2021年9月17日。
浪江町大字権現堂について勉強中の西村慎太郎です😊
前回は相馬中村藩家老の熊川兵庫の日記「御用番日記」(『旧相馬藩家老熊川家文書』5、相馬市教育文化センター、1997年)から、安政6年(1859)2月9日に発生した安政の浪江大火の状況について検討してみました。安政の浪江大火については以下のブログ記事、またはYouTube版をご覧下さい。
さて、熊川兵庫の日記「御用番日記」の安政6年2月10日条には、被災者に対する臨時の給付金について記されていますので、今日はそこを検討してみたいと思います。
(安政6年2月10日条)
一、同断(浪江大火:引用者註)ニ付、昼会所出席、
御手宛方申談、治定方左之通り、
一、焼失者ノ内、難渋者えは家内人数え対し、
壱人ニ付、米壱斗積、
一、右同断ノものへ金壱分つゝ、小屋掛入用、
一、右同断ノものへ壱軒味噌五升宛、家内人
数三人以下えは同三升つゝ、
右之通拝借被仰付、上ケ方ノ義は追テ御吟味
可然候事、
但伝馬役不致候ものえは御扱なし、
浪江の大火を受けて、家老たちは会所で「御手宛」の方法を相談します。この「御手宛」とは被災者に対して藩からの臨時の給付金のことです。会所については『原町市史』通史編1(南相馬市、2017年)で詳細がまとめられているように、明暦2年(1656)正月17日に合議機関として成立し、老中(家老)1名・御用人1名・組頭1名・本締1名・郡代3名・物頭2名(足軽奉行・長柄奉行)・中目付1名・町奉行2名・在郷給人頭1名・勘定奉行3名が出席しました(542頁~544頁)。
会所で決定した罹災者対応は次の通りです。
①家を焼失した者のうち、難渋者へは家内の者1人につき米1斗支給
②家を焼失した者のうち、難渋者へは小屋掛入用金1分ずつ
③家を焼失した者のうち、難渋者へは1軒に味噌5升、家内の人数が3人以下なら味噌3升ずつ
会所での決定事項は藩主へも伝えられたと思われ、この通りに拝借を仰せ付けられたと記しています。「拝借」とありますが、多くの災害支援は「拝借」の形式ではありましたが、実際は支給でした。なお、支給方法については追って検討することにしようとあるので、まずは支給額のみを決定しました。
興味深いのは伝馬役を負担していない者に対する支給は行わないという点です。これは宿場の住民としての役負担=伝馬役を務めていない者に対しては支給しないということです。近世の身分制あるいは都市史として、伝馬役負担による町人身分あるいは町共同体による町人身分としての確定、役負担に伴う地子免除が議論されて久しいですが、浪江町の場合も同様であったことがうかがえます。