「マウンティング」という言葉を聞くようになった。

職場で「マウンティングおじさん」が増えている理由(ダイアモンド・オンライン)

https://diamond.jp/articles/-/160015?page=4

 

「マウンティング」というのは、サルが余計な争いを避けるために、自らの優位を他のサルに(暴力ではなく)アピールすることらしいのですが、それは別に悪いことではなく、人間界でもそのようにしてもらえば、喧嘩しないですむような気がします。

 

ただ、この記事であげられている例はいずれも「マウンティング」すなわち「自分が相手より優れているとの主張」にはなっていないように思います。単に相手のことを否定しているだけであり、これは特別な単語を使わなくても、相手を面と向かってディスっている、すなわち、侮辱しているということじゃないでしょうか。

 

たとえば、この記事に出てくる「あなたのレベルに合わせて話をしてあげましたよ」オジサンですが、単に「無礼」なだけですよね。さらにいうと、この筆者も同時に勘違いしているみたいですが、「話題の芸能人の話」の方が「経営コンサルティング」の話より、よっぽどレベル高いです。というか、面白いだろうし、役にも立ちます。すくなくとも初対面の人との共通の話題になり得ます。

 

「お前らはいいよな。入試がラクで」もそうですよね。要は「お前らは俺たちに比べて劣っている」といっているわけで、これも立派な侮辱です。

 

また、「少し言葉が足りないので、私から補足させていただきます」という上司ですが、ここで例示されているプレゼンテーションの成否の責任がこの上司にかかっているのだとしたら、部下の説明を補足するのは当然のことであり、単に上司としての責任を全うしているだけだと思います。「少し言葉が足りないので」というのも取りようではありますが…。さらに言えば、この上司の「補足」が箸にも棒にもかからないような「蛇足」だったとしても、上司は「蛇足」を付け加える権限を持っています。自分の責任を持たなければいけないプレゼンテーションで、自分が部下の説明が不足だと思って付け加えたのであって、顧客は「こいつバカだ」と思うかもしれませんが、その結果はこの上司に返ってくるのですから、会社の組織の責任体系としてはこれで正でしょう。

 

上司が「部下の仕事の成功は、自分の過去の努力に負うところが大きい」と言うのは、もし虚偽であれば部下への侮辱。真実であったとしても、それを言うことで業績が改善するわけではないので、部下に「恩を着せている」。上司たるもの「責任はとる、手柄は部下のもの」くらいの器量がほしいところ。

 

要は「マウンティング」という聞きなれない言葉を持ってきて、さも新しいことを言っているように見えるけれども、実のところその実態は「侮辱」だったり「正当な業務」だったりするのではないかと、そのように思います。

 

批判ばかりしていてなかなか読み進まないのだが、自衛隊の海外派遣の話にさしかかりましたよ。

「自衛隊の、中東やアフリカへの派遣は、日本政府としての自発的な行動であり、なにより日本の国益に資するし、日本の軍国主義化につながるものなどでは到底ない」と力説する。最後の部分は私もすぐにどうこうなるとも思わないが、前者2つはどうだろうか。

「降りかかる火の粉ははらわねばならない」とはだれしも思う。北朝鮮軍が堂々と攻めてきたら、押し返すでしょ。憲法がどうあろうと「超法規的処理」の得意な政府の体質だし。

しかし、自衛隊の海外派兵について、誰からどういう要請があって日本周辺はともかく中東まで派兵する必要があるのかについての説明は書いていない。

おそらく、そういう説明ができないのであろうと思う。国連決議はあるのだろうが、国連からの要請ならはっきりそういえばいいだろう。実際そういう要請もいろいろなルートであるのだろうとは推測しますよ。そこで「日本国には憲法の規定があってご期待には沿いかねます」という議論をするのがまず第一段階でしょう。その上で、どこまでが実際的か、可能なのかを交渉するというのが普通のやり方だと思うのだが、なんかどんどんいくんだよね。野党の反対は無視して。

日本は大国であるから、国連にも応分の負担をせよという議論がある。第二次世界大戦の敗戦国である日本は、いろいろと経済支援も含む仁義を切って、講和条約もむすび、国際連合にも加えてもらったのであり、それは多とするにしてもだ、国連への貢献というのはどこの国でも自国の利益との算盤勘定ですよ。敵国条項もそのままで金を出せ人を出せとどの口がいうのか。米国が言っているのだろうとは思うが。しかし、日本もGDP世界三位も危なくなっている。これからは小国としてひっそりやっていったらどうだろうか。100年遅れたけれど石橋湛山流「小日本主義」だ。

 

安倍さんの中韓に対する見方は非常に楽観的である。留学生には日本の実態を見てもらえば反日感情もやわらぐだろうといっている。そんなにナイーブなことで大丈夫かと思うくらいだが、それにしても嫌中嫌韓のみなさんとはずいぶん違う。

 

日本が自由な機会に恵まれた国であれば、(中国からやってきて)日本で就労する人も増えるというがそれは低廉な労働力として就業制限を緩めようという話じゃないのか?少々気になるが…

