今日も定時ダッシュ -60ページ目

買う側としてはゲームが出過ぎても困る

 いや、そりゃまあ現役ハードで年に1本とかはさすがに困りますよ。それでも、ゲームなんてそんなに頻繁に買えるものでもなし。個人的にはWiiUのマリオとランドを子供達と遊びつつ、ちょっと積みゲー気味のゾンビUを夜中にちくちくと遊びつつも、メインはいまだにポケモンのブラック2だったりする。子供達は「どうぶつの森」をメインに遊んでいるので、我が家の環境だけで語れば、そんなにゲームを出されても正直困るのだ。願わくばWiiFitUが3月あたりに、ピクミン3がGWあたりに出ればいいけれど。

 自分のゲーム購入のペースを考えると、3DSか360かWiiUかで欲しいゲームが3ヶ月に1本出れば十分で、それ以上ゲームには自分の生活にのさばって欲しくない。実際はもっと買ってますが、たいてい積みゲーになってしまうので、勿体ないなあと思ってしまうのだ。もちろんこのペースは人によって違うので、中には「毎月ゲーム買わないと死んでしまう」という人だっているのかもしれない。でもねえ、、そういう人ってたいてい全機種持ってない?

 大変ワガママなことを言ってしまうと、「出なさ過ぎは困るが出過ぎても困る」というのが正直なところ。任天堂はユーザーに対して生かさず殺さずの微妙な手綱捌きでよろしくお願いします。

 このように、純粋な消費者視点で素直な気持ちだけで回っていけたら世の中平和なのだけれど、生憎とそんな単純な話でもないのであった。


ニンテンドーダイレクトについて

 先の1月23日のニンテンドーダイレクトについて、これまで任天堂はこういった予定のみのアナウンスはあまりしてこなかったが、発売直後のソフト日照りの悪評が堪えたのか、従来のスタンスからすると異例のダイレクトになりました。

 個人的には一番の期待はワンダフル101でしたが、ちょっとショックだったのが「風のタクト」のHD化。アレはなあ・・・トゥーンシェードのテイストは大好きで、序盤のダンジョンも凄いのだが、ゲーム後半がダンジョン攻略ではなく海に沈んだトライフォースの欠片をサルベージするためにフィールドを駆け巡るようになってしまい、しかも海の移動が面倒で、そらもう物凄く面倒で、攻略サイトを調べてサッサとクリアしたら、エンディングでおばあちゃんが病気になっていたことを知ったのだった。

 欲を言うならWiiU版ではダンジョンを4つくらい追加して、トライフォースの欠片をそこに分散して欲しいのだが、単純にHDにするだけだったら、「風のタクト」の最大の取り柄だったトゥーンも捨ててしまうことになる訳で、それだったらやらない方がいいのではないかと心配してしまう。なんだかリメイクの風のタクトをやりたいような、やりたくないような。

 話は変わりまして。今回、岩っちは「1月と2月のWiiUのラインナップを途切らせてしまってスミマセン」と深々と頭を下げた。わたしゃ50歳を越した岩っちの頭頂部が心配で、いつもそんなに90度で腰を曲げずに45度ぐらいでいいんじゃないかと思い続けているのだが、さすが社長はそんな自身の毛量のことなど頓着なく視聴者に頭を垂れていらっしゃいます・・・

 ・・・なんてことが言いたいのではなく、毛髪ではなくラインナップが薄いという件について、今回色々と思う事がありましたので、その辺りのことをツラツラと書いてみようと思います。
 

東京家族

 小津版にくらべて山田洋次の「東京家族」ってナンだいありゃあ・・・と言ってりゃなんか自分が訳知りの玄人っぽく見えるのだけれど、なんというのか、単純な優劣ではなく、「東京家族」は「東京物語」を前提とした作品としてとても「ヘンな映画」でした。

 自分が「東京物語」を観て感じた「なんだか凄い映画だった」というドシロートな物言いは本当にドシロートだから許される訳で、山田洋次監督ならば「東京物語」が技術的にどこがどう凄いのかをもっとハッキリと言葉にできる筈だ。そして実際に小津監督の技術をコピーしたような構図やシーンが数多く出てくるが、全体としてこの映画がオリジナルの完全コピーではない所に、山田監督がいかに考え抜いて「東京家族」を作り上げたかが偲ばれる。

 そのために、この映画を今の映画として観ると色々と歪な感じを受ける。オリジナルの構図を真似るために家屋は必要以上に狭苦しく、特にビューティーサロン ウララって何よあの昭和然とした店名と佇まいは?現代の感覚において、あの美容院がインターコンチネンタルの支配人(だったっけ?)の奥様が通う店には到底見えない。いまどき地方だってもっと小洒落た店じゃないと生き残れないだろうに・・・などと、ストーリーの辻褄から判断してはいけないのである。ああでも・・・美容室と台所の仕切りがあの玉スダレで良いのか、どうにも観ていて違和感がつきまとう。

