ゼルダの伝説 ビートル
しばらく前に「ビートルのせいでゼルダの世界が狭苦しくなった」と書いたが、ならば自分はビートルをゼルダをつまらなくした憎むべきアイテムだと思っているかというと、決してそうではないのであります。
ゼルダの伝説は、オカリナやタクトというような、ストーリーに関わる重要なアイテムの他に、ゼルダをゼルダたらしめている、ゲームに関わる重要なアイテムがどのシリーズにもある。初期のシリーズではブーメラン、時のオカリナではフックショット、今作ではビートルというように、それらのアイテムはプレイをする上で使用頻度が高く、それを前提にした仕掛けも多い。逆に、ダンジョンを攻略するためだけに登場して、その後ほとんど使わないアイテムってのも結構ある。
ブーメラン→フックショット→ビートルと書くと、そこには明確に特性の関連が見られる。敵を倒すだけでなく、遠くのアイテムの回収にも使えるこれらのアイテムは、リンクの体の大きさを超えて活躍する、リーチの長い「手」の役割を果たしてきた。今作のビートルはそれに加えて、新しい場所に来るとどんな仕掛けがあるか、どんな敵がいるかを確認しておこうという「目」の役割も担っている。ビートルが最初のダンジョンで手に入った時に、こんなゲームバランスを崩しかねないアイテムがこんなに早く手に入るとは、今回のゼルダは大丈夫か?と疑ったものだが、これは逆に製作側が今回のゼルダに自信を持っている事の現れだったのだ。「どうぞビートルでゼルダの世界を堪能してください」とでもいうような。
ビートルの視点で洞窟や狭い通路をくぐっていく時の言いようの無いワクワク感は、ゼルダの面白さというより、子供の頃にミニカーやラジコンで遊びながら自分がそれに乗って見える世界を想像する時の楽しさを彷彿とさせる。スカイウォードソードの世界の全ては、ビートルで探検するためにこうなったのだと言い切ってもいいのである(断定)。
ゼルダの伝説は、オカリナやタクトというような、ストーリーに関わる重要なアイテムの他に、ゼルダをゼルダたらしめている、ゲームに関わる重要なアイテムがどのシリーズにもある。初期のシリーズではブーメラン、時のオカリナではフックショット、今作ではビートルというように、それらのアイテムはプレイをする上で使用頻度が高く、それを前提にした仕掛けも多い。逆に、ダンジョンを攻略するためだけに登場して、その後ほとんど使わないアイテムってのも結構ある。
ブーメラン→フックショット→ビートルと書くと、そこには明確に特性の関連が見られる。敵を倒すだけでなく、遠くのアイテムの回収にも使えるこれらのアイテムは、リンクの体の大きさを超えて活躍する、リーチの長い「手」の役割を果たしてきた。今作のビートルはそれに加えて、新しい場所に来るとどんな仕掛けがあるか、どんな敵がいるかを確認しておこうという「目」の役割も担っている。ビートルが最初のダンジョンで手に入った時に、こんなゲームバランスを崩しかねないアイテムがこんなに早く手に入るとは、今回のゼルダは大丈夫か?と疑ったものだが、これは逆に製作側が今回のゼルダに自信を持っている事の現れだったのだ。「どうぞビートルでゼルダの世界を堪能してください」とでもいうような。
ビートルの視点で洞窟や狭い通路をくぐっていく時の言いようの無いワクワク感は、ゼルダの面白さというより、子供の頃にミニカーやラジコンで遊びながら自分がそれに乗って見える世界を想像する時の楽しさを彷彿とさせる。スカイウォードソードの世界の全ては、ビートルで探検するためにこうなったのだと言い切ってもいいのである(断定)。
ゼルダの伝説 古の大石窟
スカイウォードソードのダンジョンの一つである、古の大石窟について。中央に巨大な仏像が鎮座まします非常に大きな伽藍を模したダンジョンですが、以下ネタバレになりますが、これの攻略方法を挙げていきますと・・・
1.仏像の下半分が池に浸かっているので、水に潜って扉の鍵のヒントを入手する。
2.伽藍の1階部分をぐるりと回るように進む。
