今日も定時ダッシュ -33ページ目

ストーカー殺人犯の逮捕時のドヤ顔

 タイトルが全てなのですが、なんというのか、人を殺した挙げ句の「やったった」「ざまあみさらせ」「思いを遂げた俺カッケー」的なドヤ顔につきまして。テレビの報道では捕まった犯人が警察に護送される場面が必ず映されるのだけれど、アレってもう犯人にとって花道にしかなっていないんじゃないかと思う。犯罪者に褒美を与えてどうすると思うのだが、ワタクシの中のゲスい感性が「ああ、こいつもドヤ顔で練り歩いてるよ」とストーカー殺人犯のドヤ顔ウォッチャーに成り下がらせているのだからマスコミを批難できる立場ではない。

 一生懸命勉強してテストで良いスコアを出したとか、しんどい思いをしながら富士山に登ったとか、努力が報われる達成感が「コイツを殺してでもオレのものにしたる」という悲惨なスライドをしてしまうと、法律や警察といった抑止力も思いを成就するための甘美な妨げ、障害がある程乗り越えることに意義を見いだしてしまうものではないかと思う。その根性をもっとプラスの目標に振れれば・・・と思うのだが、そんな風には人間は自由ではない。

 昔と比べて血縁や地縁といった繋がりが希薄な中で育った分、イマドキの若者は恋人に振られて「縁が切れる」ことに耐性がないのかねえ、などと賢しらに思うのだが、老人ストーカーも急増しているというニュースを見ると別に世代的な特徴でもなく、ストーカーに至るまでの様々な要因というのは誰でも起きうる現代社会の負の側面なのだろう。ただ、ここまで相手に粘着できるということ自体が、「振られて悔しい」だけでは済まないストーカーになる以前に何かしら心理的な要因はあるのだろうとは思うけれど。

 四十を超えてつくづく、ことわざや故事の真理の表現は物凄く的確であると感じる事が多い。年食って来ると「過ぎたるは及ばざるがごとし」とか「光陰矢の如し」などなど、ふと思い返してはああ本当にそうだよなあ、と腑に落ちる事が多くなる。「小人閑居して不善を為す」というのは、つまらない人間はヒマでいるとろくなことをしない、という意味だと思っていたが若干違うらしい。「閑居」というのはヒマではなく一人暮らしの意味で、「徳の低い人間は他人の目が無いと悪事を働く」というのが正しい文意のようであります。現代は小金さえ持っていれば他人の目を気にせずとも生きていける社会であるが、それは逆に言えば誰からも顧みられない、関わられないということでもある。未来少年コナンにあったセリフで「人間は一人で生きてはいけないのだ」という名言がありました。ストーカーというのは孤独はイヤだと言いながら、結局相手を食らい尽くして一人でいる人生を選んでしまった人間であるように思える。

オール・ユー・ニード・イズ・キル

 半期に一度は主演作が公開されているようなトム・クルーズ。しかし前作の「オブリビオン」の日本公開がwikiによると去年の5月とのことなので、ほぼ1年ぶり。あれ、その程度だったんかいな?それこそ季節ごとかという程、もっとトム・クルーズの映画って多いような気がしていました。

 ただいまHuluにて、トム・クルーズの1990代に主演した映画が見られるのだけれど、当たり前ですが「ザ・エージェント」のトムの若いこと若いこと。今でも十分にスターであるが、どうしても目元や口元が年齢相応の衰えが出てきて、それは本来は当然のこととしてそういった皺だって「ある」べきものだけれど、この人は基本的な路線を若い頃から全く変えていないので、昔のトム・クルーズを見てしまうと、当時の若くてピカピカした感じと今との違いがどうしても目についてしまう。

