調査日誌209日目 -【YouTube版】「熊川兵庫日記に見る安政の浪江宿大火」- | 『大字誌 浪江町○○』調査日誌

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旧「『大字誌浪江町権現堂』編さん室、調査日誌」のブログ。2021年3月12日より『大字誌 浪江町権現堂』(仮)を刊行すべく活動をはじめました。2023年11月1日より町域全体の調査・研究のため新装オープン。

2021年10月7日。

 

浪江町大字権現堂について研究中の西村慎太郎です😊

YouTube版「『大字誌 浪江町権現堂』編さん室、調査日誌」第3回目を配信しました😄 配信したのはちょっと前なんですが、すっかりブログで紹介するのを失念していました😅

 

第3回目は「熊川兵庫日記に見る安政の浪江宿大火」です。

 

 

このブログだと関係する記事は以下の通りです。

調査日誌(勉強中)188日目 -相馬中村藩家老熊川兵庫の日記に見る安政の浪江大火-

 

熊川兵庫とは、相馬中村藩の家老で、熊川胤隆といいます。熊川兵庫の資料は相馬市博物館資料叢書の『旧相馬藩家老熊川家文書』1~19として刊行されていて、「御用番日記」に安政の浪江大火に関する記事があります(『旧相馬藩家老熊川家文書』5、相馬市教育文化センター、1997年、54頁)。

 

 (安政6年2月10日条)

 一、今暁浪江町より急飛脚を以代官より御用聞

    迄申越候趣、昨九日夕八つ時頃浪江町南

    側中程より出火、追々延焼、西入口三軒残

    り候計、両側不残類焼、陣屋幷御蔵々ハ残

    り候旨、渡部富右衛門申聞候事、

 

この日の朝早くに北標葉郷代官から急飛脚がやってきます。その内容は、昨日9日の夕八つ時(午後2時頃)に浪江町の南側の中程より出火し、延焼して、西側の入口の3軒ばかりを残して、宿場の両側(南北)は燃えてしまいました。陣屋や蔵は残ったと渡部富右衛門が伝えてきた、ということです。

 

『奥相志』(『相馬市史 4 資料編1』、相馬市、1969年、1082頁)には「安政六己未年二月九日火災〈未の刻、鍛冶失火〉、合肆尽く焼失、災を脱する者僅かに三戸」と記されていますが、より細かい記述ですね。

特に注目されるのは次の4点。①出火時刻が「夕八つ時頃」と記されている点。②第二に、出火場所が宿場の南側の真ん中あたりという点。当時の浪江宿は現在の国道114号線沿いです。その両側町の南側から出火して、延焼してしまいました。③宿場西側の3軒のみ類焼を免れてあとはすべて燃えてしまったという点。④陣屋や蔵は無事であったという点、です。

 

その他、熊川兵庫は浪江宿の救済や復旧についても指示を出していますので、これらについてはブログをご覧下さい😄

調査日誌(勉強中)189日目 -安政の浪江大火の被災者救済について-

調査日誌(勉強中)190日目 -安政の浪江大火の被災地復旧のための木材について-

調査日誌(勉強中)191日目 -安政の浪江大火の被災地復旧は弘化元年に准ずる-

調査日誌(勉強中)192日目 -安政の浪江大火の火の元-