 

「たとえ国と国とで摩擦が起きようと、相手の国の人たちには、変ることなく親切に誠実に接する。それことが日本のあるべき態度」と、中国・韓国を念頭にした文脈で書いておられる。中国との間ではまず政経分離すべきといっていて、経済関係さえよければいいのかという疑問もないではないが、基本的には同感である。中国・韓国が反日教育をしているからといって、日本でも反中・反韓教育をすべきという話ではないのはあたりまえのことだ。

 

インドの話をするのはいい。しかし、なぜ岸信介の訪印にあたってネールが「日本がロシアに勝った。わたしもインドの独立に一生を捧げる」という話になるの?祖父自慢もいいけど、2010年代になってどうしてこういう文脈を持ち出すのか、センスを疑います。

 

「父と母だけでなく、祖父や祖母といっしょになって子どもを育てる環境ができるよう、税制等の検討をしていきたい」すらっとこういうフレーズが出てくるので不安になるのですよ。3世帯の同居あるいは共同が当然の前提となっているように思われるが、これは正しくない。

「いままで十分活用されてこなかった女性や高齢者の能力を活かし、労働力の減少を補う」とさらっとおっしゃるのだが、それと少子化対策なり、安倍さんの好きな「家族」のイメージとが両立しない。そこの説明がない。

 

年金についてページを割いて説明をしていることは評価できる。個人として年金保険料を支払わないと将来大変なことになるという指摘も正しい。ただ積立方式から賦課方式に置き換えた理由の説明は正確とは思えないし、年金は破綻しないから安心しろというのであれば、それは国に課税権限があるのが理由だときちんと書くべきだろう。

「国に対し誇りをもっているかという問いに対し高校生の肯定が日本51%米国は71%。この結果は日本の義務教育に大胆な構造改革が必要だということを示している」という論旨だが、この論理は飛躍しているし、そもそも「自国に誇りを持つ」ことが正しいということは自明ではない。

 

この人の教育関係の記述を見ていると、サッチャー流の強権改革(?)に対する憧れ、レーガンの父性的イメージに対する固着があることが感じられる。それと現在は「ダメ教員が多い」という思い込みがあるようだ。一方で、小学生が九九ができるから教育水準は世界レベルだと言い、理想は「大草原の小さな家」だそうだ。

 

「この国を自信と誇りの持てる国にしたいという気持ちを少しでも若い世代に伝えたかった」とおっしゃる。その意図は大変結構であるが、そうであれば、日本の近代史を偏りなく教育すべきである。明治維新後、西洋列強に抗して帝国主義政策をとり、版図を拡大しようして、結果的にはすべてを失った歴史を学ばなければならない。

 

「新しい国へ」には増補最終章がついている。「デフレ退治をしなければいけない」「浜田宏一教授の意見にしたがうべきである」「菅直人は日本の市場を開放しなければといったが、間違いであり、TPPは受け入れてはいけない」等、今から見れば噴飯ものの記述のあと、極めつけは「日本という国は古来、朝早く起きて…秋になれば天皇家を中心に五穀豊穣を祈ってきた『瑞穂の国』であります」ときた。大丈夫か。

 

「民主党政権は日米関係を軽んじて日中関係に重きを置いたため、中国は大喜びで民主党政権の間に日本から取れるものは全部取ってやろうと考えた。そこで、尖閣に中国船を多数送り込んで、あやうく尖閣は実際に取られそうになった」という論旨だ。それは確かにそうかもしれない。石原慎太郎さんの始めたことといいながら、野田政権が尖閣諸島を国有にしたのは、あまり賢いやり方ではなかったかもしれない(しかし、これにしても中国との間で十分なコミュニケーションが成り立っていれば上手くいったかもしれないと私は思うが)。

これだけの主張であれば、日本は日米関係に重きを置き、米国の言うことを聞いてやっていくのが一番いいのだという主張であり、賛否はともかくとして論理は一貫していると思う。

 

ところが一方で「集団的自衛権を持つということは日米が対等になるということだ。自分の国は自分で守らなければならないのはあたりまえのことだ」と言う。ここで私はわからなくなってしまう。これは欺瞞でしょう?

 

この二つが矛盾しないとは思えない。米国に追従するのであれば自国を守ってもらうためにいろいろ譲歩をし、便益を与えなければならないだろうし、それはひとつの行き方であろう。実際55年体制というのはそういうやり方で、米ソの冷戦下で、米国が日本に価値を見出したために保持できた安全保障の形である。

 

しかし、冷戦は終わり、米国にとって日本の価値は0でないにせよ、非常に下がっている。ここで、米国に日本の安全保障を肩代わりしてもらおうというためには、日本側の相当な負担が要求されるだろう。実際日本の負担は増えている。マティスは賢いから、日本が相当の軍事費負担をしていることをわかっていて、特に文句も言わずに引き上げたが、トランプ氏がそれで納得しているかどうかはわからない。真珠湾は忘れないそうだし(そういったかどうかは裏が取れていないが)この現実を安倍政権は見ないようにしているのではなかろうか。あるいは、そうではないという別の理由があるのだろうか。

