今日も定時ダッシュ -6ページ目

真・女神転生 ストレンジジャーニー

 2009年にDSで発売されたゲームがリメイクされてこの秋に登場というニュースにつきまして。

 

 自分は、このシリーズはファミコンの第1作をプレイして、3Dダンジョンの余りの素っ気なさに2つ目で挫折してしまった。その後、花とゆめで描いていた川原泉が徹夜でクリアしたとコミックスのエッセイに書いてあったのだが、途中で挫折した自分でもラストの鬼畜じみた難易度については知っていたし、周囲にもクリアした人間はいなかったので、「こりゃ川原泉って凄え!」と単純に思ったのですが。

 

 しかし同時に、「女神転生ってそんなに面白いゲームだったっけ?」という違和感もありました。ファミコン時代のグラフィックとしても、3D迷路の表現は、それこそ奥行きの線だけ引いてあるような感じだったし、モンスターのデザインもピンとこず、例えばジャガイモにしか見えないヨモツシコメも意味不明で、これが黄泉醜女のことだと知ったのも何年も後のことだった。チレイノームも地霊・ノームだったのな。さらに個人的な事では、若干閉所恐怖症気味の自分にとって、チープな絵だとしても3D迷路の息苦しさが苦手だったのもありました。

 

 この女神転生に挫折したという事実は、自分にとって案外に大きかったようで、その後アトラスのゲームというだけで「難しい」「自分には無理」と敬遠してしまっていた。それこそ、#FEをプレイするまでアトラスのゲームって全く遊んでいなかった。その間なんとまあ30年あまり。

 

 #FEが面白かったので、これまでアトラスを避けてしまったのは勿体無かったなと考え直し、とりあえず手を出してみたのが「真・女神転生 ストレンジジャーニー」であります。これも発売時の評価が高かったことを覚えていて、キャラデザインやデモニカスーツなど渋好みのデザインもオッサンとしては手をつけやすかった。

 

 そんなこんなでプレイしたストレンジジャーニーですが、これがまた物凄く面白くてビックリした。本当にビックリしたのだ。まさか自分が3D迷路のゲームを楽しく遊べるとは!昔と違って、ダンジョンごとに雰囲気が違う演出があって、ギミックにも凝っていて、何より下画面がオートマップという格段の遊びやすさ。歯ごたえのあるダンジョンも投げ出すほどではなく丁度いい塩梅でした。そう・・ウロボロスが出てくるまでは。

 

 「ストレンジジャーニー ウロボロス」でgoogle検索すると出てくるワードが物語っていますが、ウロボロスの攻略法といっても出てくる情報は割とバラバラ。自分は余りに勝てないのでしばらくストップしては再開し、やっぱり勝てないのでまたストップして・・を繰り返し、ウロボロス撃破に三ヶ月くらいかかってしまっている。これも攻略法があったというよりは、たまたま終末波をあまり撃ってこなかったから勝てた、という結局運ゲーだったというオチ。

 

 けれども、撃破した時には異様なほど盛り上がり、もうゲームをクリアしたかのようなハイテンション。なんかお腹いっぱいになっちゃって、結局そこでゲームを中断してしまっているダメなワタシ。今度のリメイクはやり直すには丁度良いけれど、もしも今年中に女神転生5が出るならそっちやった方がいいだろうし。

 

 という訳で、凄く面白いことは理解しつつ、アトラスのゲームのとっつきにくさをいまだ解消しきれていないオッサンのボヤキでありました。

 

チア⭐︎ダン

 主役は広瀬すずですが、二番手として中条あやみが登場。この人は「零」のあまりの美少女ぶりが未だに強く印象に残っているが、最近はドコモとかハーゲンダッツのCMでしょっちゅうテレビで見かけるようになった。映画の中で、彼女の登場はとても巧妙に演出されており、新入部員として一列に並ぶシーンで、一番左の広瀬すずとは反対の一番右側に、そこだけライトを落としたような暗さの中に立っていて、しかも彼女の右隣にあやみちゃんよりも背の高い女の子を配して目立たなくしている。その後も微妙にピントをぼかしたりしてあまり印象に残さずに、各自好きな踊りを踊るシーンで、彼女の長い手足とスタイルの良さを存分に生かしたダンスの見せ場を作っている。