3.上に向かって噴き出している水流に乗って上に昇る。
4.蓮の葉めがけて飛び降りる。
5.仏像の内部の水流を使って上に昇ると、ボス部屋に至る扉を発見する。
6.毒の根が上を向いている蓮は、ムチを使って上下にひっくり返す。
7.水流に呑まれて伽藍の下層に行くと、上層とは打って変わって毒々しい雰囲気に。
8.スタルチュラがぶら下がる糸を切ってスタルチュラを落とす。
9.上層に戻って伽藍の周りをさらにぐるりと進む。
10.スイッチを押すと仏像が下層に沈み込む。
11.下層をぐるりと周り、蜘蛛の糸を伝って上に登る。そのときボコブリンもいっしょに登ってくる。
12.スイッチを押して仏像を上昇させてふたたび糸を伝って下に降りる。
13.地下の仏像があった場所にボス部屋への鍵がある。鍵を取ると仏像が自動的に下に沈む。
14.ボス部屋の扉に鍵を挿すと、仏像の首が上に長く伸びる。
15.伽藍の最上部にいるボスとバトル。
このダンジョンの構造は、上層の伽藍と下層の毒の地帯をぐるりと周りながら何度も上下に移動することでボス部屋まで至るようになっている。ここで物凄いのは、ダンジョン自体を仏教ぽく見せるだけでなく、御丁寧に「蜘蛛の糸」の演出まで取り込んで、仏教的な雰囲気とダンジョンの攻略を融合している点だ。「古の大石窟」はやたらと上に登ったり下に降りたりが多いと思っていたが、これは製作者が極楽と地獄を表現するために意図してデザインしているのだと思う。そんな訳で「古の大石窟」はとても美しいダンジョンだと思います。
上下に運動するのはリンクだけでなく、中央の大仏自体も上下に動くうえに、終いには大仏の首が長く伸びるというお釈迦様もビックリな展開になっている。あのシーンは余りの絵ヅラに大笑いしてしまいました。
1.仏像の下半分が池に浸かっているので、水に潜って扉の鍵のヒントを入手する。
2.伽藍の1階部分をぐるりと回るように進む。
3.上に向かって噴き出している水流に乗って上に昇る。
4.蓮の葉めがけて飛び降りる。
5.仏像の内部の水流を使って上に昇ると、ボス部屋に至る扉を発見する。
6.毒の根が上を向いている蓮は、ムチを使って上下にひっくり返す。
7.水流に呑まれて伽藍の下層に行くと、上層とは打って変わって毒々しい雰囲気に。
8.スタルチュラがぶら下がる糸を切ってスタルチュラを落とす。
9.上層に戻って伽藍の周りをさらにぐるりと進む。
10.スイッチを押すと仏像が下層に沈み込む。
11.下層をぐるりと周り、蜘蛛の糸を伝って上に登る。そのときボコブリンもいっしょに登ってくる。
12.スイッチを押して仏像を上昇させてふたたび糸を伝って下に降りる。
13.地下の仏像があった場所にボス部屋への鍵がある。鍵を取ると仏像が自動的に下に沈む。
14.ボス部屋の扉に鍵を挿すと、仏像の首が上に長く伸びる。
15.伽藍の最上部にいるボスとバトル。
このダンジョンの構造は、上層の伽藍と下層の毒の地帯をぐるりと周りながら何度も上下に移動することでボス部屋まで至るようになっている。ここで物凄いのは、ダンジョン自体を仏教ぽく見せるだけでなく、御丁寧に「蜘蛛の糸」の演出まで取り込んで、仏教的な雰囲気とダンジョンの攻略を融合している点だ。「古の大石窟」はやたらと上に登ったり下に降りたりが多いと思っていたが、これは製作者が極楽と地獄を表現するために意図してデザインしているのだと思う。そんな訳で「古の大石窟」はとても美しいダンジョンだと思います。
上下に運動するのはリンクだけでなく、中央の大仏自体も上下に動くうえに、終いには大仏の首が長く伸びるというお釈迦様もビックリな展開になっている。あのシーンは余りの絵ヅラに大笑いしてしまいました。
ゼルダの伝説 フロルのサイレン その3
スカイウォードソードを遊んでいて「リンクの精神世界でフロルのしずくを集めなさい」とかファイに言われて、しずくを集める精神の器が出てきた時、正直「またコレか」とガッカリした。このパターンは前作のトワイライトプリンセスにもあって、アレは初めて訪れる場所ではリンクが狼になって光の雫を集めるという設定だった気がするが、このイベントも「風のタクト」のトライフォース集め同様、非常にやらされ感の強いものだったのだ。
