標準体重
毎年受けている健康診断、今年もその結果が返ってきました。この診断結果というのは何となく学生の頃の成績表を見る時のような高揚感があって、よっしゃ血液オールA取った!とか、去年と比べて体重が右肩上がりですなとか、まあ今の所自分が概ね健康という所が大きいのですが、割とキャッキャウフフと気楽に見ております。
結果表もここ数年地味にアップデートしていて、特に身長体重あたりは単にそれらの数値だけではなく、腕、足、胴体のパーツごとの筋肉量や脂肪量、基礎代謝などなど、色々な項目が載るようになりました。その中で、現在の状態から理想的な体になるために、適正体重までどれだけ脂肪を落として筋肉を付けるかなんて項目もあり、健康志向が広まったことも相まって、病院も色々と客を喜ばせようと考えているようです。
しかし、この至れり尽くせりな表をながめながら、またしてもワタクシのヘソはしずしずと曲がっていくのであった。
先ずこの手の表に必ずある標準体重との比較について。決して自分の体重が標準体重より多いからではなく(いやホントに)、そもそも中学三年で身長の伸びが止まってしまい爾来三十年になんなんとする我が身、その間ずーっと同じ体重が適正というのが腑に落ちない。二十歳の体と還暦の体が同じであるべきというのは大雑把すぎる。脂肪を何キロ減らして筋肉を何キロ増やしてなんてアドバイスに至っては、それこそ筋肉量も脂肪量も年代とともに変化するのが人間の生理であり、それを無視して若者とジジイを一緒にすんなゴルァ!(←死語)と、その横着さに殺意まで覚えてしまう瞬間。
調べてみたら標準体重というのは「統計的に健康的に生きられる体重」とのことで、その統計ってのがクセモノっぽいが、身長体重のサンプルを集めて病気が最も少ないゾーンを標準体重と呼ぶのだと今知った。このへんがミスリード・・・というか、勝手に誤解していた所なのだが、なんとなく標準体重って「パッと見て太っていなくて均整のとれたボディ」というイメージがありませんでしょうか皆様。しかし少し考えれば全然スタイルとは関係なくて、同じ身長体重でも筋肉質のナイスバディから脂肪がとり巻いたずんだれ体型まで、数字だけでは実際の状態が量れないのは当然のことなのであった。
「数値だけで体型は分からない」というのは、若い頃にはピンと来なかった感覚で、若い頃は大抵が「痩せる=格好良くなる」で合っているのだけれど、年食ってくると太り過ぎは論外だが格好よく痩せるのも難しくて、たいていがヒョロヒョロと貧弱になったり下腹だけポッコリ出ていたりと、体重と体型の相関的なイメージはますます乖離していくのが普通になってくる。数値に囚われるとその辺りのことが見えなくなってしまうのだが、健康診断の結果表というのはウッカリと丸呑みしてしまうと数値ばかりに囚われてしまうように出来ている。
結果表もここ数年地味にアップデートしていて、特に身長体重あたりは単にそれらの数値だけではなく、腕、足、胴体のパーツごとの筋肉量や脂肪量、基礎代謝などなど、色々な項目が載るようになりました。その中で、現在の状態から理想的な体になるために、適正体重までどれだけ脂肪を落として筋肉を付けるかなんて項目もあり、健康志向が広まったことも相まって、病院も色々と客を喜ばせようと考えているようです。
しかし、この至れり尽くせりな表をながめながら、またしてもワタクシのヘソはしずしずと曲がっていくのであった。
先ずこの手の表に必ずある標準体重との比較について。決して自分の体重が標準体重より多いからではなく(いやホントに)、そもそも中学三年で身長の伸びが止まってしまい爾来三十年になんなんとする我が身、その間ずーっと同じ体重が適正というのが腑に落ちない。二十歳の体と還暦の体が同じであるべきというのは大雑把すぎる。脂肪を何キロ減らして筋肉を何キロ増やしてなんてアドバイスに至っては、それこそ筋肉量も脂肪量も年代とともに変化するのが人間の生理であり、それを無視して若者とジジイを一緒にすんなゴルァ!(←死語)と、その横着さに殺意まで覚えてしまう瞬間。
調べてみたら標準体重というのは「統計的に健康的に生きられる体重」とのことで、その統計ってのがクセモノっぽいが、身長体重のサンプルを集めて病気が最も少ないゾーンを標準体重と呼ぶのだと今知った。このへんがミスリード・・・というか、勝手に誤解していた所なのだが、なんとなく標準体重って「パッと見て太っていなくて均整のとれたボディ」というイメージがありませんでしょうか皆様。しかし少し考えれば全然スタイルとは関係なくて、同じ身長体重でも筋肉質のナイスバディから脂肪がとり巻いたずんだれ体型まで、数字だけでは実際の状態が量れないのは当然のことなのであった。