 

一方で、安倍さんは「自分の国は自分で守るのが当然だ」というわけだが、そうであれば、米国に追従する必要はないわけで、日本の周辺を守るだけの武力を保持することになり、現在の米国駐留軍(というのも欺瞞で、本来占領軍だが)を自衛隊が置きかえることになるだろう。海兵隊にも引き上げてもらえば、普天間=辺野古の大問題も解消するわけだ。

 

米国に頼るのでもない、自主独立するのでもない、どっちなんだ、といいたくなる所以である。ここに、この本「新しい国へ」の根本的な一貫性のなさ、論理矛盾があると考えるのだが、違うのかなぁ。

わかりやすい解説だとは思うのだが、いくつか疑問が。

「日銀が国債を購入し支払い代金を日銀当座預金に振り込む。この金額が増えれば、銀行はこれを企業に貸し出そうと考える。貸し出しが実行されれば景気回復に資する」というのだが、そもそも貸し出し先がなければダメだよね。

その後で「金融機関とすれば、たとえ日銀当座が増えても、景気回復して金融不安が解消しなければ、貸し出しが増えることにはならないという思いがあった」という記述がある。結局そういうことですね。堂々巡りと言うか、卵と鶏というか、キャッチ22というか。

で、結局日銀当座預金の膨張は「ブタ積み」と言われるわけですね。確かに、金融不安を抑える効果はあっただろうが、それは消極的効果に過ぎないでしょう。

2013年4月の黒田バズーカ(異次元金融緩和)について「効果はテキメン。株価急上昇、金融機関から大量の国債を買い入れるということはそれだけ日銀券を発行すること。すなわち大量の資金があふれ円安がすすみ輸出産業の株価があがる」円安と同時にインフレになるはずではないのかな。もし、日銀券をそんなに多量に刷ったのなら。実際、日銀券の発行残高は2013年から20兆円くらいしか増えていない。国債は400兆円にも上っているが、それは市中からの借り入れでファイナンスされている。専門家はそれでマネタリーベースが増えてるからよいのだとおっしゃるが、実際のところマネタリーストックは伸びていない。

また「異次元金融緩和」にもかかわらずインフレにつながらなかった理由として、消費税上げと原油価格の下落を挙げている(よく言われること)が、ここでも定量的な分析がない。いずれもどのくらいのインパクトがあったのかは専門家なら計算できるはずじゃないのかなぁ。

私の素人としての結論としては(陰謀説までは唱えるつもりはないけれど)リフレ派にしても「異次元金融緩和」の効果について控えめに言ってもよくわかっていなかった、あるいは読み違えたのではないか。もっといえば、やっぱりインフレは資産家層にとって不利な政策だし、ブレーキをかけたのではないかと。

安倍さんは「日本人が日本の国旗、日の丸を掲げるのは、決して偏狭なナショナリズムなどではない。偏狭な、あるいは排他的なナショナリズムという言葉は、他国の国旗を焼くような行為にこそあてはまるのではないだろうか」と書いておられる。

「ナショナリズム」という言葉の吟味からはじめなければいけないのだろうが、たとえ「ナショナリズム」はよくて「偏狭なナショナリズム」が悪く、それは「他国の国旗を焼くような行為」なのだとしたら、「嫌中」とか「嫌韓」というのはまさに「悪しきナショナリズム」であろう。

安倍さん自身は「嫌中」でも「嫌韓」でもないのであろうと信ずるが、安倍政権を支持する人たちの中に、そういう「偏狭なナショナリズム」を信念とする方々がおられるのは事実である。

「日本の歴史は、天皇を縦糸にして織られた長大なタペストリーだ…」と書いてあるが、これは違うと思う。それから「日本の国柄をあらわす根幹が天皇制である」とあるが、これも違うと思う。

特攻に赴いた若者の言葉を引いたあとで「今日の豊かな日本は、彼らが捧げた尊い命の上に成り立っている」と書く。これが欺瞞である。明治初期には防衛のためだった戦争も、日中戦争以降それ自身が目的化した。国民の熱狂もあったであろうが、それを煽り、さらに引き返さなかったのは天皇と支配層の責任である。

1945年5月7日にナチス・ドイツが連合軍に降伏したにもかかわらず、さらに7月26日のポツダム宣言を受けてもなおぐずぐずと戦いを続け、最終的に降伏に至ったのは「降伏しても、『戦争に負けたに過ぎず』英米は国体を維持させてくれる(支配層の既得権は揺るがない)」という判断であった。「臣民」の命をなんとも思っていなかった(今もおそらく思っていない)証である。

安倍さんは「いのちは大切なものである。しかし、それをなげうっても守るべき価値が存在するのだ」と書くが、そう思わないことも自由であるし、権利である。またそういう価値があるとしても、それは人によって区々である。先の戦争では国は国民(当時は臣民)の命を軽々しく扱った。その考え方が脈々と引き継がれて(おそらく無意識で)こういう言説につながっているのだ。

