安倍晋三さんの「新しい国へ」について
安倍晋三氏の著書「美しい国」あらため「新しい国」を読んでいる。多少の改訂はしたのであろうからマシになったかと思いきや、半分も読まないうちに欺瞞・虚偽・問題のすり替えの嵐。とりあえず平壌宣言で拉致問題は終了したと合意したことには口を拭っているのですね。もっとも、社会党なんかはなから「北朝鮮が拉致なんかするわけがない」とか言っていたのだから、一部の人たちでも奪還したのはすばらしい成果だとは思いますが。
安倍さんは1960年の安保反対運動に欺瞞を感じていたといいいます。正しい認識だと思います。岸信介氏(祖父)は安保条約を日米対等なものにするべくがんばったといいます。それも正しいでしょうが、現在に至るまで対等になっていないのも事実です。それは語らないのですね。
そして、安倍さんは「日本が真に独立国家になるためには自主憲法が必要だ」とおっしゃいます。
ここに論理の飛躍があるように思います。必要なのは「自主憲法」ではなく、敗戦国であることは消せないにしても仮にも講和条約を結んだ国同志として、最低限の日本の自主権を確保するための、日米地位協定の改訂をはじめとする地道な手当てでしょう。
自民党の「自主憲法案」なるものを見る限り、国民の権利を制限して、敗戦時に守りきれなかった「国体」を取り戻すのが目的のように思われる(あるいは思われてもしかたのない)案です。安倍さんは著書に表立っては書いておられませんが、「自主憲法」でないが故の「基本的人権」「主権在民」「平和主義」がいやだということが透けて見えてしまっています。
安倍さんは日露戦争に言及します。日露戦争とその結果について政府を「弱腰」と批判したのは民衆であり、それは政府が情報を公開しなかったからで、それは外交上必要なこと、常套手段だとまでいい、問題は単純ではないとおっしゃる。そのとおりなのかもしれないが、ではどうすべきか、どうすべきだったのかは書いておられません。情報を公開して国民に正しい情報を出すべきだったのではないのですか?むしろ、逆に外交を有利に進めるための(本当ですか?)結論が「秘密保護法」ですか?
民衆は、国の状況(特に日露戦争終結時に日本が経済的にも疲弊しつくしていたこと)を知らされるべきだったし、それをもし民衆が理解できないのなら20年かけて理解できるように教育すべきだったのではないでしょうか?明治時代では無理だったかもしれないが、今ならできることでしょう。
安倍さんは自民党の目標は「経済再建」と「自主独立」だったと言います。「経済再生」はうまくいったと言います。それによって生じたさまざまな社会のひずみには言及していません。もちろん紙幅も限られているだろうからそれは措くとしても、もうひとつの自主独立の第一の手段が「自主憲法」の制定なのか、そこが説明されていないと思います。
安倍さんはパスポートによって国が海外にいる国民をサポートすることを例に引いて「…国家の保護を受けられるということは、裏を返せば、個々人にも応分の義務が生じるということである」としていますが、これを読んで「権利と義務は対」と短絡する人が出てくるのではないでしょうか。
「日本では安全保障をしっかりやろうという議論をすると、なぜか、それは軍国主義につながり、自由と民主主義を破壊するという倒錯した考えになる」この文の方がよっぽど倒錯していませんかね。米国と共同で安全保障を担保するというなら、米国に対してモノが言える権利を担保するのが先でしょう?