しかし今度の光の雫は違いました。単にアイテムを集めて行くだけのイベントではなく、リンクを捕まえる者(守護者)やアイテムを見張る者(監視者)やトラップ(シラレ)を配置して、ハイラルの世界で鬼ごっこをするようにアレンジしている。これもマクガフィン流で言うならば、ストーリー上のリンクの目的はフロルの雫を15個集めて水龍のウロコを手に入れる事だが、ゲーム上の目的はフォローネの森で鬼ごっこをするために、マップを移動させるためにフロルの雫を配置している。マクガフィンという考え方で映画やゲームを眺めると、マクガフィンが機能している場合はストーリーは時系列順に進んでいても、観客やプレーヤーの体験はストーリーとは逆に結果から原因に向かうようにできている・・・のではないかと思う。このあたりを上手く表現できるほどの文章力がないのがツラい所。
雫を取ると90秒だけ守護者が停止して、シラレに触れたり監視者に見つかると90秒の途中でも守護者が動き出す。これは全てストーリー上の設定ではなく鬼ごっこのためのルールである。トワイライトプリンセスでストーリーを進めるために無理矢理入れた感のある光の雫イベントが、スカイウォードソードではゲームとしてキッチリとアレンジされておりました。
しかし今度の光の雫は違いました。単にアイテムを集めて行くだけのイベントではなく、リンクを捕まえる者(守護者)やアイテムを見張る者(監視者)やトラップ(シラレ)を配置して、ハイラルの世界で鬼ごっこをするようにアレンジしている。これもマクガフィン流で言うならば、ストーリー上のリンクの目的はフロルの雫を15個集めて水龍のウロコを手に入れる事だが、ゲーム上の目的はフォローネの森で鬼ごっこをするために、マップを移動させるためにフロルの雫を配置している。マクガフィンという考え方で映画やゲームを眺めると、マクガフィンが機能している場合はストーリーは時系列順に進んでいても、観客やプレーヤーの体験はストーリーとは逆に結果から原因に向かうようにできている・・・のではないかと思う。このあたりを上手く表現できるほどの文章力がないのがツラい所。
雫を取ると90秒だけ守護者が停止して、シラレに触れたり監視者に見つかると90秒の途中でも守護者が動き出す。これは全てストーリー上の設定ではなく鬼ごっこのためのルールである。トワイライトプリンセスでストーリーを進めるために無理矢理入れた感のある光の雫イベントが、スカイウォードソードではゲームとしてキッチリとアレンジされておりました。
ゼルダの伝説 フロルのサイレン その2
ゲームにおけるマクガフィン、ゼルダの伝説の場合。ゼルダシリーズにおけるゼルダ姫は、ピーチ姫的なマクガフィンであったり、セレス的な感情移入する対象であったり、その立場は作品ごとに違っている。スカイウォードソードで言えば、ゼルダはセレスの立場に近い。しかしゼルダの伝説にはもう一つの強力なマクガフィン、トライフォースという仕掛けがある。
これまたゼルダの伝説だからトライフォースというだけで、これがクリスタルだろうが7つの封印だろうが何だって良い。リンクはトライフォースを完成させるために果敢にダンジョンに乗り込むのだけれど、プレーヤーにとってはダンジョンを遊びたいがためにダンジョンの最後にトライフォースのかけらが置かれているのである。いっそのことトライフォースが無くてもこちとら問題ないのだけれど、そこはそれ、一応ストーリーもあるし、ゲーム内で「なぜこんなダンジョンがあるのか・・・それは最後に宝物があるから」程度には動機付けしときましょうという程度のことである。この構造の中、ゼルダの伝説シリーズは数々の傑作ダンジョンを生み出して来た。
