言う。


「出来るだけ早く済ませるつもりだから、蘭をきちんと寝かせておいて欲しい。」
「はいかしこまりました。」
「蘭、行ってくるよ。」


蘭は手を振り泰明をお見送る。泰明は気を引き締めて出仕する。いつもどおりに仕事をこなし、時間が来るとさっさと挨拶をして退出した。今日は珍しく、車できている。車に乗り込むと、見合いの場所となっている右大臣家別邸の五条邸に向かう。五条邸に到着すると、五条邸の者が、ある一室に案内する。


「和気泰明様、こちらで少々お待ちを・・・。よろしければ、先に夕餉などをお召し上がっていただくよう主から聞いております。」
「わかりました。」


五条邸の綺麗な庭を眺めながら、用意された夕餉をつつき、薦められた酒に口をつける。


「これは大和の酒ですね・・・。懐かしい味だ・・・。」
「はい。当家の主が取り寄せている大和の酒でございます。」
「私は大和の出身ですのでこの味は懐かしい・・・。」


などと、側に控えている五条邸の者と会話をしながら暇をつぶす。空が夕焼けから月夜になった頃、表が騒がしくなったことに気が付いた邸の者の数人が表に様子を伺いに行く。


「和気様。お待ちかねの方のご到着でございます。」
「わかりました。」


泰明はどのような姫との見合いなのか緊張しながら、身なりを整えて、見合い相手が現れるのを待つ。


(右大臣様の縁の姫と言うのだから、私の位に見合う源の姫君なのだろう。もしくは承香殿の女官か・・・。)


どのような姫なのか考えながら、見合い相手の姫が入ってくるのを待つ。すると意外な人物の香のにおいが近づいてくる。


(まさか???)


すると数人の侍女を連れた姫が部屋の前のすのこ縁に座ると頭を下げ、泰明に言う。


「遅くなりまして申し訳ありません。帝の書状を持って参りました、今上帝の女御源彩子でございます。」


その姫が顔を上げると泰明と目が合い、二人で驚く。


「彩子様!」
「泰明、どうしてここに?部屋を間違えたのかしら?」
「彩子様どうしてここに?」
「私は帝に頼まれて書状を五条邸にいる客人に届けて欲しいといわれたのよ。普通命婦か勅使にさせるにおかしいと思ったの・・・。泰明はどうしてここに?」
「右大臣様より、この五条邸で見合いをするようにと・・・。」


彩子は侍女に間違っていないか確かめさせると、間違ってはいないとの返事があり、彩子は不思議な顔をしてとりあえず侍女に預けていた文箱を泰明に渡す。泰明はなんだか騙されたような気がしてその文を開け中身を確認すると確かに泰明宛の帝直筆の文が入っていた。


『和気泰明殿 あなたを騙したような形になってすまない。しかし見合いというのは本当のこと。私の意向で彩子の養父である右大臣の許しを得られたので、こうしてこのような見合いをすることにした。もちろん今日のことは内密なことである。今はまだ彩子は私の女御であり、このようなことは許されない。しかし毎日承香殿を眺めるあなたの様子や最近の私に対する態度が違う彩子を見ていると、やはりあなた方を結ばせたほうが泰明殿にとっても彩子にとっても幸せなのではないかと思うのです。今はまだ私の妃であるから公には結ばせてやるわけにはいかないが、もうそろそろ私も譲位をしようと思っているので、譲位後に彩子をあなたに譲ろうと思っています。それまであと何年いや何ヶ月かかるかはわからないが、待っていてくれないだろうか?今日は二人でゆっくり一晩を過ごしなさい。私に気を遣う必要はないから。今まであなたの想い人を独占してしまって悪かったね。 今上帝 雅和』