 

 普通に主役を張っても申し分ない中条あやみを以ても、ストーリー終盤でセンターの交代を申し渡されてしまう。なぜなら交代するのが広瀬すずだからであります。中条あやみと広瀬すずが並んだら、どれだけスタイルの良さで中条あやみが勝っていても、やっぱり広瀬すずに軍配があがるのだ。一応劇中では交代の理由をもっともらしく語られますが、しかし映画を見る観客にとっては、そういう理屈を超えて、広瀬すずのほうに映画的なパワーを感じてしまう。だから「努力してもどうしようもないことがある」という言葉に重みが生まれるのだ。

 

 今の広瀬すずには、ちょっと普通ではないオーラが乗っかっていて、例えば川口春奈や土屋太鳳とイマドキのイケメンが順列組み合わせで、死んだり忘れたり時をかけたりする青春映画が絶え間なく公開されていますが、広瀬すずも一応そのサイクルに入ってはいるものの、その手の映画にしか引き合いがなくて永遠の学生生活を送っているビューティフルドリーマーな川口春奈に比べると、広瀬すずはもっと様々なジャンルの映画に出て行くだろうなあと思う。「チア⭐︎ダン」にしても、広瀬すずがヒロインとしてどっしりと据えてあるので、中条あやみはもとより、十分にかわいい福原遥が三番手以下の扱いでも特に違和感も無い。結局は広瀬すず自体にヒロインとしての説得力があるのだ。

 

 この映画は、枯れたオッサンからすると若さと勢いで眩いばかりにキラキラ輝いており、おもわず何度もスクリーンを拝みそうになった次第。ありがたや〜。

 

 ということで、この映画。スクリーンの中で見るべき女の子が何人も同時に登場し、オジさん目玉が10個あっても足りないよ〜どうしようリンダ困っちゃう〜という至福の時間を過ごしていたのだが、悲劇は最後に訪れた。

 

 以下ものすごいネタバレと映画の悪口に入りますから、不満点を差し置いても十分面白い映画でしたので、未見の方はとりあえずこの駄文はここまでで置いておいて劇場に足をお運びくださいませ。

 

 

 

 

 

 

 この映画では、チアダンス部全体としてのダンスのシーンが極端に少なくて、高校三年間に渡る部活生活の中、大会で彼女たちが真剣に踊るシーンは巧妙に隠されています。

 

 しかしそれはきっと、サブタイトルにもあった全米制覇のダンスで一気に観客を魅了するための演出に違いない、クライマックスでダンスによるカタルシスがもたらされるのだ、という、まあこの手の映画では定石ではありますが、しかし最後のダンスが素晴らしいからこそ「チア⭐︎ダン」としての映画が成立する、それくらい鉄板のクライマックスであります。

 

 そう。確かに全米を制覇するダンスのシーンは最後にありました。ありましたが、彼女たちのダンスを存分に見せてくれるかと思いきや、周囲の人間の余計な行動までダンスシーンに挟みやがって、もうこの映画って何のための映画だったんだ?というくらいクソしょーもないクライマックスになっている。

 

 ドタワケじゃねーのかこの監督?

