調査日誌(勉強中)193日目 -安政の浪江大火の復旧に当たった竹木奉行- | 『大字誌 浪江町○○』調査日誌

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旧「『大字誌浪江町権現堂』編さん室、調査日誌」のブログ。2021年3月12日より『大字誌 浪江町権現堂』(仮)を刊行すべく活動をはじめました。2023年11月1日より町域全体の調査・研究のため新装オープン。

2021年9月21日。

 

浪江町大字権現堂について勉強中の西村慎太郎です😊

数回にわたって相馬中村藩家老の熊川兵庫の日記「御用番日記」(『旧相馬藩家老熊川家文書』5、相馬市教育文化センター、1997年)から安政の浪江大火に関する記事を見てみました。

熊川兵庫の日記によれば、安政の浪江大火の復旧には藩の竹木奉行である門馬亘が担当したようです。

調査日誌(勉強中)191日目 -安政の浪江大火の被災地復旧は弘化元年に准ずる-

 

この門馬亘とは、中村城下町鷹巣町北側(現在の相馬市中村西山)に住していた100石取りの藩士です(『安政二年以呂波分相馬藩士人名辞典』古今堂書店、1933年、24頁)。なお、100石取りの藩士は相馬藩にとって、比較的大きな石高を持っている者といえます。ちなみに、家臣で最も大きな石高を有したのは岡田監物で1336石でした(『安政二年以呂波分相馬藩士人名辞典』6頁)。

 

 

では、竹木奉行とはどのような役職だったのでしょうか。『相馬藩政史』上巻(相馬郷友会、1940年)656頁によれば、定員2名で「家中百石以下ヨリ選任」であり、「竹木取締並家中薪炭世話役」を務めていたことがうかがえます。浪江大火の記事からは建材の確保に当たったようでしたが、薪炭の管理もしていることが分かります。

また、藩政が論じられた城下町堀川町の会所には竹木奉行詰所がありました(『相馬藩政史』上巻、653頁)。

残念ながら、これ以上についてはよく分かりません😥 たとえば藩が管理した御林が領内各地にあり、おそらく安政の浪江大火の時にもそこから伐り出されたと思いますが、陣屋内には在郷給人が務める「御林取立」という役職があり、彼らとの連携が推測されます。このあたり、日常時と非常時でどのように各役職が動いたか、重要な研究の論点かと思います。