2021年9月19日。
浪江町大字権現堂について勉強中の西村慎太郎です😊
前回は相馬中村藩家老の熊川兵庫の日記「御用番日記」(『旧相馬藩家老熊川家文書』5、相馬市教育文化センター、1997年)から安政の浪江大火での被災者への木材支給について検証しました。
この木材支給に続けて、主に検断所(いわゆる宿場の問屋場)・御用宿(御殿のことか)についてと目される3ヶ条のことが記されており、最後に竹木奉行の役割も見えますので、今回はそれらを検討してみたいと思います。
一、馬屋えは上道具・柱共、外垣草ニは
松葉ふき、地はすち木を被下候事、
一、竹木被下候下ケ夫ハ在郷ニテ猶吟
味ノ上、取下ケ郷役より手伝可然
候、
一、惣体御扱其外検断所・御用宿ノ類ハ
追テ可被及御沙汰候、
右は弘化元辰年同駅類焼ノ時幷原町同
断ノ節、御扱同様ノ事、
一、此前々ハ竹木奉行壱人早速被相出
候処、御仕法村ニ付、臨時之取扱も
可有之旁諸事取計ノ為、勘定奉行
より志賀乾え竹木奉行門馬亘ヲ付、
今暮迄出立申付候事、
第1条目は馬屋に関する記述。「上道具」という用語は不明。この一文は「ともに何か」が記されていないので分からないのですが、垣根は松葉を葺きました。地面に敷いた(あるいは置いた)「すち木」についても不明。この馬屋は検断所のことだと思われるので、そこで用いる建材も支給されたということだと思いますが😅
第2条目は竹木を支給する際、その竹木を伐り出す人夫は村方にて吟味の上、「取下ケ郷役」が手伝うようにした方がよいという記述。「取下ケ郷役」は藩の御林を抱える相馬藩領の村では伐り出しのための役負担でしょうか。もう少し、他の資料も合わせて考えたいと思います。
第3ヶ条目は全体の取り扱いやそのほかの検断所・御用宿の類は追って(藩主が)御沙汰をなさるつもりである。この3ヶ条目の評価がちょっと難しくて、検断所・御用宿のそのほかのことについてとして判断しましたが、一方で「そのほか、検断所や御用宿…」とも考えられます。そうすると第1条目の馬屋は検断所とは別に考える必要があるかもしれません。
この3ヶ条を受けて、今回の大火の救援・復旧は弘化元年(1844)の浪江や原町の大火と同様の扱いにすると述べているので、安政6年(1859)から遡ること15年前にも同じ規模の大火があったことがうかがえます。弘化元年の浪江・原町の大火については管見の限り不明です。
そして、これらの記事を受けて、以前の復旧に際しては早速竹木奉行が現地に向かったが、今回の浪江宿=権現堂村は二宮仕法の村(二宮尊徳による尊徳仕法を行っている村)なので、特別な取り扱いもあるかもしれないので、諸事取り計りのため、勘定奉行より志賀乾(二宮仕法担当者のひとり)に竹木奉行門馬亘を附属させて、今日の暮までに出立するよう申し付けたと記されています。
二宮仕法を行っている村での災害復旧にどのような取り扱い方の違いがあるのか、研究課題となりそうな点です。