安倍さんは、サンフランシスコ講和条約の11条を引いて、「靖国参拝」は講和条約違反ではない、と述べています。そりゃそうでしょう。中国政府(や韓国政府)が日本の要人の靖国参拝に反対するのは、日本の要人が、東京裁判で有罪とされ、処刑されたA級戦犯の思想信条行動に敬意を払うからです。
もっといえば「A級戦犯が悪かった。日本の人民には責任はなかった」という「御伽噺」を、中国として受け入れて「水に流す」のだから、その「御伽噺」を否定するようなことを日本の要人にやられたのでは中国政府の中国人民に対する立場がなくなる、ということなのです。
だれも厳密に、靖国参拝は条約違反かどうか、などという法律問題を論じているわけではないのです。(「水に流す」というのはすぐれて日本的表現ですが、わかりやすさのためにあえて使いました)
では、安倍さんは中国政府に対して「日本国政府要人による靖国参拝は、サンフランシスコ講和条約をはじめ各国との平和条約に全く違背しない。これを非難することは国際法上誤りである。直ちにやめていただきたい」と主張したことがあるのでしょうか。そこまできっちり議論をするのならそれはそれで評価しますよ。
その後の議論はひょっとしたら実りのあるものになるかもしれないからです。でも、しない。できないのだろうと思います。なぜなら、「新しい国へ」に書いてあるような議論は日本国内でのみ通用するもので、ようするに「内弁慶」なのですから。(余談ですが、日本会議の皆さんは海外での「布教活動」はしておられるのでしょうか)
第二章の最後にアーリントン墓地の話が引かれています。
「もし靖国でA級戦犯を追悼するのが悪いというのなら、米国大統領が南北戦争時の南軍兵士が埋葬されているアーリントン墓地に「参拝」(っていうのかね、アメリカ人が)するのは、米国大統領が奴隷制を認めるようなものだ」というのですが、これを読んだだけでこういう論理がどうして出てくるのか、クラクラしますが、あえてマジレスすると、アーリントンの南軍兵士に関して言えば、いかなる意味でも彼らは犯罪者ではない。内乱罪も適用されず、南北戦争は国際的戦争とみなされているようですよ。(追記:内戦との認識の方が普通らしいです。内戦ならなおのこと、日本の戦犯と比べるのはおかしいんじゃないでしょうか)
一方で、日本のA級戦犯は極東軍事裁判において犯罪者だと断罪され、当否は別として、日本は国際社会に対してこれを受け入れて講和条約を結んだのだということをよく理解しておくべきでしょう。
もし、A級戦犯を犯罪者と認めた上で、さはさりながら、彼らの主張・信条・思想にも認めるべきところがある、というのであれば、そのように主張し、中国政府とも韓国政府とも議論すべきところでしょう。「国のために戦った人々に哀悼の意を表するのは当然のこと」といった、「かすりもしない論説」で、わかったような気になるのは、仲間内で言っている分にはいいのでしょうが、国際社会でも、国内でもまともな大人が相手であれば、通用する議論ではありません。
第3章 p.87 「(日の丸・君が代に否定的な人)にとっては、W杯の日本のサポーターの応援ぶりも、きっと不愉快なことなのにちがいない。ただ、その不愉快さには、まったく根拠がないから、かれらの議論にはなんの説得力もない」ここに微妙なずれを感じます。「不愉快」というのとは違うのです。
安倍さんは「一部の人たちは『日の丸』『君が代』に、よい思いをもっていないのだ」と言う。そりゃそうですよ。「天皇のために」といって310万人も日本人が死んだのですよ。
私は日本国憲法についても、天皇制については徐々に離脱すべきだと思っています。
だから、一部の若い人たちが、日本的なものに「盲目的に依拠」してもらいたくない。歴史を認識し「道を誤った日本」について他国の人たちがどういう理解をしているのか、それを理解した上で、日本という国を考えてほしい、といっているのです。もちろん「道を誤った」のにも理由はあるし、一部の人がどうがんばっても変えられなかった歴史であるとは重々承知していますが。
この本(「新しい国へ」)を読む限り、安倍さんは天皇制を所与のものと考えているフシがあります。天皇家の系統の跡づけは長年にわたってできるのでしょうが、なにより人間であると宣言したひとつの家族を特別視し、憲法にまで書き込んでその人権を制限すること、そのこと自身に大きな問題を感じます。
そういう特別な人・家族がいるということを所与として、それに関連付けて、愛国心とか、国に対する忠誠心とかを持てというのは、まず第一に科学的でないと考えます。
「天皇がいて、日の丸があって、君が代を歌って、日本はすばらしい特別な国だ、自分はその一員でうれしい」という感情にとらわれるのが容易なのもわかっているし、おそらくは気持ちがいいのだろうことも理解できます。それによって生きるのが楽になるのかもしれません。しかし、それは同時にとても危険なことだと思います。
そういう一種の「愛国的陶酔」はどこの国でもありえます。あえて言わせてもらえば、米国や英国にはそういう陶酔に浸る人がかなり多いと思います。私は、けっしてそれはいいことだとは思いません。