2021年10月6日。
浪江町大字権現堂について研究中の西村慎太郎です😊
前回は戊辰戦争後の相馬中村藩の軍制改革と北標葉郷の在郷給人たちによって編制された就義隊について確認しました。現段階では『相馬藩政史』上巻(相馬郷友会、1940年)の記述以外は確認できません。
ところで、今一度、戊辰戦争の話。『相馬藩政史』上巻(相馬郷友会、1940年)には、相馬中村藩の者でこの戦いで功のあった者が500名ほど記されています。その中に権現堂村出身の者がひとり含まれています。それが新谷七兵衛です(512頁~513頁)。
新谷家といえば、古くは中世標葉氏の家臣で、権現堂村にはその墓である新谷塚が遺されていたことで知られている名家です。新谷塚の伝承については以下をご覧頂くか、『「大字誌浪江町権現堂」のススメ』(いりの舎、2021年)をご覧下さい。
その新谷家は22石の在郷給人として権現堂村に居住していました(『奥相志』、『相馬市史 4 資料編1』、相馬市、1084頁)。戊辰戦争に従軍して功を挙げた七兵衛は中野卯右衛門「元扱」で、新谷萬右衛門の孫であることが『相馬藩政史』には見えます。「元扱」とは、戊辰戦争の際に麾下となったということでしょうか。このあたりはほかの人物にも記されています。
新谷七兵衛は、北標葉郷伊手村末永三郎(末永七郎右衛門二男)・小高郷小高村大内治兵衛・南標葉郷上羽鳥村渡邊己之助(巳之助の誤植ヵ)とともに金1000疋ずつが下されています。金1分=金100疋ですので、金2両2分に該当します。彼らはどのような功があったのか、『相馬藩政史』の記事を見てみたいと思います(513頁)。
右岩城領同木原・龍ヶ崎両所ノ苦戦引続、七月廿
九日浪江戦争ノ折ハ樋渡村ヨリ横撃憤戦、遂ニ大
勝ヲ得、翌朔日於幾世橋村力戦、敵ヲ斥ケ、味方
ノ至急ヲ救ヒ、其後初野・這坂両所ノ戦争隊中ニ
抽尽力仕、且又探索諸首尾等万端行届、実ニ忠
勤ノ至ニ奉存候、
ここで褒美を与えられた4名の活動が確認できます。まずは岩城平藩領の木原(詳細不明。どなたかどちら場所かご教示ください😅)と龍ヶ崎(いわき市中之作勝見ケ浦)での戦いに参戦しています。時期は不明。その後、浪江での攻防戦に参戦しますが、もし中野卯右衛門隊に加わっていたとすれば、広野での攻防戦でも山の手の間道の守護を行っていた可能性があります(『相馬藩政史』331頁)。
7月29日の浪江の戦いでは樋渡村に陣を構え、筑前藩を撃退しています。その翌日には幾世橋村の方へ進み、ここでも奮戦をしています。8月1日には新政府軍が浪江を占領し、相馬中村藩は降伏します。その後、新政府軍の一員となった相馬中村藩は休む間もなく、仙台藩を攻めることとなります。新谷七兵衛も従軍し、8月7日の戦いに参戦しています。
今回の記述から戊辰戦争当時の相馬中村藩の編制は郷ごとになっていたわけではなく、北標葉郷権現堂村新谷七兵衛・北標葉郷伊手村末永三郎・小高郷小高村大内治兵衛・南標葉郷上羽鳥村渡邊巳之助とバラバラであったことがうかがえます。