 「東京物語」で原節子が笠智衆に「私、狡いんです」と告白するシーンもとても歪だった。いくらなんでもアレをそのまま「東京家族」では出来ないだろうと心配しながら観ていたら、妻夫木聡をわざわざ屋根の上にあげて邪魔者を追いやってしまい、山田監督ってばやる気マンマン。あそこもストーリーの都合ではない動機で、あのシーンを撮る意味が山田監督にはあったに違いない。

 このように、映像的に小津監督を踏襲しようとしている部分と、東北の震災に関わるエピソードをわざわざ入れたようなストーリーを饒舌に語ろうという部分がどちらもあって、「東京家族」自体は決してつまらない映画ではないのだけれど、映像が指向しているものがシーンごとにバラバラな感じでした。
 

東京家族の前に 東京物語

 Huluには小津安二郎監督の映画がいくつか入っているので、今度の「東京家族」の予習とばかりに「東京物語」を見てみました。この映画は20年くらい前にビデオで見たきりだったのですが、当時は若さ故に今ひとつピンと来なかった覚えが。

 それが今回は、「ああ、これはなんとも形容しがたい凄い映画だったわい」というのが正直なところ。面白いのだけれど、黒澤明のようなハッキリした面白さではなく、ホームドラマのように分かりやすいものでもない。自分は切り返しを多用した掛け合いのリズムだとか、開けた引き戸や窓枠といった四角形のオブジェクトを使ったカチっとした構図(これが時々、日本家屋の狭さと相まって自分には息苦しく感じられるのだが)による撮影など、若い頃にはスッカリ見落としていた画面の特徴に惹かれて映画を見ていた。

 切り返しを多用すること自体は、今となっては非常に怠惰な演出とみなされがちだが、「東京物語」ではそれがプラスに働いているのは、そこで遣り取りされている会話が、敢えて言うなら「非常に他愛も無いもの」だったからだと思う。「東京物語」は瀬戸内の田舎から戦後の復興著しい東京に出て来た老夫婦が、子供達に持て余し気味に扱われながらも「そういうもんだわなあ」で受け入れるという、言ってしまえば「だからナンなんだ?」という映画である。劇中で交わされる多くのセリフは、観客にとっても身に覚えのあるものが多く、ということは、必死に耳でセリフを聞いて映画を理解するような必要が無い訳である。そういったセリフを聞きながらテンポの早い画面を観ていると、自然と監督の演出に乗せられていくように映画に入り込んでいく。

 今回「東京物語」を見て発見したのは、主要なキャストの全員が名優と称されている役者陣だが、杉村春子を除いて演技の上手さを見せつけるような印象が無いことだった。他のキャストは概ね笠智衆に代表されるように訥々とセリフを喋り、監督の切り返しの演出方法のために演技もブツ切りにされ、カッチリした構図に配された役者達は大仰に動くこともなく、監督が造り上げた映像の一部として配置されている。これは、監督が意図的に、役者の演技力で見せる場面を映画から排除しているのではないかと思う。

 「東京物語」では、小津監督は戦後の復興のもとで変わっていくものをスクリーンに映し、その先にあるのは素晴らしいものばかりではないと示唆しながらも、社会を担う世代に対しては原節子が「寂しいけれど、そういうものよ」と言ったように、決して批難しようとはしていない。おそらくこの映画で一番観客の共感を得たのは、飲み屋でクダを巻きながら「戦争はもう懲り懲りだ」と口にするシーンではないかと思うのである。この映画は普遍的なメッセージもあるし、海外で高く評価されるだけの演出の素晴らしさを備えているのだけれど、やっぱり戦争の悲惨な体験が元にあって成り立っている、当時ならではの映画だと思う。


ソーシャルゲームの胡散臭さについて

 グリーが未成年に対する過課金の事実を隠蔽していた件について。これはまあ・・・システムが不備だったのは批難されるべきことだが、やっちまったもんはしょうがない。ダメなのはその後の「バレなきゃいいんだよ」的な対応で、それこそがこの会社の姿勢そのもので、ソーシャルゲームに自分が感じている「なんとなくイヤな感じ」そのものでもある。グリーにとっての3000万円はハナクソみたいな小額で、わざわざ謝るべきことではないのだ。