泰明は信じられない様子でその文を彩子に見せると、彩子も驚き、泰明を見つめる。


「本当にこの文を信じていいのだろうか・・・。もしこれが・・・。」
「これは確かに帝の筆跡です。」


いつの間にか部屋は二人きりとなり見つめあうと、苦笑し、彩子が言う。


「帝の言葉に甘えていいのかな・・・。」


彩子は泰明の抱きつくと、泰明は微笑んで言う。


「帝にこのような機会を頂けて感謝しないといけませんね。この時間を大切に過ごしましょう・・・。」


泰明は彩子の肩に手を回すと、彩子を抱きしめる。


「彩子様、いえ、さや・・・。」


泰明は幼い頃から呼んでいた彩子の呼び方で彩子に声をかけると彩子は微笑んでいう。

 
「何?泰明・・・。」


泰明は微笑む彩子にキスをすると、そのまま彩子の唐衣の帯を解き脱がせる。そして小袖に長袴姿になった彩子を抱き上げ、塗籠まで運び横にさせると、自分も束帯の帯を解き小袖に袴姿となる。


「さや・・・。」
「泰明・・・。」


彩子は目を閉じ、二人は指を絡ませキスを交わすと今までの想いを取り戻すかのように何度も何度も愛し合った。


 朝が訪れようとしているのに泰明は気が付くと、起き上がって着替えをする。彩子は単を頭からかぶり、恥ずかしそうに泰明が着替え終わるのを待つ。


「もういいですよ彩子様・・・。私はもう帰ります。夜が明けるまでに邸に戻らないと、蘭が待っていますので。」


彩子は起き上がると、素肌に単をまとい、恥ずかしそうに泰明を見つめる。泰明は彩子の手をとり、手の甲にキスをするという。


「こういう時は私から彩子様に何かを差し上げなければならないのでしょうけれど、私は帝や他の公達と違って甲斐性がありません。ですので私は彩子様に私の気を差し上げました。医術秘伝の技ではございますが、これくらいしか彩子様に差し上げるものがございません・・・。この技は大変気を消耗するものですが、彩子様のためでしたら構いません。」


泰明は大変疲れた様子で微笑むと、彩子を抱きしめる。そして泰明は彩子に別れの挨拶をすると、彩子のいる部屋を出て、泰明の邸に戻っていった。彩子は小袖を着ると、何もなかったように再び眠りにつく。寝不足であるのにも関わらず、彩子は清々しい気分で朝を迎えた。


気の知れた大和時代からの侍女たちは、彩子に気を使って、日が昇りきった昼前まで起こしには来なかったが、彩子はいつもどおりに起きて小袿を来て脇息にもたれかかって物思いにふけていた。


「まあ、彩子様。もう少しゆっくりお休みになられていてもよろしいのに・・・。夕刻まで後宮に戻らなくてもいいのですよ。」
「ええ、わかっているわ。もう目が覚めてしまったの・・・。」


彩子は苦笑して遅い朝餉を取る。


 一方泰明は珍しく欠勤し、邸で蘭と共にゆっくりと一日を過ごした。まだ泰明の体調は戻ってはいないが、楽しげに蘭をあやす姿を見て、女房たちは微笑む。


「東宮侍医様はきっといい事がおありでしたのね・・・。こちらに養子に入られてから、あのような顔をされたことは一度もなかったのに・・・。」
「帰りが遅いと昨夜は心配しましたが、蘭様がご起床になられる時間までに帰られて安堵したわ・・・。しかし珍しく欠勤されるなんて・・・。」
「いいじゃない。たまにこのような事があっても・・・。」


微笑ましい泰明と蘭の姿を見て、女房たちは清々しい雰囲気で一日を過ごした。


 夕刻、後宮に戻った彩子は帝のもとに現れる。


「どうかしたの彩子。こちらに来るなど珍しい・・・。何?」


帝は何もなかったように書物を読んでいた。


「昨夜・・・。」
「ああ、使いのことだね。ちゃんと文を渡してくれた?」
「はい・・・。帝?」
「んん?」
「何でもありません・・・。昨夜のことは大変感謝しております。」
「何のこと?私は文に使いを頼んだだけだけど?五条邸ではゆっくりできたでしょう。またこのような機会を作ってあげるよ。」


帝は彩子を見つめ微笑むと、再び書物を読み始めた。彩子は帝の心遣いに感謝し深々と頭を下げ承香殿に戻っていった。


「本当に雅和様は心が広すぎますわ・・・。本当によろしいのですか?」
「鈴華、いいのですよ。彩子が幸せになってくれるのなら・・・。彩子は今まで私に尽くしてくれた。このことは内密に頼むよ。特にあなたの父上にはね・・・。」