「数値だけで体型は分からない」というのは、若い頃にはピンと来なかった感覚で、若い頃は大抵が「痩せる=格好良くなる」で合っているのだけれど、年食ってくると太り過ぎは論外だが格好よく痩せるのも難しくて、たいていがヒョロヒョロと貧弱になったり下腹だけポッコリ出ていたりと、体重と体型の相関的なイメージはますます乖離していくのが普通になってくる。数値に囚われるとその辺りのことが見えなくなってしまうのだが、健康診断の結果表というのはウッカリと丸呑みしてしまうと数値ばかりに囚われてしまうように出来ている。
ライヴ
ほほー、角川映画のメガホンを取るなんて、井口昇がちょっとメジャーになった感じで嬉しい。が、この映画に「角川文庫創刊65周年記念作品」とか冠していいの?だって井口昇だよ??いや井口昇のセンス大好きだけどさ。
などという恐れを抱きながら映画を見始めたのですが、初めはこの予感が悪い方に当たっちゃったかな?という気がした。角川の名前に負けて、もしかして井口監督がこれまでのテイストを捨ててフツーの映画を撮ったんじゃないかという感じだったのだ。しかしソレはすぐに杞憂だということが分かる。ワタクシは女子更衣室で下着姿の女性二人が出て来た時に少し安心し、トレーニングマシンのスプラッタシーンで「あ、やっぱり井口昇だ」と迷い無くスクリーンに集中できたのでした。
しかし心から映画に乗れたのは「ライヴ」で一番の儲け役だった入来(いきり)茉里ちゃんが側転しながらボウガンを避けるシーン。あの余りの絵ヅラのバカバカしさに腹を抱えて大笑いした。そうそう。井口監督って心底バカバカしいシーンをバカバカしさはそのままに、しかし大真面目に撮り上げてくれる。しかもそのバカバカしくも猛烈なテンションのまま建設中のビル→商店街→地下道とかなり長い間続き、こちとらえんえんと幸せの絶頂。もうイキっぱなし。競技場のアレやコレやはオマケも同然。
原作をストーリー中のキーアイテムとして閉じ込めることで、映画自体はオリジナルとなっているそうな。井口昇はインタビューで「原作通りだと金がかかりすぎるから」と答えていたが、まあそれも理由の一つではあるだろうが、本当のところは女の子のオッパイやお尻やキャットファイトやスプラッタをやるためには原作がジャマだったというだけなのであった。井口監督と同世代のワタクシとしては諸手を上げて賛成なのだけれど、山田悠介のファンってたぶん中高生だろうし、若い人々がこの映画をみてもこの映画の「おかしさ」を「チャチさ」と捉えて受け入れないんじゃないかという気がする。
などという恐れを抱きながら映画を見始めたのですが、初めはこの予感が悪い方に当たっちゃったかな?という気がした。角川の名前に負けて、もしかして井口監督がこれまでのテイストを捨ててフツーの映画を撮ったんじゃないかという感じだったのだ。しかしソレはすぐに杞憂だということが分かる。ワタクシは女子更衣室で下着姿の女性二人が出て来た時に少し安心し、トレーニングマシンのスプラッタシーンで「あ、やっぱり井口昇だ」と迷い無くスクリーンに集中できたのでした。
しかし心から映画に乗れたのは「ライヴ」で一番の儲け役だった入来(いきり)茉里ちゃんが側転しながらボウガンを避けるシーン。あの余りの絵ヅラのバカバカしさに腹を抱えて大笑いした。そうそう。井口監督って心底バカバカしいシーンをバカバカしさはそのままに、しかし大真面目に撮り上げてくれる。しかもそのバカバカしくも猛烈なテンションのまま建設中のビル→商店街→地下道とかなり長い間続き、こちとらえんえんと幸せの絶頂。もうイキっぱなし。競技場のアレやコレやはオマケも同然。
原作をストーリー中のキーアイテムとして閉じ込めることで、映画自体はオリジナルとなっているそうな。井口昇はインタビューで「原作通りだと金がかかりすぎるから」と答えていたが、まあそれも理由の一つではあるだろうが、本当のところは女の子のオッパイやお尻やキャットファイトやスプラッタをやるためには原作がジャマだったというだけなのであった。井口監督と同世代のワタクシとしては諸手を上げて賛成なのだけれど、山田悠介のファンってたぶん中高生だろうし、若い人々がこの映画をみてもこの映画の「おかしさ」を「チャチさ」と捉えて受け入れないんじゃないかという気がする。
ブルージャスミン
ネタバレしてますので、この映画を未見で気になる向きは先ず劇場へGO!