しかし、かつてそのトライフォースがマクガフィンであるのを止めてしまった事がある。ゲームキューブで出た「風のタクト」ではトライフォースはダンジョン攻略の動機ではなく海に沈むお宝として、トライフォース集め自体がプレーヤーの目的になってしまった。リンクだけに重要だったトライフォースのはずが、ひたすら地図を探して海からサルベージする、プレーヤーにとって単なる作業に成り下がった。「風のタクト」自体は面白い所もあったけど、アレのやらされ感は非常にキツかった。
「風のタクト」が発売された当時は、プレステ2に完全に押されていた時期で、任天堂としてもいかにゼルダとはいえじっくりダンジョンを作り込む時間がなかったという事情はあったのだろう。ならばトライフォース集めをバッサリ切る選択もあったのに、何故ああなってしまったかと考えると、理由として思いつくのは「ゼルダの伝説だからトライフォースは必須だよね」というストーリー上の制約である。ここに至って、トライフォースは本来はプレーヤーを遊ばせるためのマクガフィンだったのが、ゲームのストーリーにプレーヤーを従属させる枷になってしまった。結局面倒くさくて攻略見ながらタライとホースを集めましたが、それやっちゃうと作業感がいや増す感じ。クリアするためにアイテム集めを強いるというのは、ゲームの在り方として本末転倒なのだ。
これまたゼルダの伝説だからトライフォースというだけで、これがクリスタルだろうが7つの封印だろうが何だって良い。リンクはトライフォースを完成させるために果敢にダンジョンに乗り込むのだけれど、プレーヤーにとってはダンジョンを遊びたいがためにダンジョンの最後にトライフォースのかけらが置かれているのである。いっそのことトライフォースが無くてもこちとら問題ないのだけれど、そこはそれ、一応ストーリーもあるし、ゲーム内で「なぜこんなダンジョンがあるのか・・・それは最後に宝物があるから」程度には動機付けしときましょうという程度のことである。この構造の中、ゼルダの伝説シリーズは数々の傑作ダンジョンを生み出して来た。
しかし、かつてそのトライフォースがマクガフィンであるのを止めてしまった事がある。ゲームキューブで出た「風のタクト」ではトライフォースはダンジョン攻略の動機ではなく海に沈むお宝として、トライフォース集め自体がプレーヤーの目的になってしまった。リンクだけに重要だったトライフォースのはずが、ひたすら地図を探して海からサルベージする、プレーヤーにとって単なる作業に成り下がった。「風のタクト」自体は面白い所もあったけど、アレのやらされ感は非常にキツかった。
「風のタクト」が発売された当時は、プレステ2に完全に押されていた時期で、任天堂としてもいかにゼルダとはいえじっくりダンジョンを作り込む時間がなかったという事情はあったのだろう。ならばトライフォース集めをバッサリ切る選択もあったのに、何故ああなってしまったかと考えると、理由として思いつくのは「ゼルダの伝説だからトライフォースは必須だよね」というストーリー上の制約である。ここに至って、トライフォースは本来はプレーヤーを遊ばせるためのマクガフィンだったのが、ゲームのストーリーにプレーヤーを従属させる枷になってしまった。結局面倒くさくて攻略見ながらタライとホースを集めましたが、それやっちゃうと作業感がいや増す感じ。クリアするためにアイテム集めを強いるというのは、ゲームの在り方として本末転倒なのだ。
ゼルダの伝説 フロルのサイレン
サスペンス映画の帝王であるヒッチコック監督は、自身の作品の仕掛けを「マクガフィン」と呼んでいたそうな。マクガフィンの意味はWikiに詳しく出ているのでご存知で無い向きはそちらを参照して頂くとして、このマクガフィンの考え方は今では映画を語る上で、サスペンス映画のみならず、あらゆるジャンルの映画に有効だという認識がある。自分自身は映画に関してマクガフィンがどうのこうのと語れる知識もなく、畏れ多くて使ったことはないが、この考え方は映画よりもゲームの面白さを語る上でより有効なんじゃないかと思っている。
ということで、偉そうに使っちゃうよ、マクガフィンを。
