今日も定時ダッシュ -34ページ目

ポケモンXY バトル

 先日、小学三年の娘が「今度ともだちとポケモンバトルをする」と言ってきた。ポケモンなんてとっくに飽きているのに今更どんな風の吹き回しだいおまえさん?と尋ねると、友達から誘って来たという。・・・なんとなく聞き捨てならん。

 娘はストーリーを一通り終えたらそれでポケモンに飽きたという、ある意味しごく真っ当な遊び方をしており、ゆえに三値はもちろん性格も道具の効果も全く知らない。そんなおぼこい娘がポケモンオタクからバトルに誘われたら、そりゃもうボッコボコにされるのは目に見えている。一計を案じた父は、とりあえず娘とポケモンバトルをすることにしました。

 娘の手持ちは加速バシャーモ、旅パのカメックス、ジガルデ(性格まじめ)。相対する父は6Vしんそく持ちカイリュー、特性フェアリースキンでハイパーボイス持ちニンフィア、ずぶとい再生力ヤドラン。結果は当然ながら龍舞げきりんで父が三タテしてしまい悔し涙にむせびなく娘。ナニもこんなもんで泣くことはないだろうにと思いつつ、「みよ、ポケモンの道は斯様に険しいのじゃ」と教え諭す父。

 一方的にボコられないように父のカイリュー(龍舞げきりん)とジバコイル(カイリュー受けのフェアリーをラスターカノンで落とす)を持たせてやろう。これなら一方的に負けることはないだろうと思ったが、ひょっとしてこっちが逆に相手をボコってしまう結果になってしまうと、次の日から友達に嫌われちゃうカモという可能性に思い至り、強すぎず弱すぎずなポケモンとは何ぞやとしばし悩んでしまいました。

 結局チョイスしたのは上述のニンフィアとマリルリ。マリルリはファイアロー対策ということと、フェアリーが二体というバランスの悪さがいかにも女児らしさを演出しており、父に入れ知恵された感じは格段に薄まっているハズ。ねむりごな+ぼうふうビビヨンも加えようと思ったが、友達相手に催眠戦法は嫌われる元になりそうで止めておく。先鋒はバシャでも出しといて、これで負けるにしてもソコソコ良い勝負をするのではなかろうか。

 その友達と遊んだ晩に父が塩梅を尋ねてみたところ、「ポケモンやらずにずっとマリオで遊んでた」という脱力感マックスの答えが。子供のやることに親が口出しても無駄なことを思い知った出来事でありました。


グランド・ブタペスト・ホテル

 ウェス・アンダーソン監督の最新作。今回もちょっと人を食ったような一風変わったテイストの映画でございました。東欧が舞台ということもあり、街の色彩や造型が日本人の目からすると非常に独特で、絵画のような雰囲気を全編にわたって楽しめました。

 カメラの動きが非常にカッチリしていて、カメラが動く際は一定の速度で横移動か上下移動か奥行き(もしくは手前)か、昨今のガチャガチャしたカメラワークとは無縁の落ち着いた撮り方をしています。このカメラワークも映画が絵画チックになっている一つの要因であります。

 ただ、個人的には絵画や紙芝居というより、一番しっくり来たのが「マルチメディア時代のアドベンチャーゲームの感覚」だったりする。MystやGadget、そしてDの食卓などパソコンやゲーム機が独特の表現形式を獲得し(それはWinでMacじゃとっくに出来てたやんけ、とか面倒くさいことは言わない)た黎明期のコンテンツの感じに非常に近かった。

 背景がカッチリしたパースなので初めて気付いたのだが、ウィレム・デフォーが案外小さいと思った。俳優の身長という、なかなか目の付け所が楽しいサイトを拝見しますと、デフォーってば169cm。怖い顔で騙されていたが自分とほぼ変わらず、こりゃ西洋人にしてみるとかなり小柄。同サイトから引用いたしますと、エドワード・ノートンが178cm、別サイトにあったエイドリアン・ブロディが185cmで、映画を見たイメージではだいたいそんな感じ。