・・・・・で、この映画が「欲望という名の列車」をベースにしているという情報を入手してしまったので、もうそれにしか見えない。オチも何も結局はホントにそのまんまだったのですが、「欲望という名の列車」を見た当時は20代だったこともあり、基本的にお他所の国の昔のお話、難しい話ではないのだが自分とはかけ離れた物語で、それよりもヴィヴィアン・リーが美しいとか、マーロン・ブランドってこんなに野性味のあるハンサム・ガイだったのだな、というようなノンキな感想でありました。
それをウディ・アレンがセレブ生活が破綻した姉と貧民層として暮らす妹という形で翻案し、ヴィヴィアン・リーの優雅さが極まってなんか怖いという役柄も、ケイト・ブランシェットの現代的な神経症の女性としてアレンジされている。のべつまくなしに喋りまくるブランシェットが、どこかウディ・アレンっぽくもあったりして。ついでに言うと10代の女に手を出すダンナってテメエのことだろ!とウディ監督の自虐的なネタもそこかしこに。とにかく「ブルージャスミン」は、アメリカ南部の没落した名家の女なんてよりはテーマとして分かりやすくなっている。
この映画でアカデミー賞を受賞したケイト・ブランシェットですが、そもそもウッディ・アレンの映画は女優に賞をもたらすことが多く、ペネロペ・クルスやミラ・ソルヴィーノをはじめ多くの女優を魅力的に撮る手腕の確かさは有名だが、今回のケイト・ブランシェットの場合はチト具合が異なっております。女優を魅力的に映すことがウディ映画の持ち味だとしたら、「ブルージャスミン」のヒロインはそういう「男が魅力的だと感じる女」では全くない。セレブ生活のゴージャスさで観客のイメージ通りのケイト・ブランシェットから、楳図かずおのマンガに出てくるようなホラーな女までの振れ幅が物凄くて、この人の主演女優賞の受賞はウディ・アレンが女優の魅力を引き出したのではなく、今回は彼女の演技力に監督が作品の出来を託した上での受賞だと思う。この映画のケイト・ブランシェットは何か物凄いモノを見てしまったという感じ。
それとコレは映画史に残るであろう(絶対残らない)希有な演出として、なんとまあケイト・ブランシェットのワキ汗シーンが!多くの女性が「下着が透けて見えるよりも脇汗のほうが恥ずかしい」と迷いも無く言うワキ汗が!!これは何事ならんと固唾を飲んでスクリーンを見守っていると、その後彼女はシャワーを浴びてスッピンのままフラフラと家を出ていき、最後の最後に本当に壊れてしまった表情を浮かべて独り言を言い続けるという物凄い流れになっておりました。「なぜワキ汗?」とワタクシが訝しく思ったのは誠に慧眼(←自分で言う)で、アレは最後のシーンでブランシェットが素顔を晒すという発想が先にあって、どうやったらヒロインが往来でスッピンになるかを逆算し、誰が見てもシャワーを浴びる必然性に満ちたワキ汗が施されたハズ。