 

(そもそも、現在米国の駐留軍(と言ってるけど占領軍が居残っている)を日本国内に置いておく必要があるのか、というのが問われるべき第1の疑問。それから、普天間の米軍が本当に米軍としても必要なのかという議論があるべきで、どうしても必要と米軍が言って、初めてどこへ移設しますかという話になる。移設するとして、どうして辺野古あるいは沖縄県内である必要があるのか、日本国内である必要があるのか、という議論になるわけでしょう?鳩山由紀夫さんの問いかけは正論だったんですよ。とんでもないというのなら、なぜとんでもないのかを説明する必要がある。)

 

米国民主党がリベラルな思想を世界に広める外交姿勢であるという安倍さんの認識は正しい。共和党の方がむしろ孤立主義に近く、実際、トランプ大統領は日本から軍を引き揚げるとまでいっていたのだ。日本の「真の」独立にはその方がいいのではないか?

安倍さんは、日本の求めるべきは「国家の独立、国民の自由と権利の確保」だというが、では米国の占領軍が戦後73年居座り続ける現状が「国家の独立」なのか?たとえば沖縄を犠牲にして成り立つ「独立」とはなんだろう。

また、日本は自らを守るために、米国の核抑止力に頼らざるをえないという。確かに、すべての核を世界中で同時に無力化することが不可能である以上、非核化への道は容易ではないことは理解できるが、それと核兵器禁止条約に賛成し、その先頭にたって米国を含む核保有国と話し合いをする、そのリーダーシップをとってもバチはあたらない。

それどころか、米国との間で、どこまで日本国内に米軍基地を置く必要があるのかといった議論をできる素地すら確立できていないのが現状ではないのか。日本の「独立」は「自主憲法制定」とイコールではまったくない。

安倍晋三さんの「新しい国へ」について

 

安倍晋三氏の著書「美しい国」あらため「新しい国」を読んでいる。多少の改訂はしたのであろうからマシになったかと思いきや、半分も読まないうちに欺瞞・虚偽・問題のすり替えの嵐。とりあえず平壌宣言で拉致問題は終了したと合意したことには口を拭っているのですね。もっとも、社会党なんかはなから「北朝鮮が拉致なんかするわけがない」とか言っていたのだから、一部の人たちでも奪還したのはすばらしい成果だとは思いますが。

 

安倍さんは1960年の安保反対運動に欺瞞を感じていたといいいます。正しい認識だと思います。岸信介氏(祖父)は安保条約を日米対等なものにするべくがんばったといいます。それも正しいでしょうが、現在に至るまで対等になっていないのも事実です。それは語らないのですね。

 

そして、安倍さんは「日本が真に独立国家になるためには自主憲法が必要だ」とおっしゃいます。

 

ここに論理の飛躍があるように思います。必要なのは「自主憲法」ではなく、敗戦国であることは消せないにしても仮にも講和条約を結んだ国同志として、最低限の日本の自主権を確保するための、日米地位協定の改訂をはじめとする地道な手当てでしょう。

 

自民党の「自主憲法案」なるものを見る限り、国民の権利を制限して、敗戦時に守りきれなかった「国体」を取り戻すのが目的のように思われる(あるいは思われてもしかたのない)案です。安倍さんは著書に表立っては書いておられませんが、「自主憲法」でないが故の「基本的人権」「主権在民」「平和主義」がいやだということが透けて見えてしまっています。

 

安倍さんは日露戦争に言及します。日露戦争とその結果について政府を「弱腰」と批判したのは民衆であり、それは政府が情報を公開しなかったからで、それは外交上必要なこと、常套手段だとまでいい、問題は単純ではないとおっしゃる。そのとおりなのかもしれないが、ではどうすべきか、どうすべきだったのかは書いておられません。情報を公開して国民に正しい情報を出すべきだったのではないのですか?むしろ、逆に外交を有利に進めるための(本当ですか?)結論が「秘密保護法」ですか?

 

民衆は、国の状況(特に日露戦争終結時に日本が経済的にも疲弊しつくしていたこと)を知らされるべきだったし、それをもし民衆が理解できないのなら20年かけて理解できるように教育すべきだったのではないでしょうか?明治時代では無理だったかもしれないが、今ならできることでしょう。

 

安倍さんは自民党の目標は「経済再建」と「自主独立」だったと言います。「経済再生」はうまくいったと言います。それによって生じたさまざまな社会のひずみには言及していません。もちろん紙幅も限られているだろうからそれは措くとしても、もうひとつの自主独立の第一の手段が「自主憲法」の制定なのか、そこが説明されていないと思います。

 

安倍さんはパスポートによって国が海外にいる国民をサポートすることを例に引いて「…国家の保護を受けられるということは、裏を返せば、個々人にも応分の義務が生じるということである」としていますが、これを読んで「権利と義務は対」と短絡する人が出てくるのではないでしょうか。

 

「日本では安全保障をしっかりやろうという議論をすると、なぜか、それは軍国主義につながり、自由と民主主義を破壊するという倒錯した考えになる」この文の方がよっぽど倒錯していませんかね。米国と共同で安全保障を担保するというなら、米国に対してモノが言える権利を担保するのが先でしょう?

