「小公子」(原題:Little Lord Fautleroy)を吉田甲子太郎(きねたろう)訳(1954)で読む。吉田甲子太郎さんは1894年(明治27年)生まれだから、60歳での訳業ということになる。1957年に亡くなっている。享年63。

この小説を最初に読んだのは小学館の「少年少女世界の名作文学」で、調べてみると第14巻「アメリカ編5」村岡花子編 昭和39年(1964)9月20日、第1回配本で、小公子(バ-ネット原作 奈街三郎・文 原書名:Little Lord Fauntleroy)とある。吉田版に遅れること10年。

村岡花子さんは明治26年(1893)生まれであるから、このとき71歳で亡くなる5年前である。

翻訳の奈街三郎氏も明治生まれ(明治40年1907)で、1978年に亡くなっている。だから57歳での訳業ということになる。

「小公子」の最初の翻訳は吉田さんのあとがきによれば若松賤子(1864年元治元年生まれ)によるもので、1897年という。バーネットの原作が1886年だから遅れること11年だ。

おそらく奈街訳は抄訳なので、吉田訳の方が原文に近いだろう。面白いのは奈街訳では「フォントルロイ卿」となっているのが、吉田訳では「フォントルロイ殿」になっている。吉田氏はあとがきに原題の忠実な訳は「小さなフォントルロイ卿」だろうと書いているので、なぜ本文中の呼称をわざわざ「フォントルロイ殿」にしたのかは謎である。

セドリックは母親と手伝いのメアリと暮らしているが、母親も食料品店主のホッブズさんも、そしてセドリックも共和党びいきであるに対し、メアリははっきりと「私は民主党だ」といっている。セドリックはそれを聞いて以来、いつでもメアリの政治信条を変えさせようと努力する。原文のメアリの言葉は相当訛っている。Dearestはセドリックが母親を呼ぶ呼び方。メアリの述懐の部分(I がメアリで、he はセドリック):

“…'I'm a 'publican, an' so is Dearest. Are you a 'publican, Mary?' 'Sorra a bit,' sez I; 'I'm the bist o' dimmycrats!' An' he looks up at me wid a look that ud go to yer heart, an' sez he: 'Mary,' sez he, 'the country will go to ruin.' An' nivver a day since thin has he let go by widout argyin' wid me to change me polytics.”

最初の方で、セドリックがディックに、ハビシャム弁護士からもらったお金を渡して作らせた靴磨きの看板に「靴磨きの名人、ディック・ティプトン先生」とあるのだが、「先生」は何の訳かと思って原文をみると “PROFESSOR DICK TIPTON CAN'T BE BEAT” だった。プロフェッサーだとは思わなかった。”can’t be beat”も訳しにくい。

最後の方で、食料品店店主のホッブズ氏がセドリックからの手紙にあまりに驚いて、いつもと感嘆詞が違ってしまうというくだりがあるのだが、吉田訳では普段は「おらあ、あきれるね!」で、このときは「おらあ、まいったね!」になっている。グーテンベルク・プロジェクトで原文にあたってみるとそれぞれ原文は”I’ll be jiggered” 、“I’m jiggered” になっている。原文に忠実にするなら後者を「おらあ、あきれたね!」にする手もあっただろうが、確かに「まいったね」の方が効果的かもしれない。

アメリカの独立宣言は1776年だが、その後もいろいろあって最終的に英国が米国の独立を認めたのが1783年のパリ条約だから、小説はほぼ独立の100年後に書かれたことになる。バーネット夫人という人は英国生まれで、米国に渡って貧乏の中で作家で身を立てたという人だから、英国と米国の両方の感覚を身に着けていたのであろう。最後に出てくるこの小説唯一の悪人(といってもたいした悪ではないのだが)ミナがディックの兄の元の妻だったというのはいくらなんでも強引な設定だろうとは思うが、全体が御伽噺であるからそれはいいとして、最後、大の共和党びいきのホッブズさんはなんと英国に移住してしまうのである。この部分を忘れていた。かく、アングロサクソンの絆はかたいわけですな。