 

 実際に脚本にダンス中に周囲の人間のシーンがあったところで、それは監督権限でカットするところでしょう。こいつ(監督が誰だか調べる気もなかったが、二度とこいつの映画を見たく無いので泣く泣くチェック。河合勇人てめえざけんなオラ)

 

 いやしかし、真剣に聞いてみたいのだけれど、実況の外人男のアホなセリフや、浮かれて踊る教頭に「校長の推薦なしにしょうかな」と呟く校長のセリフが、チアダンス部の本気で踊るシーンよりも見るべきものだとこの監督は本当に思っていたのだろうか。でも本当にそう思っていたかもしれない。ダンスのシーンにどんどん入り込む形で、こういう余計なものがスクリーンに垂れ流されていく。

 

 けれども監督にとっては、BGMに過ぎないダンスのシーンを背景に、彼女たちを応援する人たちのドラマこそを語りたかったのかもしれない。中盤で中条あやみ演じるチアダン部の部長が「皆さんのおかげで(全国大会)優勝できました」と挨拶するが、たぶん河合監督は本当に「田舎の高校生ごときが全米を制覇できたのはひとえに応援する人たちのおかげに過ぎないのだ」と思っていたのかもしれない。こいつゆとりか?1969年生まれのようだけど。

 

 全米選手権と言っても、アメリカのチームが一つ出てくるだけで、たくさんのチームの熱気とか会場の盛り上がりとか、そういう勢いが全くなく、まあそこは予算の都合なのだろう。そこは仕方が無いと思う。しかし、その乏しい予算の中で監督が考えたのが、チアダンスをどう魅力的に見せるか?ではなく、貧相にしか撮れないチアダンスをどう隠すか?だった。だから中盤の大会のシーンでは巧妙にダンスシーンを端折り、端折れないラストだけはくっだらないドラマでダンスシーンをブチブチと切り刻むという気違い沙汰に及んだ。最後のダンスに至るまでのドラマの見せ方はとても良かった。白状しますがラストは泣きました。けれどもダンスのシーンが見せ場として成立させられないなら、この監督は初めから出てくんじゃねえよと思う。

 

 

 

愚行録

 慶應って怖いところや・・・。慶應って一言も出てこないけど。

 

 ダークなあらましに惹かれて観た「愚行録」ですが、これがまた気が滅入るエピソードのオンパレードで、鑑賞時のSAN値がドクドク下がる。「ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち」の冒頭の映像が汚いと書きましたが、アレをさらに煮しめたようなドンヨリした画調が映画の大半を覆い、さらに悪いことにストーリーとその煮しめたドンヨリ具合が本当にピッタリ。ものすごく手練れの監督かと思いきや、石川慶という「愚行録」が長編デビューの監督さんなのであった。これは今からチェックしておこう。石川慶の慶は慶應の慶!

 

 学生時代を回顧するシーンのいくつかが、このドンヨリ具合と対比してとても明るいものが多いのですが、なかでも一番良かったのが満島ひかりが大学のガイダンスに行くためにダッシュするシーンでした。あの清々しさや、これからの学生生活に胸ふくらませる彼女の様子が、その後の状況と対比して思い返すだに更に陰鬱になる。彼女の後を追うピントをぼかした女の姿も、その時は爽やかでしかないものの、あれは後々の展開の映像的な伏線だと思う。

 

 登場人物のほとんどが何かしらのヘイトを集める要素があるのですが、一番ヘイトを集める壁役が松本若菜演じる夏原さんであります(断定)。ただ、彼女が上昇志向の強い早大出の男(稲大と言い換える気ナシ)と結婚したというのが、映画では語られないけれど、学生時代はアッパーの仲間入りをしたとみえても結局はそこから弾かれた、という顛末があったのではないかと思う。似た者夫婦といえば正にその通りであります。

 

 原作はミステリとのことですが、過去に起こった事件について関係者に聞き込みを行う「回想の殺人」の形式で、その行為によって途中で起こる事件は、これはネタバレになってしまうから書けませんが、そういうジャンルもある。ただ、犯人は誰とかトリックの面白さではなく、物語はひたすら「なぜ」に収斂していく。

 