 じゃあこの件が明るみに出てグリーが何か変わるかというと、別に何も変わらないんじゃないかと思う。「バレたからお金返します」というスタンスの胡散臭さをマスコミがハッキリと批判しないのは、これはやっぱりグリーがマスコミの超大口のスポンサーだからだろう。自分はなぜここまでソーシャルゲームに対して胡散臭いイメージを抱くのかを、コンプガチャが指導されたころからずっと考えておりました。

 ソーシャルゲームのグラフィックやルールだけをみると、これの一体何が面白いのかが分からないのだが、しかし多くの人が金をつぎ込んでいる状況を考えると、そういう人たちは絶対に楽しいと感じて金を使っているハズである。ハマっている人のブログなどを読むと、カードをコンプリートした達成感や他のユーザー(きっと無料かごくわずかの金額で遊んでいる人達だろう)に対する優越感など、さまざまな高揚感をもたらすようである。

 そういった感情が体験できるという話がホントなら(きっと本当だろう)、「そりゃ10万払っても安いわ」と思ってしまうワタクシは、やっぱりソーシャルゲームに近づくべきではないと思う。そういった高揚感は現実ではまず味わえないもので、ソーシャルゲームが提供しているものは従来のゲームやギャンブルには無かった確かに新しい価値観である。格闘ゲームの大会で優勝するとか、競馬で万馬券を引き当てるといったことで同じ感情をもたらすかもしれないが、それはそもそも誰でも味わえる類いのものではないのだ。

 それがソーシャルゲームでは「金さえ払えば」だれでも味わえるのである。5万か10万かはわからないが、ある程度の高額を支払うことと、ソーシャルゲームがもたらす快感は表裏一体となっているハズである。大金を注ぎ込み非常に長い時間を費やしたという自覚があるからこそ、それが結果としてダイレクトに跳ね返ってくる。払った金額と得られる快楽とは正比例の関係にあるに違いない。1万円払ったユーザーに対して500円しか払っていないユーザーが勝つ(というか、いい目に合う)などといったことは、現在のソーシャルゲームでは決してあってはならない。

 従来の家庭用ゲームが攻略法を研究したりテクニックを磨いて圧倒的に強い敵を倒すことによって快感をもたらすものならば、家庭用ゲームとソーシャルゲームの提供する面白さは真逆のものだと言える。従来のゲームオタクがソーシャルゲームに対して「何が面白いのかサッパリわからん」と首を傾げるのは、そもそもこの二つが全く別物だからである。

 また、ソーシャルゲームはギャンブルとも違う。コンプガチャの問題は確かにギャンブルと同じ物かもしれないが、ソーシャルゲームの本質が「金を払えば払うほど強くなる」ならば、それはギャンブルとは別物である。「どれだけ金を賭けてもパーになるかもしれない」では、これほど急激にハマる人は増えないだろう。
 
 最近は「お金を使わなくてもかなり遊べる」というのが売りになっているようだが、それはそれで鵜呑みに出来ない。どーせ1万払えば10分で終わる作業を何十時間もプレイし続けることで同じレベルに成長しますとかではないの?ドラクエでいうならばメタルスライムを倒す代わりにスライムを1万匹倒せば同じじゃない、というような。もしくはフレンド山ほど連れてこいみたいな。このへんは完全に偏見ですが、あちらさんだって商売でやっている以上、タダには何かしら理由があるハズで、ソーシャルゲームに関するレビューも無料で楽しめる風を謳っているが、最終的にはタダにつられて始めた人達に金を払わせることが目当てのハズである。

 商売でやっているのだから金を取る事自体は正しい。それはこれまでのゲームやギャンブルに限らず、およその社会活動は金儲けが含まれる。ただし、ものごとには程度ってもんがあって、今のソーシャルゲームのデザインというのは、際限なく金を注ぎ込むか、スマホが手放せないほど時間をかけさせて中毒にするか、そういった状態にまで持っていくことが前提として成り立っているように思える。実際はそうじゃないかもしれないが、グリーの未成年者への過課金の隠蔽の件は「やっぱりそういう会社なんだ」と、自分の抱く胡散臭いイメージそのままの奴らがいかにもやりそうな事だった。

 ディーエヌエーやグリーの売り上げや高い利益率を指してソーシャル万歳な意見が幅を効かせている。しかし、その収益が中毒者によって支えられているというビジネスモデルならば、それは手放しで誉められるべきではないし、これだけの高収益を捨ててソーシャルゲームが健全化に向かうかというと、内部からの自主的な転換は難しいだろう。自分の感覚からすると、現在のソーシャルゲームは「お天道様に顔向けできない」商売そのものなのだが、稼ぐが正義のこのご時世にそんな旧弊な感覚を持つほうがナンセンスなのだろうな。