最後に映画を離れて個人的に思う所を。この映画は基本的に「セレブな奥様の思い上がりの自業自得」といった感じでヒロインに同情する人はとても少ない、「貧乏でも愛情が一番」とか聞いた風な感想は持っても、皮肉なコメディっぽさも加えて、観客がヒロインの不幸に心を傷める必要はないように作っている。それはそれでいいのだけれど、自分はこの映画を「自分の足場が崩れたことを認められない人間の不幸」というような、もっと普遍的なものとして捉えてしまい、正にヒトゴトとは思えず震え上がってしまった。ホントに笑ってる場合じゃない。定年退職したのに会社の周りを用もなくブラブラするオヤジとか。独身の仕事人間の休日恐怖症とか。セレブ生活だって仕事だって子育てだって絶対的なポジションではないと頭で分かっちゃいるものの、たいていの人はそこまで柔軟には出来ておらず、とくに男はこういう時にホントに弱い生き物だと思う。ヒロインの愚かさも含めて身につまされる映画でありました。
・・・・・で、この映画が「欲望という名の列車」をベースにしているという情報を入手してしまったので、もうそれにしか見えない。オチも何も結局はホントにそのまんまだったのですが、「欲望という名の列車」を見た当時は20代だったこともあり、基本的にお他所の国の昔のお話、難しい話ではないのだが自分とはかけ離れた物語で、それよりもヴィヴィアン・リーが美しいとか、マーロン・ブランドってこんなに野性味のあるハンサム・ガイだったのだな、というようなノンキな感想でありました。
それをウディ・アレンがセレブ生活が破綻した姉と貧民層として暮らす妹という形で翻案し、ヴィヴィアン・リーの優雅さが極まってなんか怖いという役柄も、ケイト・ブランシェットの現代的な神経症の女性としてアレンジされている。のべつまくなしに喋りまくるブランシェットが、どこかウディ・アレンっぽくもあったりして。ついでに言うと10代の女に手を出すダンナってテメエのことだろ!とウディ監督の自虐的なネタもそこかしこに。とにかく「ブルージャスミン」は、アメリカ南部の没落した名家の女なんてよりはテーマとして分かりやすくなっている。
この映画でアカデミー賞を受賞したケイト・ブランシェットですが、そもそもウッディ・アレンの映画は女優に賞をもたらすことが多く、ペネロペ・クルスやミラ・ソルヴィーノをはじめ多くの女優を魅力的に撮る手腕の確かさは有名だが、今回のケイト・ブランシェットの場合はチト具合が異なっております。女優を魅力的に映すことがウディ映画の持ち味だとしたら、「ブルージャスミン」のヒロインはそういう「男が魅力的だと感じる女」では全くない。セレブ生活のゴージャスさで観客のイメージ通りのケイト・ブランシェットから、楳図かずおのマンガに出てくるようなホラーな女までの振れ幅が物凄くて、この人の主演女優賞の受賞はウディ・アレンが女優の魅力を引き出したのではなく、今回は彼女の演技力に監督が作品の出来を託した上での受賞だと思う。この映画のケイト・ブランシェットは何か物凄いモノを見てしまったという感じ。
それとコレは映画史に残るであろう(絶対残らない)希有な演出として、なんとまあケイト・ブランシェットのワキ汗シーンが!多くの女性が「下着が透けて見えるよりも脇汗のほうが恥ずかしい」と迷いも無く言うワキ汗が!!これは何事ならんと固唾を飲んでスクリーンを見守っていると、その後彼女はシャワーを浴びてスッピンのままフラフラと家を出ていき、最後の最後に本当に壊れてしまった表情を浮かべて独り言を言い続けるという物凄い流れになっておりました。「なぜワキ汗?」とワタクシが訝しく思ったのは誠に慧眼(←自分で言う)で、アレは最後のシーンでブランシェットが素顔を晒すという発想が先にあって、どうやったらヒロインが往来でスッピンになるかを逆算し、誰が見てもシャワーを浴びる必然性に満ちたワキ汗が施されたハズ。