帝は鈴華を引き寄せ微笑む。


「あとはいつごろ行動に移すかだね・・・。東宮も和気泰明が側についてから、目に見えて体調が良くなって、しっかりしてきたし・・・そろそろ私もゆっくりしようと思う・・・。」


帝は、鈴華に譲位の意向を告げ、苦笑した。


《作者からの一言》

帝は人が良すぎですな^^;もちろん帝自身彩子を手放すの惜しいのですが、泰明が帰京してからというもの彩子の想いは泰明に移っていることを感じ意を決して泰明に譲位後、彩子を譲ることを決めたのです。

もちろん二人の中を内々的に認められた二人はますます想い合うのです。

しかしこの二人の仲に割り込む人物が現れます。

第118章 泰明の帰京

 「彩子様!大和から急ぎの文でございます!」


彩子は早馬で大和の者が持ってきた文を受け取ると、文箱を開けて読んでみる。彩子は内容を見て驚き、手が震えた。


「彩子様?何か?」


彩子は大和から一緒である女官に文を見せる。その女官も驚き、彩子に返す。


『彩子へ 昨日泰明殿が帰郷された。訳あって帰る事が出来ずに今に至った。今大和の和気邸にて身を寄せている。取り急ぎ報告のみですまないね。  父』


「帝にご報告したほうがいいのかしら・・・。」
「女御様、私にも仲間に入れてください・・・。」


小宰相は彩子に近づき言う。


「小宰相・・・。ねえどうしたらいいのかしら・・・。」


彩子は小宰相に文を渡し、見せるという。


「やはり帝に・・・。太政官に知られるよりも、帝のほうか・・・。帝にご相談を・・・。」


彩子は不安な顔をして小宰相を見つめる。今夜は運よく帝が承香殿に来る事になっている。いつものように帝を迎え入れ、彩子は帝の側に座る。


「今日はいい事あったの?彩子。」


帝は微笑んで彩子を抱きしめると、彩子を見つめる。彩子は帝を離すと、二階厨子においてある文箱を渡す。


「帝、決して驚かないでください。内密に事を運んでいただきたいのです。」


帝は文箱を、開け文を見る。帝は驚き、言葉を失う。彩子は帝に言う。


「泰明を処分するおつもりですか?都を騒がせた罪で・・・。詳しい理由は書かれていませんが、泰明は戻ってきたのです。帝!」


帝は考えながらいう。


「ただでは済まない事は知っているね・・・。もちろん私としては泰明には借りがあるから何とかしてやりたい。しかしね・・・。」
「帝!お願いします。きっと帰る事が出来なかった理由があるはずです。理由を聞かずに処分するのですか?帝!会わせてください!泰明の失踪の原因は私にもあります!」
「どうして彩子がそう思うの?」
「私・・・泰明の事が・・・・。」
「もういい・・・。聞きたくない。わかった何とかしよう・・・。内密に泰明と会って直接理由を聞くとしよう。もちろん、典薬頭の和気殿も同席して・・・。和気も今回のことで相当気が滅入っていたから・・・。和気も自分に原因があるといっていた。だから・・・。」


帝は立ち上がると、清涼殿に戻っていった。彩子は帝を怒らせてしまったのではないかと心配し、寝所に潜り込んだ。


 清涼殿に戻った帝は宿直中の右大将を呼びつける。右大将が到着すると、御簾の中に入れ内密な話をする。


「常隆、お願いがある。伏見に別邸があったね・・・。そこを貸してくれないか・・・。」
「はい・・・別に構いませんが・・・。どうかしたのですか?帝がお使いになるのですか?」
「ああ、内密に事を運ばないといけない事が出来てね・・・。何とか理由をつけて抜け出すよ。驚く客を呼び、話を聞こうと思うのですよ。」
「昼間ですか?」
「ああ。何とか理由をつけるし、お忍びだから護衛もあまりいらない。女御も連れて行く。出来れば車も貸して欲しい。内裏に入れるように通達しておく。」
「いつですか・・・?」
「五日後くらいだ。頼んだよ。」
「御意。また何かしでかすのでしょうか・・・。知りませんよ私は・・・関白殿や左大臣、右大臣殿に叱られても・・・。もういい年であられるのに・・・。」