 今後のトム・クルーズのヒーロー映画は、年齢による衰えをどうカバーしてトムがヒーローとして成立する舞台をどう仕立てるかに腐心するようになってくるのだと思う。オッサンのヒーロー映画としては「アウトロー」のように優秀な元軍人が事件に巻き込まれる・・・というのが定石としてあるが、「オール・ユー・ニード・イズ・キル」はトム・クルーズがヒーローとして成立するためにSFっぽい設定を引っ張って来たのだと思いました。

 今回の映画では元々ヒーローとは無縁のチキン野郎だったトム・クルーズが、脱走兵として若者ばかりの二等兵の集団に放りこまれ、前線に送られる。そして彼の実戦能力は「同じ一日を何回も繰り返す」というSF設定のおかげで次第に腕を上げて、ヒーローとして敵と対峙するシーンがようやく出来上がる。こうしてトムが若者に混じって最前線に赴く違和感や、歴戦の勇者にはとうてい見えない優男のトムが戦場でヒロイックに活躍するという無理を解決している。そういったことは、昔は「だってトム・クルーズだからヒーローに決まってるじゃないか」で全て解決できていた。トムがこの路線を続ける限り今後どんどん痛々しくもなってくるのだろうが、個人的にはトムがどこまで突き進めるかに付き合い続ける覚悟でございます。覚悟っつっても映画観るだけだし。

 この映画の見所は、やっぱり前半の何度も失敗して何度も死んでしまうトム・クルーズで、中にはけっこう笑える死因もあったりする。やり直せるとわかっていても死ぬのは大変だろうと想像するが、そのへんは昨今のゲーム感覚でまさにリセットボタンを押すよな簡単さ。ゲーム&映画サイトの雄でいらっしゃる忍さんがこのくだりをシレンジャーに例えていたのがピッタリで笑ってしまった。

 さて。今回のトムちんのオッサンファッションリーダーぶりでございますが、農家の廃屋でしばし見せた黒のラウンドネックのTシャツと黒のミリタリーパンツというミッションインポッシブル的スタイル。アカン、今回シンプル過ぎて全然面白くない。「オブリビオン」でなにゆえトムが青のネルシャツとニューヨークヤンキースのキャップを被ったのか。それは決してストーリーの都合でなんかないことをダグ・リーマンはわかっちゃいないね。

渇き。

 この映画の原作は未読ですが、amazonなどの感想を拝見すると映画で表現していることは元々小説に込められているのだなあと想像できる。中島監督は原作小説を読んで受けた思いを正直に映像にしているのだと思う。

 自分が「渇き。」に感じたのは主人公がクズであるかということを如何に描写しているか、人でなしというのをビジュアルにするとどうなるか?ということを二時間えんえんと見せられた気分です。しかし自分を含め大多数の善男善女は、どうしても初めのうちは主人公を正義の側として見てしまうもので、娘は本当は素直な心の美しい女の子で、主人公も家族を愛する立派なオヤジで、最後は父子でハッピーエンドを迎えるのではないか、とか、まあそんな予測をして見てしまうものなのですな。こういう心の動きは何か心理学用語であったような気がする。

 そういう思いに対して「甘いコト抜かしてんじゃねーよバーカ」というのは確かに文学の仕事であると思う。映画でもミヒャエル・ハネケの「ファニーゲーム」とか、北野武の初期の暴力映画とか、一括りにしていいものか迷いますが、こういう観客に対してイヤな後味を残す映画は度々出て来ては拒否反応を起こされていた。それらに比べれば、まだ「渇き。」の描写は生温いというか、映像がチャカチャカ忙しく切り替わるので、グロい描写も主人公の人でなしっぷりも過度に残らない。