マクガフィンは登場人物たちの目的であると同時に、それ自体は何だって良いものだという性質を持つ。例えばRPGのラスボスが悪い王様であれ悪い魔女であれ悪いドラゴンであれ、ソレ自体が何なのかということはプレーヤーがゲームをすることに対して何の意味もないということだ。ピーチ姫なんて、それこそゲームにおける最強のマクガフィンで、世界中で何億回とプレイされてきたスーパーマリオだが、その世界中のプレーヤーの誰一人として「はやくピーチ姫を助けなきゃ」という動機でプレイした奴などいないと断言できる。マリオの目的はプレーヤーにとって何の意味も無いものだから、逆説的だけれどピーチ以外である必要もない。「ピーチ姫がさらわれりゃええやん」で事足りる上に、マリオの面白さは言わずもがなのアクションでステージをクリアしていくインタラクティブなゲーム性なのである。
ピーチ姫と同じ立場にありながら意味合いが180度違っているのが「パンドラの塔」のセレスだと思う。こっちはゲームプレイの中に彼女でなければいけない理由があり、プレーヤーが彼女に肩入れをする気持ちも含めてゲームをプレイする動機付けになっている。そのためにはセレスの性格や彼女の状況を掘り下げる必要がある。「パンドラの塔」はゲーム性の善し悪しよりもセレスに思い入れることができるか、プレーヤーと操作キャラが一心同体となれるかどうかがそのままゲームの評価になっていて、そういう意味で、セレスはマクガフィンとして機能していない。
マリオがつまらないゲームと感じるのなら、それはアクション自体がダメだったからであり、パンドラの塔がつまらないと感じるのなら、それはセレスに思い入れることができなかったからである。それでもパンドラの塔はゲーム部分も良く出来ていたと思うが、どれだけ多くのゲームが、ゲーム部分を二の次にしてゲーム内のキャラクターのみに意味のある目的をプレーヤーにも価値があると錯覚してそれを押し付けようとして失敗したか。
長くなりそうなのでとりあえず続きます。
ということで、偉そうに使っちゃうよ、マクガフィンを。
マクガフィンは登場人物たちの目的であると同時に、それ自体は何だって良いものだという性質を持つ。例えばRPGのラスボスが悪い王様であれ悪い魔女であれ悪いドラゴンであれ、ソレ自体が何なのかということはプレーヤーがゲームをすることに対して何の意味もないということだ。ピーチ姫なんて、それこそゲームにおける最強のマクガフィンで、世界中で何億回とプレイされてきたスーパーマリオだが、その世界中のプレーヤーの誰一人として「はやくピーチ姫を助けなきゃ」という動機でプレイした奴などいないと断言できる。マリオの目的はプレーヤーにとって何の意味も無いものだから、逆説的だけれどピーチ以外である必要もない。「ピーチ姫がさらわれりゃええやん」で事足りる上に、マリオの面白さは言わずもがなのアクションでステージをクリアしていくインタラクティブなゲーム性なのである。
ピーチ姫と同じ立場にありながら意味合いが180度違っているのが「パンドラの塔」のセレスだと思う。こっちはゲームプレイの中に彼女でなければいけない理由があり、プレーヤーが彼女に肩入れをする気持ちも含めてゲームをプレイする動機付けになっている。そのためにはセレスの性格や彼女の状況を掘り下げる必要がある。「パンドラの塔」はゲーム性の善し悪しよりもセレスに思い入れることができるか、プレーヤーと操作キャラが一心同体となれるかどうかがそのままゲームの評価になっていて、そういう意味で、セレスはマクガフィンとして機能していない。
マリオがつまらないゲームと感じるのなら、それはアクション自体がダメだったからであり、パンドラの塔がつまらないと感じるのなら、それはセレスに思い入れることができなかったからである。それでもパンドラの塔はゲーム部分も良く出来ていたと思うが、どれだけ多くのゲームが、ゲーム部分を二の次にしてゲーム内のキャラクターのみに意味のある目的をプレーヤーにも価値があると錯覚してそれを押し付けようとして失敗したか。
長くなりそうなのでとりあえず続きます。