 と思ったら、「ウィレム・デフォー 身長」でググってみたらば178cmとか出てきとるよ!いやコレ絶対違うて絶対上げ底だて。身長詐称疑惑といえばキムタクが公称176cmでトム・クルーズが170cm。あ、トムってば誤摩化してると思ったら案外正直。

WOOD JOB! 神去なあなあ日常

 男子高校生のシンクロや女子高生のジャズバンドなど、微妙なズレをうまくコメディにしている矢口史靖監督であるので、都会の若者が山林の林業研修に参加する一年を実に達者に映画にしていました。

 色々とカメラワークが目を引く映画で、長澤まさみが夜中の駅でヘルメットを外すシーンでは、まさにヘルメットを外すその瞬間だけはロングショットで撮っていて、ちょっとフェイントをかけられた感じ。伊藤英明が遠くから走り込んで来てトラックに乗るシーンをトラックの中から1カットで撮っているのは、これは純粋に伊藤英明が走る様子を映したかったのだと思う。そして何より肝心な林業のシーンでは物凄く高い木の上に立つ染谷将太や伊藤英明ごしに山を俯瞰して撮っていたりと、役者もカメラマンも相当に危なっかしいことをやっているが、単なるコメディと侮るなかれ、非常に真正面から林業の様子を撮っていました。

 愛羅武勇(この当て字だったか自信ないが)のタオルを最後にキッチリと活かしていたり、伊藤英明と優香の夫婦が夜中に二人で出かけた翌日、軒先に派手な女物のパンツが(なぜか3枚も)干してあったり、細々と挙げればキリがないほど小道具が効果的に使われている。ビリー・ワイルダーくらい上手いと思う。いやマジで。特に、染谷将太が駅に到着して早々スマホを水に落として故障させてしまう演出に感心した。この映画におけるスマホは黒沢清映画における主人公を異世界に運ぶバスと同じで、スマホが修理された途端に元の世界との接点を取り戻して、今度はかつての主人公と同じスタンスのチャラい奴らが押し掛けて来る。

 伊藤英明が手鼻をかんだり(手鼻なんて初めて見た)ばあちゃんが入れ歯を外したり長澤まさみがタオルで鼻をかんだり、なんといいますか、自分が「WOOD JOB」をとても面白いと感じたのは、ストーリーは多分原作と同じなのだろうけれど、それを表現する上で監督が入れた小道具や演出こそが映画として息づいているからではないかと思う。なんだか非常に上から目線な言い草で申し訳ないですが、どうも客の入りが少なくてすごく勿体ないので何とかしてもうちょっと話題になって欲しいと思う次第。こうなりゃお色気作戦だ。伊藤英明がふんどし一丁で女性客ノックアウトよー、長澤まさみがスカートめくられちゃうよー、優香が脱ぐよー(←嘘)。

マリオカート8

 レイトンVS逆転をクリア目前で初めからやり直している今日このごろ。WiiU版のバットマン アーカム・シティも佳境に入り手が離せない。そして更にポケモンでハイパーボイスを覚えたニンフィアを育てようと一生懸命ブラック2でイーブイの厳選を行っているため自転車に乗って行ったり来たり。そんな多忙を極めたワタクシでございますので、ハッキリ言ってゲームで遊んでるヒマなんかねーんだよ状態。

 なのに買ってしまった・・・マリオカート8。アマゾンのトランプのオマケに後ろ髪をひかれつつ、定番となりそうなのでダウンロード版を購入いたしました。

 いやもうコレは楽し過ぎる。レイトンの再プレイやイーブイの厳選が苦行じみていたのでマリカの爽快感が一層骨身に沁みすぎる。

 しかしこれだけ長いシリーズで(自分はゲームキューブのダブルダッシュからだが)、しかも基本的なゲーム性は至ってシンプルかつ全く変更されていないにも関わらず、よくまあ毎度毎度「ああ楽しい」と思わせられる事よ。これは基本となるゲーム性が完璧であるか、シリーズごとの細かい調整が神がかっているのか。