右大将は溜め息をついて退出すると、また帝は承香殿に戻った。


「彩子、もう寝てしまったのか?」


帝は彩子の寝所に入り、横になっている彩子の髪を触る。


「彩子。右大将の伏見の別邸を使うことにしたから、明日早馬で大和に文を送ってもらえないかな・・・。面会の日は五日後、私も彩子もお忍びでいくつもりだから、泰明は別に狩衣でいい。右大将家から車を一両大和に向かわせるのでそれに乗って密かに右大将別邸に入るようにと・・・。安心して、そこで捕らえたりはしない。右大将はもう二十年来の親友だ。直接理由を聞いてからどうするかを決めることにしよう・・・。処分が決まるまで、そこにいてもらう。いいね、彩子。」
「わかりました。明日大和に使いを出します。早馬を使わせて・・・。帝ありがとうございます。」
「んん・・・。彩子の悲しむ顔を見たくはないからね・・・。」


帝は彩子の横に横になると、背を向け合ったまま眠りについた。帝には彩子の心がすでに帝ではなく泰明に向いていることに気が付いていた。もともと帝は彩子を無理に入内させたので、こうなっても仕方がないと諦めた。


 次の日彩子は帝に言われたとおり大和に文を書き、早馬で持って行かせる。その日のうちに返事が来て、泰明の帰京が決まった。帝は典薬頭に内密に文を書き、伏見の右大将別邸に来るように命じる。日程が決まり、そして内密に段取りが決められる。右大将は前日朝早くに大和に車を送り、帝の面会日の前日に別邸に泰明を入れた。そして帝と彩子は昼過ぎに内裏を出て、伏見の別邸に着いた。少し遅れて、典薬頭も仕事を切り上げてやってくる。


右大将によって寝殿に通された帝は彩子と共に上座に座った。典薬頭が帝の前に現れ、頭を下げる。


「よく来たね、和気殿・・・。」
「どうかなさったのでしょうか・・・。内密な話など・・・。内裏の一室をお使いになればいいものを、右大将様の別邸でとは・・・。」
「話だけなら、内裏でもいいが、今日は驚くべき者と会う約束をしているのだ。和気殿にも会わせたくてね・・・。常隆、例の者を・・・。」
「は!」


少し経つと包みを持った泰明がやってきてすのこ縁で座ると、深々と頭を下げる。


「帝、お久しぶりでございます。このような格好で申し訳ありません・・・。」


その声に典薬頭は驚き声が出なかった。


「泰明、よく生きていた。さ、中に入りなさい。」


泰明は立ち上がり、中に入ろうとすると、蘭が走ってきて泰明の足にまとわりつく。


「トウサマ・・・。」
「蘭、あの部屋にいなさいといっただろう。父様は大事なお話があるのですよ。」


蘭は首を横に振り、宋の言葉で泣き叫ぶ。慌てた泰明は蘭を抱き上げてあやす。


「申し訳ありません、すぐに連れ出しますので・・・。」
「いやいい。その子をそばに置いておいてもいいよ。その子は?」


泰明は蘭を膝の上に座らせて言う。


「この子は私の一人娘でございます。この子は宋の国の王女との間に出来た姫・・・。話は長くなりますが・・・。」



泰明は失踪後から大和に帰ってくるまでの事を包み隠さず帝に申し上げた。もちろん宋の国で帰りたくても帰れなかったこと、王の侍医になり王の末の王女を娶ったこと、その王女は蘭を産んですぐに亡くなった事、半年前に王がなくなって宋の国をこっそり抜け出してきたことなどを、すべて打ち明けた。そして和気の前に宋国の医学書の写しを差し出した。


「これは宋国門外不出の医学書の写し・・・。これを持ち出すのには苦労をいたしました。きっと和気様のお役に立つと思います。」


泰明が差し出した医学書の一部を典薬頭は取り、内容を確かめる。唐国時代の医学書とは異なり、さらに詳しく書かれていた。


「帝、和気様、この私の失踪で随分都を騒がせたと聞きました。どのような処分もお受けいたしますが、この蘭だけはお救いください。蘭は宋国王家の血を引く大事な姫です。そして私の大事な一人娘・・・。お願い申し上げます。」