 

安倍さんは、サンフランシスコ講和条約の11条を引いて、「靖国参拝」は講和条約違反ではない、と述べています。そりゃそうでしょう。中国政府(や韓国政府)が日本の要人の靖国参拝に反対するのは、日本の要人が、東京裁判で有罪とされ、処刑されたA級戦犯の思想信条行動に敬意を払うからです。

 

もっといえば「A級戦犯が悪かった。日本の人民には責任はなかった」という「御伽噺」を、中国として受け入れて「水に流す」のだから、その「御伽噺」を否定するようなことを日本の要人にやられたのでは中国政府の中国人民に対する立場がなくなる、ということなのです。

だれも厳密に、靖国参拝は条約違反かどうか、などという法律問題を論じているわけではないのです。(「水に流す」というのはすぐれて日本的表現ですが、わかりやすさのためにあえて使いました)

 

では、安倍さんは中国政府に対して「日本国政府要人による靖国参拝は、サンフランシスコ講和条約をはじめ各国との平和条約に全く違背しない。これを非難することは国際法上誤りである。直ちにやめていただきたい」と主張したことがあるのでしょうか。そこまできっちり議論をするのならそれはそれで評価しますよ。

 

その後の議論はひょっとしたら実りのあるものになるかもしれないからです。でも、しない。できないのだろうと思います。なぜなら、「新しい国へ」に書いてあるような議論は日本国内でのみ通用するもので、ようするに「内弁慶」なのですから。(余談ですが、日本会議の皆さんは海外での「布教活動」はしておられるのでしょうか)

 

第二章の最後にアーリントン墓地の話が引かれています。

 

「もし靖国でA級戦犯を追悼するのが悪いというのなら、米国大統領が南北戦争時の南軍兵士が埋葬されているアーリントン墓地に「参拝」(っていうのかね、アメリカ人が)するのは、米国大統領が奴隷制を認めるようなものだ」というのですが、これを読んだだけでこういう論理がどうして出てくるのか、クラクラしますが、あえてマジレスすると、アーリントンの南軍兵士に関して言えば、いかなる意味でも彼らは犯罪者ではない。内乱罪も適用されず、南北戦争は国際的戦争とみなされているようですよ。(追記:内戦との認識の方が普通らしいです。内戦ならなおのこと、日本の戦犯と比べるのはおかしいんじゃないでしょうか)

 

一方で、日本のA級戦犯は極東軍事裁判において犯罪者だと断罪され、当否は別として、日本は国際社会に対してこれを受け入れて講和条約を結んだのだということをよく理解しておくべきでしょう。

 

もし、A級戦犯を犯罪者と認めた上で、さはさりながら、彼らの主張・信条・思想にも認めるべきところがある、というのであれば、そのように主張し、中国政府とも韓国政府とも議論すべきところでしょう。「国のために戦った人々に哀悼の意を表するのは当然のこと」といった、「かすりもしない論説」で、わかったような気になるのは、仲間内で言っている分にはいいのでしょうが、国際社会でも、国内でもまともな大人が相手であれば、通用する議論ではありません。


第3章 p.87 「(日の丸・君が代に否定的な人)にとっては、W杯の日本のサポーターの応援ぶりも、きっと不愉快なことなのにちがいない。ただ、その不愉快さには、まったく根拠がないから、かれらの議論にはなんの説得力もない」ここに微妙なずれを感じます。「不愉快」というのとは違うのです。

安倍さんは「一部の人たちは『日の丸』『君が代』に、よい思いをもっていないのだ」と言う。そりゃそうですよ。「天皇のために」といって310万人も日本人が死んだのですよ。

 

私は日本国憲法についても、天皇制については徐々に離脱すべきだと思っています。

だから、一部の若い人たちが、日本的なものに「盲目的に依拠」してもらいたくない。歴史を認識し「道を誤った日本」について他国の人たちがどういう理解をしているのか、それを理解した上で、日本という国を考えてほしい、といっているのです。もちろん「道を誤った」のにも理由はあるし、一部の人がどうがんばっても変えられなかった歴史であるとは重々承知していますが。

この本(「新しい国へ」)を読む限り、安倍さんは天皇制を所与のものと考えているフシがあります。天皇家の系統の跡づけは長年にわたってできるのでしょうが、なにより人間であると宣言したひとつの家族を特別視し、憲法にまで書き込んでその人権を制限すること、そのこと自身に大きな問題を感じます。

そういう特別な人・家族がいるということを所与として、それに関連付けて、愛国心とか、国に対する忠誠心とかを持てというのは、まず第一に科学的でないと考えます。

「天皇がいて、日の丸があって、君が代を歌って、日本はすばらしい特別な国だ、自分はその一員でうれしい」という感情にとらわれるのが容易なのもわかっているし、おそらくは気持ちがいいのだろうことも理解できます。それによって生きるのが楽になるのかもしれません。しかし、それは同時にとても危険なことだと思います。