 社会派ミステリの括りとして松本清張と比べると、清張の小説は犯人に思わず同情してしまうような、犯罪に至るまでのやるせなさに読者が共感するような話が多いのだが、それに反して「愚行録」は、犯人じゃない人間ほど、そのクソッタレぶりに腹をたてる。しかしその唾棄すべき人物も、決して自分と遠い存在なワケではないということも認めざるを得ないという、、ああ、嫌な時代になったものよのう。

 

 

 

ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち

 迂闊にも吹き替え版を見に行ってしまって軽く後悔。声の違和感は割と早くに慣れたのですが、しかし言葉が変なのがいちいち気にかかる。子供の施設って何だ孤児院じゃアカンのか。子供の施設と言われて意味分かる奴が日本に何人いるんだ。「変死・・・変な死に方をしたということね」って誰に向かって説明してるんだソレは。
 
 ティム・バートン監督の映画は若い頃はものすごく好きで、いまだに「バットマン・リターンズ」はワタクシの大好きな映画の一本でありますが、最近の作品はあまり興味が持てなくて観ていない。と思ったら、バートン監督作で観てないのが「ダーク・シャドウ」だけだったというオチ。
 
 ティム・バートンのイメージというと、「シザーハンズ」でハイスクール・キングのイケメンを最後にブチ殺すシーンにみられる、スクールカースト最下位の僻み根性大爆発がカタルシスに繋がる印象を持っていて、最近はそういう要素が薄れているように見受けられる。この映画も、子供達が一般の村人を襲う話ではなく、彼らを脅かす化け物と対決する話だし。
 
 しかしハリウッドでキャリアを積んで第一線に居続ける監督が当時のままな訳は無く、自分だって子供もいるオッサンの分際でリア充爆発しろなんて今更思ってもいないワケで、まあ初期のティム・バートンと自分の薄暗い青春時代が重なったことを幸福と捉えましょう。ウィノナ・ライダーもあの頃は光り輝いていたなあ。
 
 バートン映画で他にも惹かれるのは、氏のセンスが生み出す人工的な美しさで、「バットマン・リターンズ」が大好きなのは、内容よりも画面に映されるもの全てが蠱惑的で美しいからであります。以前にも書いたような気がしますが、だから大した絵ヅラでもないノーラン版が受けたのがいまだに解せない。ミシェル・ファイファー以外のキャットウーマンは認めん。
 
 そして「ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち」につきまして。映画序盤の画面の汚さは一体どうしたことだとビックリした。オタク的パッションが薄れたのは仕方ないとしても、これで良しとするバートンのセンスを疑ったのだった。
 
 しかし中盤になって、序盤の辛気臭い色合いは、ループを抜けた先の世界の美しさの対比だったのだと分かりました。時の止まった世界では青い空の下に緑が濃く生い茂り、個性的な子供達が駆け回っている。海底のシーンや月明かりのライティングや、クライマックスのいかにもバートンが好きそうなロケーションで、とある物体が大挙して登場するシーンなどなど、ネタバレしないようにボカして書いてますが、異世界の造形について、バートンのセンスが色濃く出ていて、とても引き込まれて観ていました。
 
 
 

ゲーム人口の拡大という言葉をまだ考えているワタクシ

 Nintendo Switchを予約しそこね、、というか、ゲームのラインナップからそんなにスタートダッシュに人が集まるモンでもなかろうと思っていたので、この前評判の高さはちょっと意外でありました。まあいい。3月末までに200万台が出回るという事なので、4月までには1台くらい自分の手元に転がってくるハズ。
 
 それはそうと、ゲーム人口の拡大につきまして。逝去された岩田前社長が指すイメージと、任天堂の金看板たる宮本茂氏の目指すものとは、実は正反対の内容ではないだろうか、ということを独断と偏見のみで述べてみようと。
 