泰明は頭を深々と下げ涙を流す。帝は複雑な事情に頭を悩まし、典薬頭に聞く。


「その医学書はそんなに貴重なものか?」
「それはそうです。国交がない宋国ですから、このようなものは決して入ってきません。今存在するものよりも新しい病が書かれています。これはすばらしい!泰明良くこのようなものを持ち帰ってくれた。和気家の家宝になるであろう。」


帝はハッといいことを思い出し、泰明を下がらせ、典薬頭と彩子に言う。


「処罰しないいい方法があったぞ。いいか?宋国へ内密に医学留学させたことにしよう。それならば皆納得するかもしれないな・・・。もちろんその医学書は朝廷に預けてもらうことにはなるが・・・。私が密かに命を出したことにすればいいかもしれない・・・。どうだろう・・・。」


典薬頭も彩子もそれならばということで、その方向で事を進めることにした。うまく行くかどうかはわからないが、うまくいけば秋の除目に間に合い、何とか泰明を医師として復活できるのではないかと帝は思ったのである。


「そうそう、和気殿、例の養子の件はもう消えましたか?」
「いえ、あのような優秀な者ならば、喜んで養子に迎えましょう。将来は私の後を継ぎ、侍医いや典薬頭も夢ではありません。もう都では泰明に勝てる者はないかもしれません・・・。」
「それなら良かった・・・。泰明の件頼みましたよ。泰明には東宮の件で借りがあるからね・・・。これでうまく行けばすんなりと医師として都に戻る事が出来よう・・・。そしてあの蘭姫という宋国の姫をあなたの孫としてお育てになるように・・・。」
「御意にございます。」
「彩子、これでいいね・・・。これで満足した?」
「はい・・・なんと感謝したらいいか・・・。」


彩子は帝に感謝し、涙を流しながら頭を深々と下げた。

 
 彩子は急に立ち上がり、帝に言う。


「帝、泰明に会ってきていいですか?」
「いいよ。ただし先程の話は内密に・・・。久しぶりだからゆっくり話しておいで・・・。」


帝は微笑んで彩子を送り出す。彩子はとても嬉しそうな顔をして部屋を退出する。


「帝よろしいのですか・・・。」
「和気殿、いいのです。あの二人は幼馴染という間だけではなく、想い合っている仲なのですから・・・。」
「しかし・・・。女御様は、帝のご寵愛を一身にお受けになっているお妃様・・・。」
「んん・・・。大事な妃であるのには変わりないが、もともと無理やり入内させた姫。大和でのびのび育った姫がこのように窮屈な後宮でもう何年も我慢してくれているんだから・・・。」
「泰明はあなたの群臣の一人・・・。そのものにお妃様を・・・。」
「女御の養父である右大臣が許せば、いずれ女御を泰明にやろうと思っているのです。そのほうが泰明にとっても、女御にとっても幸せではないかと思う。その時は頼みますよ。和気殿・・・。彩子は自分で何でも出来る・・・。後宮を出てもやっていくことの出来る姫だ。」


典薬頭は承知をし、部屋を退出する。帝は溜め息をついて、右大将と共に庭を見つめる。


 彩子は泰明のいる部屋に入ると、涙ぐみながら泰明を見つめる。蘭の昼寝の時間なのか、泰明は蘭を寝所に寝かしつけていた。蘭が眠ったのを確認すると、立ち上がって振り返ると彩子の存在に気が付く。


「彩子様・・・。」


彩子は泰明に近づくと泰明の頬を叩くと、泰明に抱きつく。


「彩子様・・・申し訳ありません・・・。」
「泰明、どんなに心配したかわかっているの?必ずすぐに戻ってくると言ったじゃない・・・。いつも泰明はそう・・・。後先考えずに・・・。帰る事が出来なかった理由はわかったけれど・・・。」
「申し訳ありません・・・。私のために彩子様は二度も帝の御子を流されたとか・・・。私のせいで色々な方々に迷惑をおかけしたのです。命をかけて一生償わなければ・・・。」