そういう一種の「愛国的陶酔」はどこの国でもありえます。あえて言わせてもらえば、米国や英国にはそういう陶酔に浸る人がかなり多いと思います。私は、けっしてそれはいいことだとは思いません。

少し前になるが、NHK-BSプレミアムで放送された「アイアングランマ2」の5話・6話(最終回)は森友学園問題を下敷きにしている。

 

ドラマのメッセージは、私の見る限り「森友問題は他国の工作員が日本の政治を混乱させるために仕掛けた騒ぎであり、このような騒ぎに乗ることは、国政を混乱させるものであり反国家的なことである。問題の土地売却は一見、政治家・官僚の不正行為に見えるが、高所大所から見れば公にとって必要であり、善である」ということだ。

 

これはまずいんじゃないの。特にNHKの番組だということを考えると。

 

(追記)ご存じない方のために解説。主人公は令子(大竹しのぶ)と直美(室井滋)の二人で、元スパイ。40歳の時から依頼がこなくなったが26年後に日本の某機関(古巣なんですかな)から依頼が来てまたスパイ稼業をはじめることになる。この指図をしているのが七味(加藤晴彦)で、その上司というか黒幕が時田(柄本明)である。令子も直美も殺人はしないというポリシーの下に動いており、この某機関は一応正義っぽい仕立てになっている。(追記終わり)

 

ストーリーには籠池氏らしい人物も登場する。国有地の払い下げについて周囲の地価に比べ極端な値引きで「関係者」に売るという設定である。大義名分としては「地方の活性化」のためということになっている。

 

要するに買い手のつかない国有地を有効利用するには、安値で売り払う必要があり、それは政治家の資金源にもなる裏取引=不正行為であるが、大局的に見れば正しい行為なのだ、という主張である。

 

その不正を暴こうとするのは、国名を明示してはいないが、他国の工作員らしいマイケル月岡(加藤雅也)で、殺人も厭わない。「月岡の目的は日本の政治・防衛を混乱させること」だと国会議員の景山(渡辺裕之)に言わせている。「これ(国有地廉価売却)は正しいことですよね」と景山の秘書の滝口(永岡佑)に何度も言わせたりしてはいるので、番組全体としては政治家にもこのような行為にも疑いを持っているのだといいたいのかもしれないが、最後にマイケル月岡は正義の味方らしい時田(柄本明)に射殺される。スキャンダルは、時田率いる「日本の」秘密工作員たちによってもみ消されて事なきを得る。

 

これって、要は自民党を間接的に応援するドラマだと思うのだが、違いますか?

平たく言えば、世界の資本市場における自由な資本の移動を制限しようということですよね。

第一に、米国に「すばらしい技術をもった会社」があるとしてそれを買う、資本を投入する、ということは、その技術の評価込みで買うわけで、これは「技術を盗用する」というのとは全くちがう話なわけですか、まさかそれもわかってないとか?

第二に、資本の自由な移動を妨げるということは(何でもかんでも自由にすればいいというものではないですが)、たとえば米国の「すばらしい技術をもった会社」の株式なりの正当な評価がなされないということでもあります。

第三に、これは「すばらしい技術をもった会社」の資本構成にかかわるフリーハンド(自由度)を制限することになります。たとえば急速に成長する中国市場への参入にあたって、現地資本と組んで事業展開を図るというのはありうる選択肢だと思いますが、それもできなくなるということです。

いずれにせよ、あまりアタマのよくない、スジの悪い発想じゃないかと疑います。

 

https://www.sankeibiz.jp/macro/news/180626/mcb1806260500014-n1.htm
 

「小公子」(原題:Little Lord Fautleroy)を吉田甲子太郎(きねたろう)訳(1954)で読む。吉田甲子太郎さんは1894年(明治27年)生まれだから、60歳での訳業ということになる。1957年に亡くなっている。享年63。

この小説を最初に読んだのは小学館の「少年少女世界の名作文学」で、調べてみると第14巻「アメリカ編5」村岡花子編 昭和39年(1964)9月20日、第1回配本で、小公子(バ-ネット原作 奈街三郎・文 原書名:Little Lord Fauntleroy)とある。吉田版に遅れること10年。

村岡花子さんは明治26年(1893)生まれであるから、このとき71歳で亡くなる5年前である。

翻訳の奈街三郎氏も明治生まれ(明治40年1907)で、1978年に亡くなっている。だから57歳での訳業ということになる。

「小公子」の最初の翻訳は吉田さんのあとがきによれば若松賤子(1864年元治元年生まれ)によるもので、1897年という。バーネットの原作が1886年だから遅れること11年だ。

おそらく奈街訳は抄訳なので、吉田訳の方が原文に近いだろう。面白いのは奈街訳では「フォントルロイ卿」となっているのが、吉田訳では「フォントルロイ殿」になっている。吉田氏はあとがきに原題の忠実な訳は「小さなフォントルロイ卿」だろうと書いているので、なぜ本文中の呼称をわざわざ「フォントルロイ殿」にしたのかは謎である。

