先日、ネット上でこんな記事を見つけました。
知的障害児を通常学級へ これも親の行き過ぎた「教育虐待」ではないのか
記事を書いたのは、子育て本の執筆などでも知られている立石美津子さんです。
私はこのタイトルに「ぎょっ!」と驚いてしまいました。
本文に目を通してもらうためにインパクトのあるタイトルをつけられたのなら、そのねらいにまんまとはまりました。
「教育虐待」という言葉は2011年に「日本子ども虐待防止学会」で武田信子さんが「子供の受忍限度を超えて勉強させるのは教育虐待になる」と発表した事から世間に広く認知されるようになったとされています。
大変新しい概念です。
この言葉の明確な定義はまだないと思われますが、Wikipediaではこの言葉には2つの概念が含まれていると説明しています。
①教育熱心過ぎる親が、過度な期待を子どもに背負わせてしまい、思うとおりの結果が出ないと厳しく叱責してしまうこと。
②子の人権を無視して勉学や習い事などの教養を社会通念上許される範疇を逸脱して無理強いさせる行為
明確に定義されていない言葉を使うのは、大変な勇気を必要とします。
その言葉にインパクトがあればあるほど、また何となくみんなが勝手に限定的なイメージを持ちやすければ持ちやすいほど、その言葉が一人歩きを始めてしまう恐れがあるからです。
立石さんがこの記事を通して伝えようとしたことを全否定するつもりはありません。
地域や学校によっては、立石さんがおっしゃるような事象は起こっているのでしょう。
想像はできます。
しかし、限定的な事象を般化して言葉の定義に加えようとするなら、大勢を納得させるだけのデータを集め、誰もがそうだと認めざるを得ない論理を立てることが必要です。
そういうことをせず、安易に定義が明確でない言葉を使うには、立石さんは有名すぎます。
あまりにもインパクトのある言葉だけに、誰もが漠然としたイメージや偏見、固定観念に操作されてこの言葉を使いだした時、この国に幸せな子どもはいなくなっているでしょう。
大げさではありません。
現に、この記事に賛成の意見を投じている人たちの内容をご覧になってください。
子どもへの愛を感じさせるものは私の見る限りなかった。
(自分の)普通の子どもと障害児は別の存在と思っておられます。
仮に、いわゆる知的障害児が通常学級からすべて抽出されてしまった時、次に抽出されるのは自分の子どもかもしれない、などという想像は彼らにはできていません。
優生学に支配された考え方を改める時代がきているはずです。
さらに、虐待かどうかは子どもの受忍限度を超えているかどうかだ、という視点がごっそり抜け落ちた内容です。
どんなに勉強や活動がうまくいかなくても、クラスのみんなと一緒にいたいと強く思っている子どもがいます。
空間と時間を共有することで障害のある子もない子も心が豊かに成長する可能性があります。
抽出をせず、すべての活動をインクルーシブで行い、学校運営が大変上手にできている普通の公立学校が大阪市内にいくつかあります。
そうしたケースを知らずに、目につきやすいケースを取り上げて勝手に定義づけを行おうとするのは危険です。
また、支援学級や支援学校の実情もさまざまです。
学校によっては人員の確保が難しく、中学高校の免許しかもたない人、もはや教員免許もない人が支援員となり子どもにかかわっています。
支援級や支援学校に入っても適切な支援を受けられるかどうか、もはや何の担保もない時代なのです。
どちらかに迷うならとにかく、やってみるしかない。
いったん支援級に入れば、通常学級に戻ることは大変困難なことが多いです。
そのことを踏まえれば、いったん通常学級に入ってみて、子どもの様子を見て再考するのが子どもにとっても保護者にとっても一番多くの可能性が残る方法です。
子どもも体験しないことには、意向の持ちようがありません。
どんな教育を受けるかを周囲が決めていいわけがない。
「教育虐待」という言葉には、子どもの教育を受ける権利を侵害する力があります。
安易に使う言葉ではない。
勝手な定義だけが一人歩きし始めた時、それを訂正するのは困難なのです。
やるせない気持ちが膨らむ記事でした。