彩子は涙を流しながら微笑んだ。


「でもね、こうして帰ってきてくれた。時間はかかったけれど・・・。もう泰明は死んでしまったと思ったのに・・・こうして生きて帰ってきてくれたの・・・。私嬉しくて、お父様からの文が来た日から夜も眠る事が出来なかったほど嬉しかったの・・・。」
「彩子様・・・。」


泰明は彩子を強く抱きしめて二人は見つめあい、長い長いキスを交わす。


「じゃあ、戻るね。帝が待っているから・・・。今度会うときは内裏でかしらね・・・。」
「待ってください。彩子様・・・。」


泰明は懐からあるものを取り出す。そして彩子に渡す。


「これって・・・。」
「彩子様と契ったあの日に頂いた彩子様の愛用の櫛です。もう必要ありませんのでお返しします。このおかげで私は住み慣れない異国の宋国でもやっていけたのです。ですがもう彩子様は手の届かない存在になるのですから・・・。」


彩子は微笑んで、その櫛を返す。


「これはあなたと私をつなぎとめる証よ・・・。生まれてからずっと一緒に育った思い出、楽しかった思い出・・・色々詰まっているの・・・。この櫛、誰にもらったのか覚えていない?これは幼い時に泰明がくれたものよ。用事でお父様について行った時の都のお土産・・・。対になっていたでしょ。そのうちのひとつなの・・・。だから持っていて・・・。私だと思って・・・。」


泰明は微笑んで再び懐にしまい込む。


「そういえば、この櫛は大和守様に最初で最後にねだってお金を出してもらったもの・・・。彩子様はとても喜んでずっと使っていただいた・・・。わかりました・・・私が持っています。」


二人は再び別れのキスを交わす。そして彩子は微笑みながら手を振り、退室する。


 彩子は帝のいる部屋に戻ると、微笑んで言う。


「帝、さあ帰りましょう・・・。」
「ああ・・・。もう気が済んだか?」
「はい・・・。右大将様、お騒がせいたしましてすみませんでした。」


右大将は彩子に対して頭を下げると、帝と彩子を車まで送り、見送った。車に乗り込んだ帝は、彩子から馨る泰明の香のにおいを感じながらも、なにも感じていないように振舞った。彩子は側にいる帝に寄り添いながらも、やはり泰明のことばかり考えていた。


「彩子・・・。」
「はい・・・。」
「いやなんでもない・・・。」


伏見から内裏に着くまで二人は何も言葉を交わすことなく時間ばかり経っていく。内裏についても気まずい空気は変わらず、彩子は承香殿へ、帝は清涼殿へ戻っていった。彩子は御座に座り込むと、脇息に肘をついて溜め息をつく。ふと気が付くと、彩子の目にとても綺麗な夕焼けが映った。


(この夕焼けを、泰明も見ているのかしら・・・。)


彩子は泰明の唇の感触を思い出すと、この夕焼けのように顔が赤くなった。

 帝は数日間悩んだ末、太政官達に泰明のことを打ち明ける。大臣たちは驚き、そして処分するように意見をいう。


「みんな、ちょっと待ってくれないか・・・。和気泰明は海を越え宋国まで医術の修行をしてきた。そして宋国の王の侍医まで務めたという。この国の医術の発展のために、医学書まで持ち込んでくれた。この私が内密に行かせたのですよ・・・。このような事が公になってしまってはいけないからね・・・。今昔と違って宋国とは国として交易がない。そのようなところへ国の者として派遣できようか・・・・。」
「しかし・・・。証拠は?」
「典薬頭に医学書を見せるとこれはすばらしいものと断言していた。どうだろ、和気泰明の出仕再開の賛成をしてくれないか・・・。」


太政官達は帝の意向に承諾し、泰明の再出仕の許可を出し、秋の除目にて医師から正七位上医博士の昇進を決めた。そのことは典薬頭から泰明に伝わり、泰明は蘭姫と共に和気家本邸に入った。典薬頭から、以前の部屋よりも大きな部屋を与えられ、蘭姫に女房数人もつけてもらうこととなった。