セドリックは母親と手伝いのメアリと暮らしているが、母親も食料品店主のホッブズさんも、そしてセドリックも共和党びいきであるに対し、メアリははっきりと「私は民主党だ」といっている。セドリックはそれを聞いて以来、いつでもメアリの政治信条を変えさせようと努力する。原文のメアリの言葉は相当訛っている。Dearestはセドリックが母親を呼ぶ呼び方。メアリの述懐の部分(I がメアリで、he はセドリック):

“…'I'm a 'publican, an' so is Dearest. Are you a 'publican, Mary?' 'Sorra a bit,' sez I; 'I'm the bist o' dimmycrats!' An' he looks up at me wid a look that ud go to yer heart, an' sez he: 'Mary,' sez he, 'the country will go to ruin.' An' nivver a day since thin has he let go by widout argyin' wid me to change me polytics.”

最初の方で、セドリックがディックに、ハビシャム弁護士からもらったお金を渡して作らせた靴磨きの看板に「靴磨きの名人、ディック・ティプトン先生」とあるのだが、「先生」は何の訳かと思って原文をみると “PROFESSOR DICK TIPTON CAN'T BE BEAT” だった。プロフェッサーだとは思わなかった。”can’t be beat”も訳しにくい。

最後の方で、食料品店店主のホッブズ氏がセドリックからの手紙にあまりに驚いて、いつもと感嘆詞が違ってしまうというくだりがあるのだが、吉田訳では普段は「おらあ、あきれるね!」で、このときは「おらあ、まいったね!」になっている。グーテンベルク・プロジェクトで原文にあたってみるとそれぞれ原文は”I’ll be jiggered” 、“I’m jiggered” になっている。原文に忠実にするなら後者を「おらあ、あきれたね!」にする手もあっただろうが、確かに「まいったね」の方が効果的かもしれない。

アメリカの独立宣言は1776年だが、その後もいろいろあって最終的に英国が米国の独立を認めたのが1783年のパリ条約だから、小説はほぼ独立の100年後に書かれたことになる。バーネット夫人という人は英国生まれで、米国に渡って貧乏の中で作家で身を立てたという人だから、英国と米国の両方の感覚を身に着けていたのであろう。最後に出てくるこの小説唯一の悪人(といってもたいした悪ではないのだが)ミナがディックの兄の元の妻だったというのはいくらなんでも強引な設定だろうとは思うが、全体が御伽噺であるからそれはいいとして、最後、大の共和党びいきのホッブズさんはなんと英国に移住してしまうのである。この部分を忘れていた。かく、アングロサクソンの絆はかたいわけですな。

(映画「大日本帝国」について)
試写をみた黛敏郎が『これは非常に巧みにつくられた左翼映画だ』山本薩夫『これはうまくつくられた右翼映画だ』

★これは黛さんの方がするどいよね。山本さんは何を見てたんだか。

 

「(映画「大日本帝国」の製作中)天尾プロデューサーは非常に不満だったんですね。…天尾としては、天皇陛下のために戦って死んでいく純粋さというものをもっと書き込んでもらわないと、こういう映画はヒットしないということを言うんだね。でもそれはお前は戦争へ行っていないからそういうことを言えるんであって、俺は実際、戦争へ行ってね、二言目には「天皇陛下のために」とぶん殴られたんだから、「天皇陛下のために」なんて簡単に言えないって言ったんだよ。かれは生まれは戦前だけど、戦後っ子だから軍隊の経験もないしね。考えてみると、あの世代(天尾氏は昭和8年生)というのは非常に右翼的なんですよね。」

 

「絓秀実「今上陛下でさえ、父殺しをやってるんですからね。…昭和天皇の大葬の礼で、宮内庁が用意した…昭和天皇は「世界の平和と日本の繁栄を祈念し」ていたという文章…そこを「世界の」を取って読んだんですよね。まあ、それくらいの根性が今上陛下にはあるんですよね」

 

「いくら『反戦平和!』と絶叫してみたところで、それで戦争に巻き込まれないという保証は1%もない。必要なのは、戦争を避ける知恵である。『戦争はいやだ!』と叫ぶ純心な〈情緒〉より、あの手この手を使って(ずる賢く)戦争を躱してしまう〈知恵〉を持つことである」

「現行憲法は戦後米国におしつけられたのだ」という人がいますが、「誰が」押し付けられたかが問題だと思います。押し付けられたのは、第二次世界大戦を戦う方向に導いた日本の旧来の支配層です。もちろん、日本の一般庶民も、新聞と一緒になって日中戦争を推し進め、対米英開戦には快哉を叫んでいたのですから、責任なしとはしません。しかし、旧来の支配体制(国体)をなんとしても守りたかったのは、天皇家と旧華族に代表される支配層です。