最後に映画を離れて個人的に思う所を。この映画は基本的に「セレブな奥様の思い上がりの自業自得」といった感じでヒロインに同情する人はとても少ない、「貧乏でも愛情が一番」とか聞いた風な感想は持っても、皮肉なコメディっぽさも加えて、観客がヒロインの不幸に心を傷める必要はないように作っている。それはそれでいいのだけれど、自分はこの映画を「自分の足場が崩れたことを認められない人間の不幸」というような、もっと普遍的なものとして捉えてしまい、正にヒトゴトとは思えず震え上がってしまった。ホントに笑ってる場合じゃない。定年退職したのに会社の周りを用もなくブラブラするオヤジとか。独身の仕事人間の休日恐怖症とか。セレブ生活だって仕事だって子育てだって絶対的なポジションではないと頭で分かっちゃいるものの、たいていの人はそこまで柔軟には出来ておらず、とくに男はこういう時にホントに弱い生き物だと思う。ヒロインの愚かさも含めて身につまされる映画でありました。
バナナブレッド 藤野真紀子の場合
藤野真紀子といえばしばらく前にウッカリ議員なんぞをやってしまって株を下げたお人ですが、欧米で料理を学び日本で料理研究家として活躍するという、料理をターゲットにしたセレブ商売の草分け的な女性です。
この人は料理全般というよりは菓子専門というイメージが強く、カツ代好きなワタクシは当然のことながら藤野真紀子は全般的に苦手なイメージで、逆を言うとセレブスタイルに憧れる女性には人気があるのだろう。なんか要らん事気取ったホームパーティのお呼ばれの手みやげに持って行くとウケそうな感じ。カツ代の料理本は自分で買ったものだが、今回参考にした真紀子の「シンプルなお菓子」は嫁が里帰りの際に実家から持って来たものなので、こんな庶民層にすら真紀子のセレブオーラが届いていやがったぜ。
今回、色々なレシピのバナナブレッドを作ろうと思い立って初めて真紀子の本を真面目に見たのですが、コレがまた色々とレシピが面倒くさくてねえ、「シンプルなお菓子」という本は、藤野真紀子のレシピ本の中では比較的初心者向けだそうな。しかしキングオブ初心者の自分の目から見ると色々と存分に面倒くさそう。砂糖ひとつとってもグラニュー糖とブラウンシュガーを使ったりと、作る手間よりも材料を用意すること自体が面倒くさい。普段使わない材料をコレのためだけにわざわざ買いたくない。
真紀子もそのへんは考えていて、「サワークリームがなければプレーンヨーグルトで」というフォローをしていらっしゃいます。結果砂糖は全部上白糖、ショートニングは使わずバター(もちろん有塩)オンリー、サワークリームの代わりにプレーンヨーグルトを、コーンスターチではなく片栗粉を、と色々妥協した結果、およその分量以外は別物なレシピになってしまったのでありました。
で、まあ「マキコさんはお嬢様育ちだからしょうがないわな」と田中眞紀子にも使えそうなフレーズを唱えながら作ってみて、「セレブ様のお手前が庶民の口に合うかしら」と半信半疑で口にしたところ。
なにコレ、すっげーうめー!!