「和気様、このようなことまでしていただき、ありがとうございます。」
「いやいや・・・。その代わり、除目発表までに当家の養子に入ってもらうぞ。そしてこの蘭姫を私の孫として正式に発表しよう。帝があなたの縁談相手を再び探していただけるそうだから、私の跡継ぎとして身を固めなさい・・・。いいね。」
「はい。もう以前のような振る舞いはいたしません。このように再び出仕できる様にしていただき、感謝しております。そしてこの蘭まで・・・。ずっとこの蘭姫の行く末を心配しておりましたが、これなら安心です。縁談の件もよろしくお願いします。」


泰明は挨拶を済ますと、自分の部屋に入る。そこには泰明の出仕に必要なものばかりではなく、蘭姫の衣装などもたくさん用意されており、早速女房たちは蘭姫を着替えさせた。蘭姫はさすが母君が宋国中でも一、二を争うような美人であったので、とてもかわいらしい姫である。やはり宋国と倭国の混血児であるので、少し違った顔つきでさらにかわいらしく感じるのである。


「まあ姫様、なんとかわいらしいことでしょう・・・。お似合いですわ・・・。」


蘭は女房達の言葉を理解し、恥らう表情をする。しかし蘭の使う言葉は女房たちには理解できず、女房たちは戸惑った。


「蘭は大和言葉を少ししかしゃべる事が出来ないのです。だから、蘭に言葉を少しずつ教えて欲しいのです。まだ幼いから飲み込みは早いでしょう・・・。蘭、いいね。みんなは宋の言葉を知らない。だから、出来るだけ父様と同じ言葉を覚えるのです。いいね・・・。お前は賢い子だ。母君も私のために大和言葉を少し覚えてくれた。蘭にもできるはずだよ。もうお前の生まれた宋には戻らないのだから。だいすきだったおばあ様にも会えない・・・。いいね・・・。」


泰明は蘭を抱きしめて言い聞かせる。女房たちは蘭姫の境遇に同情し、蘭姫の養育に精を出した。そのおかげか、蘭も少しずつ言葉を覚え、心を開いていった。


 秋の除目を前に泰明は正式に和気本家の養子となった。もともと和気本家には以前亡くなった息子以外息子がおらず、4人の子供は皆姫だった。そのために本家にこの優秀な泰明を迎え入れた。泰明の正式な養子と蘭姫のお披露目の宴が、関係者だけで行われた。宮内卿をはじめ丹波家の当主や和気家一門が招待された。ここ何年で男に磨きがかかった泰明と、日本人離れしたかわいらしい蘭姫に皆は驚いた。宮内卿は典薬頭にいう。


「なんともかわいらしい姫君を迎えられたのでしょう・・・。ぜひとも当家の嫡男にどうでしょう・・・。」
「いやいやまだ三歳・・・。立派な摂関家であられる東三条様のご子息となど・・・もったいなく・・。」
「しかし、噂では宋国王家の血を引いておられると・・・。この上のない姫ではありませんか・・・。」


蘭は眠くなったのか愚図りだし、蘭の女房と共に宴を下がっていく。泰明は興味津々な公達達の相手に戸惑い、そして疲れるが、宋での緊張感のある毎日に比べると、まだましである。久しぶりの顔ぶれに懐かしさを感じつつも、出仕の再開に不安を持つ。


 数日後、正式に秋の除目が発表され、泰明は医博士兼東宮侍医として再出発することとなった。この若さで侍医までなることは異例のことである。除目の次の日からは再出仕日となる。新調された束帯に袖を通し、生まれ変わった気持ちで出仕の準備をする。典薬頭より車での出仕を勧められたが断って、愛馬紅梅で出仕することにした。新たに従者を与えられた。


「泰明様、もうそろそろ出立されませんと・・・。」
「わかった。ちょっと娘に挨拶を・・・。」


泰明は蘭のところに行くと、今日から仕事でいなくなることを告げると抱き上げて蘭付の女房に預けた。


「蘭を頼むよ・・・。出来るだけ早く帰るようにするから・・・。」
「はい、東宮侍医様。さ、蘭様、あちらで人形遊びでもいたしましょう。」


蘭は泰明の顔を見つめながら女房に連れられて部屋の奥に入った。泰明は馬に乗り、大内裏に向けて紅梅を歩かせる。朱雀門で馬を降り、従者に預けると、従者から荷物を受け取り、典薬寮に向かう。四年も経つと、大内裏で働いている役人たちの顔ぶれも変わっている。典薬寮が入っている建物前に立つと、やはり色々あったことのトラウマなのか、足が震えて一歩も進めなくなってしまった。