「現行憲法第9条があったからといって北朝鮮の(中国の)核攻撃から日本を守れるのか」などという人がいますが、他国がミサイルを撃ち込む気になったら、日本の憲法になんと書いてあろうが関係ないでしょう。「あたりまえのことなのになぜ反対されるのだろう」と多少は相手の知性に敬意を払うことも必要ではないでしょうか。

日本は第二次大戦において、連合国に対して敗北したわけですが、連合国の一員であった米国は、戦勝の果実を他の国にわけてやろうという気はなかったようで、東西(冷)戦の最先端基地として「不沈空母」(中曽根康弘)である日本を利用することが最優先だったと思われます。

敗戦後、すぐに日本に乗り込んできたマッカーサーの率いる占領軍は、最初から天皇を残し、間接統治するという腹でいたと思われます。これは、天皇を戦犯として処刑すれば日本国民が陰に陽に抵抗して、米国が負担しなければならない占領のコスト(まずは米国兵の生命損失)が跳ね上がると踏んだからで、別に天皇がイノセントだと思っていたわけではないでしょう。

占領軍はまず日本政府に新しい憲法草案を作らせましたが、ほとんど明治憲法そのものみたいな案が出てきて、それでは米国の輿論も他の連合国も納得しないのは明らかでした。業を煮やしたマッカーサーは占領軍に命じて新憲法の草案を準備させるわけですが、このとき草案作成にあたったスタッフはかなり理想に燃えていたフシがあるのと、さらに何しろ米国にしても対日本戦で10万人くらいは殺されているわけですから、日本が二度と軍国主義にならないように、軍隊を持たないようにという気持ちが強かったのでしょう。だからほぼ草案のまま邦訳されて確定した新日本国憲法は理想主義的・平和的なのでしょう。

ポツダム宣言同様、新日本国憲法も戦勝国=連合国にとっては諸刃の刀といえます。米国の都合にあわせて書かれた憲法ではありますが、逆に米国の手も縛ることになってしまいました。日本を戦争の出来ない国にすると、こんどは一方で東西(冷)戦がはじまれば西側の最先端(もっとも韓国がありましたが)としての戦力として期待することができなくなります。

一旦新憲法は決められたものの、その後占領軍の態度は180度変わっていく。これはサンフランシスコ講和条約が締結される前から変わってしまっているわけです。警察予備隊からはじまって自衛隊へと、日本の事実上の再軍備は米国の占領軍の指示のもと、共産革命をおそれる日本の支配層が嬉々として進めてきたのです。

その時に憲法も同時に変えれば後々「自衛隊は違憲」などといわれずにすんだのでしょうが、米国にとっては日本国憲法と自衛隊の論理矛盾なんかはどうでもよかったのでしょうね。結果として明らかな違憲状態で自衛隊が拡充されてきた。長沼ナイキ訴訟にしろ、砂川判決にせよ、司法も四苦八苦しておりますが、明らかに「軍隊は持たない」という憲法に対して、現実には自衛隊という軍隊がいるわけですから、おかしなことがいろいろおきてくるわけですが、全ての原因は自己の都合を最優先してことを進めてきた米国とそれに迎合してきた支配層(かなりの部分は保守派)にあるのは明らかです。

憲法の条文がどうであろうとそれがそのまま戦力になるわけではない。しかし、この平和憲法と自衛隊の矛盾=緊張関係は、ただ自衛隊の現状を追認するという形で解消すればいいというものではない、と私は考えます。

第一にこの矛盾があるので、自衛隊の軍隊への変更とか、無制限な拡大というものに歯止めがかかっています。私は自衛隊がイラクへ行ったのは、「平和的な活動である」とか、どういい繕っても自衛隊の海外派兵であると思いますが、こういった平和国家として有得べからざる事態に対して反対の声を上げる根拠になるのが現行憲法、なかんずく第9条です。ここで、第9条に「自衛隊は除く」と書いてしまったら、すべての箍(たが)が外れてしまいます。極端な場合、日本の再軍備、核武装についても、反対する根拠が大きく損なわれることになります。

第二に「北朝鮮の脅威に対抗する」とか「中国の進出に対抗する」とか「尖閣諸島を守れ」とかいうご意見もありますが、それらに対抗することは今の自衛隊ではもちろんのこと、いくら自衛隊を増強しても実際にそういう事態になったら防ぎようがないと思います。北朝鮮は核を本当に廃棄するのかどうかわかりませんが、核武装した国と通常武力で対抗するのは無理でしょうし、いわんや中国は世界第2位のスーパーパワーです。いくらアメリカから兵器を大量輸入するとしても、経済力からいっても人的資源からいっても対抗することは不可能です。自衛的戦力というのは抑止力の一部を担うだけであって(いわゆる「ヤマアラシ論」)、安全保障を担保するのはそれを含めた経済協力、文化交流、そして「東洋の小国」として生き残っていくためのしたたかな外交と政治が必要でしょう。

結論として、現行憲法の改訂には慎重の上にも慎重であるべきだと思いますし、昨今の「改憲論」を見ておりますと、むしろ現行憲法を変えない方が本邦の利益であると考える次第です。