真紀子おいしいよ真紀子。カツ代のバナナブレッドは軽いケーキ風の口当たりでソレはソレで美味しいのだが、真紀子のほうはバウンドケーキっぽい適度な重さがありそれでいてモッチリさが少なく、自分のイメージではこういう感触のバナナブレッドが作りたかったのだ。そうか、パウンドケーキっぽくバナナブレッドを作るにはバナナを入れすぎない事が肝心なのだな。
今回の真紀子のレシピは、なんとなく自分が最近思っている「菓子作りは思いのほか自由だった」という考えを裏付けたような気がする。菓子作りというのはレシピ通りに材料を計ったりオーブンの温度を設定したりとキッチリしていなければ作れないイメージがある。そういうシャチホコ張ったイメージを「もっと気楽に楽しく!」と解放したのが小林カツ代だとしたら、真紀子は「自由な発想で材料を工夫したらもっと美味しくなる」という、いうなれば同じバナナブレッドでもそこには無限のバリエーションがあり、自分が思う味や食感を出すために出来る工夫はいくらでもある、というようなポジションでレシピを作っているのだと思った。
なぜバター50gとショートニング25gなのか、薄力粉が95gでコーンスターチが10gなのか、シロートは結果を見るだけですが、おそらく藤野真紀子先生にとっては様々に試した上でのこのレシピが一番自分のイメージに近いバナナブレッドだったのだろう。味わいや食感や風味など、一口に美味しいと言ってもその裏には色々な要素があって、そこにはキッチリ計ればOKというような正解があるのではなく、材料やその分量、作り方の無限のバリエーションから自分が狙う味わいのケーキを作り出していく作業になっていく。
おそらくプロというのはそっちの方面で自分のイメージを実現すべく精進する人達であって、そうやって考えるとやっぱり下手の横好き的なスタンスの自分にとっては真紀子のレシピは敷居が高いのだった。しかしセレブ奥様の手すさびなんて決めつけてゴメンよ真紀子。
この人は料理全般というよりは菓子専門というイメージが強く、カツ代好きなワタクシは当然のことながら藤野真紀子は全般的に苦手なイメージで、逆を言うとセレブスタイルに憧れる女性には人気があるのだろう。なんか要らん事気取ったホームパーティのお呼ばれの手みやげに持って行くとウケそうな感じ。カツ代の料理本は自分で買ったものだが、今回参考にした真紀子の「シンプルなお菓子」は嫁が里帰りの際に実家から持って来たものなので、こんな庶民層にすら真紀子のセレブオーラが届いていやがったぜ。
今回、色々なレシピのバナナブレッドを作ろうと思い立って初めて真紀子の本を真面目に見たのですが、コレがまた色々とレシピが面倒くさくてねえ、「シンプルなお菓子」という本は、藤野真紀子のレシピ本の中では比較的初心者向けだそうな。しかしキングオブ初心者の自分の目から見ると色々と存分に面倒くさそう。砂糖ひとつとってもグラニュー糖とブラウンシュガーを使ったりと、作る手間よりも材料を用意すること自体が面倒くさい。普段使わない材料をコレのためだけにわざわざ買いたくない。
真紀子もそのへんは考えていて、「サワークリームがなければプレーンヨーグルトで」というフォローをしていらっしゃいます。結果砂糖は全部上白糖、ショートニングは使わずバター(もちろん有塩)オンリー、サワークリームの代わりにプレーンヨーグルトを、コーンスターチではなく片栗粉を、と色々妥協した結果、およその分量以外は別物なレシピになってしまったのでありました。
で、まあ「マキコさんはお嬢様育ちだからしょうがないわな」と田中眞紀子にも使えそうなフレーズを唱えながら作ってみて、「セレブ様のお手前が庶民の口に合うかしら」と半信半疑で口にしたところ。
なにコレ、すっげーうめー!!
真紀子おいしいよ真紀子。カツ代のバナナブレッドは軽いケーキ風の口当たりでソレはソレで美味しいのだが、真紀子のほうはバウンドケーキっぽい適度な重さがありそれでいてモッチリさが少なく、自分のイメージではこういう感触のバナナブレッドが作りたかったのだ。そうか、パウンドケーキっぽくバナナブレッドを作るにはバナナを入れすぎない事が肝心なのだな。
今回の真紀子のレシピは、なんとなく自分が最近思っている「菓子作りは思いのほか自由だった」という考えを裏付けたような気がする。菓子作りというのはレシピ通りに材料を計ったりオーブンの温度を設定したりとキッチリしていなければ作れないイメージがある。そういうシャチホコ張ったイメージを「もっと気楽に楽しく!」と解放したのが小林カツ代だとしたら、真紀子は「自由な発想で材料を工夫したらもっと美味しくなる」という、いうなれば同じバナナブレッドでもそこには無限のバリエーションがあり、自分が思う味や食感を出すために出来る工夫はいくらでもある、というようなポジションでレシピを作っているのだと思った。