 テーマを離れて映像につきまして。冒頭から「これは自分には合わん」と思ったのですが、なんであんなに顔のアップばっかりなのだ?元々中島監督の演出は画面に色んなものを詰め込むきらいがあって、それが度々狭苦しさや息の詰まる感じを催したのだけれど、「渇き。」はそんなレベルではない。引きのショットを30秒以上続けたら中島監督が死ぬ病気を患っているんじゃないかと大真面目に思えるくらい、顔のアップのコラージュがえんえんと続く。この映画において役所広司は気狂いの役なので、氏の演技力による気狂いの表情を撮ることが「このオヤジは狂ってます」という表現に一番手っ取り早い演出かもしれない。小松菜奈の笑顔のアップも彼女が演じる少女の空っぽさが出ていて感心したが、アップの効果も程度問題で、映画として全編を見た場合「じゃあ役者の表情でしか狂気を演出できなかったのだな」という残念な感じが残る。それこそ登場人物が全員壊れているこの映画、アップや細かいカット割りばかりに頼らずにもっと画面を隠さずに狂気を剥き出しにする演出も出来ただろうと思う。

 だがしかし。自分が色々と残念に思った事こそが中島監督のバランス感覚なのかもしれない。「渇き。」は陰惨なシーンや救いようの無いストーリー、登場人物の誰にも共感できないという山盛りのネガティブさを備えながらも過度に嫌悪感を起こさせずに(このへんは個人差があると思いますが)、後を引きすぎることこなくエンターテイメントとして留まっている。実際R15+だし。なんかイミ分かんねえけどマジヤベエ、みたいなものを期待する層には絶妙な匙加減ではないかと思いました。

良い姿勢を作るために 横隔膜を見よ

 太もも、お尻、下腹、そして腹。下腹という言葉はありますが上腹という言葉は無いと43歳にして気付いた。それだけ下腹部が骨盤や内臓や丹田や、色々な理由で体にとって重要だからではないかと思われる。

 どこからどこまでを腹と呼ぶか、とりあえず姿勢について話を進めやすいように下は骨盤底筋群から上は横隔膜までの部分を腹としますと、お尻も腹に入っちゃいそうですがまあソコはご愛嬌。注目したいのは上にある横隔膜のほう。

 横隔膜っていうのは膜っていうくらいだから何か内臓系のブツなのだろうかと思いきや、コレは実は立派な筋肉で呼吸に関わっています。大雑把に見ると、横隔膜が伸びたり縮んだりすることで肺が収縮して空気が入ったり出たりします。

 さてここで話は唐突に変わるのですが、ワタクシはジムに行った際の風呂やスーパー銭湯など大きな風呂が好きで時折出かけるのですが、自分の姿勢が気になりだすと他人の姿勢も気になるようになり、サウナや洗い場でさりげなく、しかしかなり真剣に他人の体をチェックするようになってしまいました。それはもう端から見てホモオヤジ認定されてるかもしれないというくらいに。

 それで気付いたのだけれど、アレだね、今の若者ってこちらが心配になるほど姿勢の悪いヤツが多いな。見た目云々ではなく生き死にのレベルで大丈夫かという奴らを見かける。腰の曲がった老人を無理矢理真っ直ぐにして寝かせたら背骨が折れて死んでしまったという話を聞いたことがあるが、そういう若者もウッカリ背筋を伸ばした途端にバキッとやっちゃうんじゃないかと不安になってしまう。

 姿勢問題はとりあえず置いといて、こちらが今回の本題なのですが、数多くのサンプル体を観察し続け、若者と中年の体格の違いというのをつくづく考えるようになりました。若者と中年を大雑把に捉えると、若い奴らは細くて中年は太い。で、これを痩せている/太っていると捉えると本質を見誤る。本質て。中年の体型は、細身の状態から腹やら太ももやらに脂肪をくっつけただけの状態では無い。

 ものすごく当たり前のことをクドクドと書いていますが、中年は若かりし頃に比べて脂肪が増えたという以前に、まず胴体が格段に太くなっていることに着目すべきである。体が太くなったのは脂肪が増えただけではなく、肋骨が広がっているのだ。骨格自体がワイドにモーフィングしているのだ。

