調査日誌(勉強中)192日目 -安政の浪江大火の火の元- | 『大字誌 浪江町○○』調査日誌

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旧「『大字誌浪江町権現堂』編さん室、調査日誌」のブログ。2021年3月12日より『大字誌 浪江町権現堂』(仮)を刊行すべく活動をはじめました。2023年11月1日より町域全体の調査・研究のため新装オープン。

2021年9月20日。

 

浪江町大字権現堂について勉強中の西村慎太郎です😊

数回にわたって相馬中村藩家老の熊川兵庫の日記「御用番日記」(『旧相馬藩家老熊川家文書』5、相馬市教育文化センター、1997年)の安政6年(1859)2月10日条から安政の浪江大火に関する記事を見てみました。

この2月10日条以降、熊川兵庫の日記から浪江大火の被災者救済と被災地復旧に関する記事はあまり多くありません。というのも、日記は2月のあと、10月に飛んでしまうからです😥 そこで今回はのこりの日記に見える浪江大火の救済・復旧記事を確認してみたいと思います。

 

 (2月18日条)

 一、浪江町より志賀乾昨日帰り、去ル十日え記し

    置候通、焼失難渋者え諸事取扱候旨申出

    候事、

 一、火元ハ鍛冶職文七と申もの全く失火ノ由、

 

 (2月19日条)

 一、日数五日籠舎  浪江町文七

    右は失火いたし、駅内尽く類焼いたさせ候ニ

    付、

 

この2日分の記事だけですが、いくつかのことが分かります。

まず、18日に復旧に当たっていた藩士の志賀乾が戻って来て、10日に命じた浪江の人びとに対する救済・復旧を取り扱ってきたと伝えてきました。志賀乾については検討中ですが、相馬藩における二宮仕法(報徳仕法)の担当者のひとりです。以前のブログでも書いたように浪江町=権現堂村は二宮仕法(報徳仕法)を行っている村なので、ほかの村と救済・復旧の方法が異なっていた模様です。このあたり具体的にどのように異なっているのか、そもそも何故、二宮仕法(報徳仕法)の村が他と異なるのかなど、重要な研究課題だと思います。

 

志賀乾が派遣された記事は以下のとおりです。↓

調査日誌(勉強中)191日目 -安政の浪江大火の被災地復旧は弘化元年に准ずる-

 

次に、火元は鍛冶職文七という家であるという点も記されています。相馬藩内の歴史や地理を記した『奥相志』(『相馬市史』相馬市、1969年)にも「鍛冶失火」と記されています(1082頁)。そして、この失火に対して、入牢5日を命じられています。現在でいうところの重過失失火罪というところでしょうか😥

この記事から次の2点がうかがえます。

 

第一に、浪江町の中に鍛冶職が居住していたという点。失火場所については、熊川兵庫日記2月10日条に「浪江町南側中程より出火」と記されていますので、宿場の中心に鍛冶職文七は住んでいたことが分かります。すでに近世都市史研究や近世身分制研究において、鍛冶職の居住制限が指摘されています(秋山國三・仲村研『京都「町」の研究』法政大学出版会、1975年)。これは火災の恐れがあるためですが、浪江町には宿場の真ん中に居住していたようです。

 

第二に、鍛冶職文七が籠舎(=入牢)を命じられているという点。つまり、浪江町=権現堂村にあった北標葉郷の陣屋の中に牢屋があるということです。実際に南標葉郷の長塚陣屋にも牢屋は確認できます(「長塚陣屋平面図」(『双葉町史資料シリーズⅡ 長塚村郷土誌』双葉町教育委員会、1984年))。

文七はその後どうなったのでしょうか。残念ながら不明です。

 

これから寒い時期、乾燥する時期に突入しますので、皆さんも火の元には十分に気を付けてください。