「泰明殿、ここで何をしているのかね・・・。」


帝の朝の診察から戻ってきた典薬頭が泰明に声をかけ肩を叩く。


「あ、典薬頭様。ちょっと入り辛いのです・・・。色々ありましたし・・・。」


典薬頭は微笑んで背中をポンポンポンと押す。泰明は深呼吸をすると不思議と気分が楽になり、典薬頭と共に典薬寮に入っていく。


「泰明殿、もう私たちは親子なのだから、遠慮は要らないよ。なんでも相談して欲しい。挨拶が済んだら、東宮御所に行って東宮様にご挨拶をしておいで。今日のこの日をたいそう心待ちにしておられたそうだから。」
「はい。」


典薬寮に入るとやはり役人たちの視線が痛い。こそこそと泰明のほうを見て話すものたちが多い。医博士であり東宮侍医であるため、個室が与えられる。個室に荷物を置くと、典薬頭に連れられて役人たちの前に出され、挨拶をすると早速東宮御所にむかった。もともと侍医という職は帝につく医師のことだが、東宮の要望により特別に東宮侍医という職が付け加えられた。泰明の医博士の職は医学生養成に当たる職ではあるが、泰明にとってこの職は形だけのことである。形だけとはいえ、和気家本邸に寝泊りしている医学生に対して暇を見つけては医術の指導をしているのである。


 東宮御所の御座所の前に着くと、東宮侍従が東宮に泰明が挨拶に来たと告げる。東宮侍従に案内されて東宮の前に通されると泰明は東宮に対し、長い間都を離れていたことなどを詫び、改めて東宮侍医についたことを報告する。


「泰明、父上から聞いたよ。宋という国に医術の修行に行っていたそうだね・・・。」
「はい、ご心配をおかけいたしました。東宮様も元服され、立派になられましたこと嬉しく思います。ところで持病の発作などは・・・。」
「うん、時々は出るが、泰明の言ったとおり、年を重ねるごとに楽になっている。今は発作が起きても軽くで済んでいる。最近はきちんと鍛錬もしているよ。好き嫌いもなくなったし、きちんと泰明の言うとおり残さず食べている。」
「それはいい事でございます。ずっと私は東宮様の持病が気がかりでしょうがなかったのですが、少しでも良くなられたことに安堵しております。この調子であれば、もう少し大人になられましたら完治されると思います。」
「うん。」


泰明は東宮を診察すると、持病の喘息以外はすっかり健康体であった。泰明は安心して東宮に言う。


「東宮様、今日から東宮様の健康管理をさせていただきますので、何なりとお申し出ください。お話し相手が必要でございましたらお相手いたします。」
「うん、ありがとう。泰明も無理をせずに・・・。」
「お気遣いありがとうございます。では私はこれで・・・。」


泰明は東宮御所を退出すると、典薬寮に戻り自分の部屋に入ると荷物の整理をする。あっという間に時間が過ぎ、退出時間となると、早々切り上げて蘭のために邸に戻る。邸に戻ると蘭は泰明を待っていたようで、すのこ縁に座って歌を歌っていた。


「蘭・・・。帰ったよ。いい子にしていたかい。」
「うん・・・。」


蘭が歌っていた歌は泰明が小さい頃彩子と一緒に歌っていた大和でのわらべ歌である。宋の国で寂しくなるとなんとなく蘭を膝に乗せて小声で歌っていた歌で、蘭は無意識のうちに覚えていたようだ。なんとなく懐かしくなって蘭を膝の上に乗せて庭を眺めながら一緒に歌う。泰明は歌い終わると蘭の頭を撫で、微笑んで邸の中に入っていった。



《作者からの一言》

やっとのことで都での生活を始めた泰明。未だ彩子との関係は続き、帝も密かに承知している。なんという帝なのだろうか・・・。