なぜバター50gとショートニング25gなのか、薄力粉が95gでコーンスターチが10gなのか、シロートは結果を見るだけですが、おそらく藤野真紀子先生にとっては様々に試した上でのこのレシピが一番自分のイメージに近いバナナブレッドだったのだろう。味わいや食感や風味など、一口に美味しいと言ってもその裏には色々な要素があって、そこにはキッチリ計ればOKというような正解があるのではなく、材料やその分量、作り方の無限のバリエーションから自分が狙う味わいのケーキを作り出していく作業になっていく。
おそらくプロというのはそっちの方面で自分のイメージを実現すべく精進する人達であって、そうやって考えるとやっぱり下手の横好き的なスタンスの自分にとっては真紀子のレシピは敷居が高いのだった。しかしセレブ奥様の手すさびなんて決めつけてゴメンよ真紀子。
テルマエ・ロマエ II
ローマの浴室設計技師が現代日本にタイムスリップして日本の温泉文化を体験するという何とも奇抜な発想のこの映画、今回は銭湯や桶風呂、果ては草津の温泉街をまるごとローマに持ち込むというスケールのデカイことをやっている。1作目はハリウッド映画で作ったセットを借りられたとのことだったが、今回はブルガリアで大規模なセットを作ったので、それだけグッと製作費も上がっているのだろうと思う。
この映画の楽しさは基本的には原作マンガのエピソードを映像化した前半部分である。足つぼ刺激板(何て言うのだ?アレ)やバスクリンなどなど、様々な日本の入浴文化をローマ流にズレた解釈をしてローマに持ち帰るというアイディアがなんともオカシイ。そしてコレは1作目でも思ったのだが、その奇抜な前半から上戸彩が物語に絡んでくる後半になると割と普通のドラマになってしまい、一気にテンションが落ちてしまう。別に上戸彩自体が悪い訳ではないのだが、この映画の独自要素として織り込んだドラマが前半の各エピソードの面白さに負けている。映画としてマンガのエピソードの羅列だけでは物足りないカモ、という気持ちは分からなくもないけれど、そもそもコメディ映画に徹しきれずに(つまらない)シリアスな物語を持ち込めば映画として格が上がるという感覚が大問題だと思う。
もう一つこの映画は、阿部寛の裸がたっぷり堪能できることも売りになっている。これ目当てにイソイソと映画館に出かけた女性も多かろうと思います。ドラマや映画が女客がメインになり、老いも若きもイケメンならば必然性なく脱ぐこのご時世。阿部寛の体躯は見事なものだが、イヤらしさというか色気というか、そういうのとは縁遠いような気がして、女性諸子もコレでホントに良いのだろうか?という気がする。女性の裸だってそれをエロに変換するのは撮る側の腕が要る仕事だと思うが、今の映画やドラマに出てくるイケメンの裸の撮り方ってウケてるのだろうか。
この映画の楽しさは基本的には原作マンガのエピソードを映像化した前半部分である。足つぼ刺激板(何て言うのだ?アレ)やバスクリンなどなど、様々な日本の入浴文化をローマ流にズレた解釈をしてローマに持ち帰るというアイディアがなんともオカシイ。そしてコレは1作目でも思ったのだが、その奇抜な前半から上戸彩が物語に絡んでくる後半になると割と普通のドラマになってしまい、一気にテンションが落ちてしまう。別に上戸彩自体が悪い訳ではないのだが、この映画の独自要素として織り込んだドラマが前半の各エピソードの面白さに負けている。映画としてマンガのエピソードの羅列だけでは物足りないカモ、という気持ちは分からなくもないけれど、そもそもコメディ映画に徹しきれずに(つまらない)シリアスな物語を持ち込めば映画として格が上がるという感覚が大問題だと思う。
もう一つこの映画は、阿部寛の裸がたっぷり堪能できることも売りになっている。これ目当てにイソイソと映画館に出かけた女性も多かろうと思います。ドラマや映画が女客がメインになり、老いも若きもイケメンならば必然性なく脱ぐこのご時世。阿部寛の体躯は見事なものだが、イヤらしさというか色気というか、そういうのとは縁遠いような気がして、女性諸子もコレでホントに良いのだろうか?という気がする。女性の裸だってそれをエロに変換するのは撮る側の腕が要る仕事だと思うが、今の映画やドラマに出てくるイケメンの裸の撮り方ってウケてるのだろうか。