 加齢による横隔膜の衰えこそが猫背や内臓下垂、そして中年太りの原因である!などと言えれば話は早いのだが、実際の原因はもっと複合的でそうも簡単なことではないのだけれど、中年太りの解消のために有酸素運動や糖質制限をやるのなら、とりあえず姿勢を直して横隔膜を鍛える方が先だろう、と最近思うようになりました。


Splatoon

 Splatoonは先日開催されたE3にて、任天堂の新作で告知されたシューティングゲームでございます。シューティングゲームというと自分のイメージではグラディウスとかゼビウスとかああいうの(例がすでに古い)なのだけれど、現在欧米の独身男がハマっている戦場でチームに分かれて撃ち合うタイプのもシューティングと言うのだな。まあそりゃそうだ弾打つゲームって意味なんだから。

 数年前にXbox360を購入して一ヶ月のゴールド無料期間に、自分もシューティングに手を出してみようと思った事もあったのだけれど、ゲーマーの後輩に「あんまりヘタクソだと味方に背後から邪魔者扱いで撃たれますよ」と言われて「嗚呼そんな恐ろしい場所に自分はとても出て行かれない」と、恐れをなして無料期間にも関わらず一切ナニもしなかった。その手のシューティングゲームって欧米で売れに売れているイメージがあるのだけれど、その何百万という人達は皆こぞってチーム戦に燃えているのだろうか。そんなに多くの人達が「俺たちゃ遊びでCoDやってんじゃねえんだよ!」てな人達ばかりとは考えにくいのだけれど、実際どうなのだろう。それを確かめることすらおそがーてよーやらん(←名古屋弁で「怖くてとても出来ない」という意)。

 Splatoonはそういうヘタレな初心者でも「ヘタクソでも楽しめそう」という雰囲気に満ちていて、単純ながらも非常に目を引くゲームでした。さすがにヘタクソが上級者と肩を並べられるかというとおそらくそういう事は無く、結局はSplatoonだって強い奴がより活躍できるゲームなのだろう。けれども、格闘ゲームに対するスマブラだったり、レースゲームに対するマリカーだったりと、任天堂はマニア化するゲームジャンルに対するアンチテーゼ的なゲームを出す会社であり、Splatoonもアクティビジョンではなく任天堂だからこそ出て来たシューティングなのだと思う。

 誰一人「なぜイカか?」などと問うていないことも素晴らしい(実際は知らんが)。その意味を問えば結局は「これがゲームだから」という答えしか無く、それで誰もが納得しているように思える。ゲームだけに価値を置いているのが格好いい。そこでクドクドと「この世界の子供達はイカに姿を変える能力を云々」とかやりだすと一気に興が冷めるが、来年リリース予定だそうで、そうなると開発者が要らん物語を加えてきそうでちょっと心配。

 Splatoonが2015年発売予定というのが玉にキズ。タイプからすると、それこそ「このプレゼン後すぐにダウンロードできます!」でもおかしくないゲームなのに来年リリース予定。これがゼルダやゼノの新作なら来年だろうと再来年に延びようと違和感は無いが、Splatoonもゼルダと同じスパンで作ろうとしているところが任天堂の悪い意味で老舗な所ではないかと思う。一人でも遊べるようにAI調整して様々なギミックを作ってステージの数増やして・・・などなど、キッチリしたパッケージにするならそりゃ一年くらい平気でかかってしまうのだろう。自分の感覚ではステージの切り売りなり1プレイ100円なりで4vs4のネット対戦さえできれば、それだけで十分に面白さが伝わるゲームに思えるのだけれども。

 なんといいますか、Splatoonは物凄く楽しそうに見える。FPSやTPSを敬遠してきた初心者にフックするだけの魅力はあると思う。しかしそれが来年発売となると、「それまで待ちきれない」ではなく、「来年か・・じゃあどーでもいいや」という方に心が動く。せっかく今回のE3で強いインパクトを与えたのに、発売するころには「WiiUを持っていれば遊んで損はないゲーム」の1本になってしまいそう。