 岩田氏の提唱していたゲーム人口の拡大というのは、以前に流行った「ゲーミング」や「ゲーミフィケーション」という概念なのだろうと思う。生活の色々な側面でゲーム的な楽しさを提供する考え方を、ゲーム屋からアプローチすることによってゲームに親しむ人を増やそうとした。DSで大ヒットした脳トレは、脳を活性化するという目的を、ゲーミフィケーションに基づいてゲームの楽しさを味わいながら達成できるという商品だと捉えられる。脳が若返ったり料理が上手くなったりという目的のためにゲームをするとこんなに楽しいという考え方であります。
 
 しかし、宮本氏の考えるゲームというのは、こういう「何かの為になる」という考えを排除した所にゲームとしての価値があるという、ゲーミングとは真逆のスタンスである(断言)。
 
 スーパーマリオが大ヒットしたのは、プレーヤーの頭が良くなるからでも反射神経が良くなるからでもない。ジャンプするマリオを操作するのが楽しいからである。その楽しさを感じさせるためだけに、マリオの挙動やステージをドット単位で考え抜いたのであって、そこに何かの為になるなどという発想は微塵も無い(断言)。
 
 ニンテンドックスはDSの中にいる犬との触れ合いがひたすら楽しいというゲームであって、Wii Musicは楽器を演奏する楽しさをただ味わうためのもので、どちらもゲームの中で目的が完結している。Wii Musicでギターが弾けるようになるというような実際的なスキルが伸びる事は決して無く、それなら本物を触ればもっと面白いと考えているのだと思う。宮本茂はゲーム原理主義者であり、本来こういう人は「何かの為になるからゲームを遊ぶ」という考えを嫌うハズである。
 
 ソースが無くて申し訳ないですが、岩田氏の企画である脳トレを宮本氏は当初否定していたという話があったし、ロクヨン時代は「ゲームをクリアできない奴は無理にやらんでええ!」みたいなことを言っていたハズ。自身が信じる面白いゲームで脱落するユーザーがいたとしても、難易度を下げてつまらない物にするぐらなら脱落させときゃ良いのだ、という発想であります。
 
 こういう原理主義者が「ゲーム人口の拡大」というミッションを成し遂げるためには、世の中のありとあらゆる楽しい物をゲームに落とし込むしか方法が無く、しかもいつか飽きることを考えると延々と発展させねばならない。その上、釣りが好きは人はわざわざゲームやらなくてもとっくに実際に釣りをしているワケで、例えばどれほど素晴らしく盆栽の楽しさをゲームにしたところで、そんなモンは一部のマニアにしか売れないだろう。現実の楽しさをゲームにするといっても、やっぱりそこは向き不向きがあって、ゲーミングとゲームは違うものなのだ。
 
 という事で、ハードの性能が飛躍的に伸びた現在、異世界やアウトローな世界で、人やゾンビを撃ったり、敵から隠れたり、材料を収集するなどの楽しさを複合的に組み合わせた大きなゲームが最先端として売れている。明らかにゲーム原理主義が高じたゲームで、元をたどれば任天堂はかつて世界一上手にその楽しさを提供していたハズなのに、ゼルダ以外は大きなゲームを作ることを止めてしまった。
 
 そこには任天堂なりの事情があるとして、今で言うところのAAAタイトルばかりがゲームではない、という主張も理解できるとして、相反する岩田イズムと宮本イズムが現時点で止揚されたものがSwitchであるとして、じゃあそこで、任天堂が満を持して世に問う「これこそがゲームの未来!!」ってのが乳搾りっちゅうのはどういうこったい。まあアレにだって興味はあるので、ハードが買えれば1-2Switch買っちゃいそうな自分が確かにいるのでありますが、だがしかし、ちょっとソレはあまりにもシュールすぎやしまいか。
 
 ジョイコンに興味があるのと、ゲームで乳搾り競争がしたいというのとは話が別である。でもって「早く乳絞りたい」という変態が世界規模とはいえ200万人もいるとは思えないのである。だから予約しなくても余裕で買えるわいと考えたワタクシの目論見がなぜ外れたのか。ゼルダ人気だけで片付く話なのだろうか?