 細かい調整でいえばシリーズごとに随分違ってはいる。確かダブルダッシュは小さい子でも順位争いに絡めるように、子供が選びそうなベビイマリオに専用の強力アイテムを宛てがったりして下手でも上位に入れるようなバランスにしていたが、マリカ8はその点非常にストイックな作りで、最下位から強力なアイテムで首位に躍り出るなんて事はまず起きない。ゲームが上手い奴が結局は上位に行くように作ってある。スターを取っても前のカートと差が縮まらないという。

 それじゃあ今回のはヘタクソには楽しめないかというと、これがやっぱり楽しいのだ。ネット対戦であまりにランクの高い奴らのグループに放り込まれてあわや周回遅れの憂き目を見た時はさすがに泣いたが、それでも目まぐるしく進むレースゲーなので、つまらないと思うヒマもなく先ずはゴールを目指してしまう。パーティーゲームのように楽しめるマリカもしっかりとレースゲーらしいストイックさを持ったゲームなのだと思う。

 そしてありとあらゆるハードで似たような「なんとかカート」が出されても、結局生き残っているのはマリカだけというこの状況。パクる側はきっとものすごくカンタンに作れそうに見えるのだろうが、結局大してヒットせずに消えていくというのは、他ではマネができないエッセンスがマリカシリーズにはやっぱりあるのだ。


ディス/コネクト

 チャットが原因でカード詐欺にあった夫婦、SNSのからかいが元で自殺してしまった少年、ビデオチャットで裸を売る少年と彼を取材しようとした女性レポーター、それぞれの周囲の人を巻き込んだ3つの出来事を群像劇として描いた映画でございます。

 それぞれに昔では起き得なかった、デジタルだからこそ生まれてしまった悲劇や、しかしデジタル上で素性を隠すことで初めて生まれたシンパシーや、さりとてリアルな関係であればこそ分かり合えたりすれ違ったりと、まあ色々とややこしい心の機微がふんだんに織り込まれており、なんといいますか実に「今の映画」という感じでした。

 自分はこの映画で提示されているようなデジタルツールに居場所を見いだそうという野心はもはや無く、たとえば居酒屋で酒飲んでいる時にスマホばかりいじっている奴と一緒にいるという苦痛を克服するくらいならソイツと縁切った方がラク、などというスタンスでいたら付き合いが全く無くなってしまったという体たらく。まあそれでも付き合い続けなければいけないイマドキの若い人達って面倒やなあ、こういうオヤジに育てられた自分の娘もこの先大変だろうなあ、と映画を離れて思う次第でございます。

 自分はパソコン通信のハンドルネーム文化から入ったので、フェイスブックの実名制がなぜこうも広まったのか不思議だったのだが、デヴィット・フィンチャーの「ソーシャル・ネットワーク」を観て、アレは本来が大学のフラタニティをネット化したものだったこと、しかもハーバードのエリートと現実的にか心理的にかお近づきになれるという機会が広く受け入れられたのが元々としてあったのだ、ということで何となく腑に落ちた。けれども「ディス/コネクト」がリアリティを以て観客に受け入れられたのだとしたら、コミュニケーションをデジタル化する(この映画的には「コネクトする」ということになるのだろう)ことのネガティブな面について「コレはこのまま突き進んでいいんかいな?」という思いが募っているのではないかと思う。

 という訳で、ワタクシが一番印象に残ったイヤ~なシーンは、自殺未遂で意識不明のままの弟を心配する姉の横で「カレシから連絡きちゃったあ」とスマホを手に無邪気に喜ぶ友人の場面。もう現時点でもその友人の言動のほうを当然なこととして捉える人もいるんじゃないかと思う。なんか甥っ子が友人同士連れ立ってカラオケ行った時に、自分が歌う時以外は全員スマホいじってたとか言ってたもんなあ。そうまでしてまで何故群れるのか、やっぱりオッチャンには分かりません。