スーパーマリオ3Dワールド
アクションゲームとしてのマリオは、ここのところ3DSとWiiUで乱発気味ですが、何だかんだと言いながら子供達と遊ぶためにWiiUのほうはキッチリ買っております。
マリオブラザーズには横スクロールタイプの2Dと広いフィールドを駆け回る3Dの二系統がありますが、WiiUのローンチに出たやつは2Dで、去年の年末に出たのは3Dのタイプ。3Dはマリオギャラクシーから随分経つなあと思いながら、子供達と早速プレイしたところ。
・・・・・・・・・・・・・・・クリボーが踏めない・・・・・
コレか!?コレがアレか!?マリギャラ2の時だったか、3Dアクションが苦手な人のために任天堂が操作の仕方のDVDをわざわざオマケに付けてきて、「クリボーはこうやって踏みましょう」などの3Dアクションのためのイロハを教授していたのだが、その時は自分は「なぜにこんな分かり切ったことをわざわざ言ってるのかねえ。クリボーが踏めんって、そこまで下手クソなら何もゲームやんなくってもいいじゃんw」と、半ばネタじゃねえかと思っていたのですが。
ああ・・・コレか、コレがソレか・・・
身も蓋も無く言ってしまえば「3Dフィールドでのスティック操作に自分の指がついていけなくなった」ということで、要は年食ったというだけの話・・・だけの・・・グハッ!!(←喀血)
スーパーマリオ3Dワールドは、CMで出て来るネコマリオの他にも色々な姿にチェンジして、それぞれ独自のアクションが行えるようになっているので、色々と覚えることが沢山でそれも年寄りには敷居の高い部分でありました。というか、そもそもその時点でハードルを感じていること自体がアカンやないかと思う。ただ今小学2年の娘などは、どんなマリオでも器用にホイホイと進んで行く。それを眺めつつ、ワタクシは「NewスーパーマリオブラザーズWii」の時のことを思い出していた。
2009年12月に発売したこの2Dマリオは、ひさびさのマリオのアクションゲームということも相まって大ヒットしたゲームなのだが、そんなことはさておき、当時の子供たちは上が小学3年で下が保育園の年少くらいだったか。下の娘はまだ完全におミソだったので、少しでも難しそうになるとすぐにシャボン玉に入ってしまい、上の娘からしきりに邪魔にされていた。上の娘はそれなりにゲームが上手くなっていたが、何と言っても当時はお父さんが一番ゲームが上手かったのだ。
嗚呼、目を閉じれば瞼に浮かぶ。最後のクッパとの決戦で、子供達二人ともシャボン玉に入っている間、お父さんが決死のリモコンさばきで後ろから迫り来るクッパを躱し、見事クリアーしたあの時のことを。子供達は「お父さん頑張れー」「お父さんスゴーい」と熱い声援を贈り、ゴールに辿り着いた時は全員で喜び合ったものよ。
・・・それが今では、下の娘に「お父さん難しかったらシャボン玉に入ってね」と言われ、咄嗟にどのボタンを押せば良いか分からない父に「Aボタンを押すんだよ」とわざわざ教えてくれる。負うた子に教えられ。難しそうな所は父のキャラを担いでくれる。たわむれに父を背負いて3歩どころかドンドン進む。そんな父に「お父さんとゲームがしたーい」とまだ言うてくれる。ああ・・なんだろう目から水が。
こうなりゃもう、こういう気持ちをゲームで学んでおいて良かったと思おう。もっと年をとってくれば、もっと実生活で譲れないことでも子供に明け渡さざるを得なくなるのだ。その時のための予行練習とでも思えば、この3Dワールドで地に落ちた父の沽券も落ちるだけの価値はあった・・・ふう。やっぱりモニターが滲んでよく見えない。花粉の季節やねえ。悔しいから3Dワールド売ったろうかと思ったが、子供が大反対するのでしばらくは保留。何となく年寄りがヒガミっぽいという理屈が理解できてしまった今日このごろでありました。
マリオブラザーズには横スクロールタイプの2Dと広いフィールドを駆け回る3Dの二系統がありますが、WiiUのローンチに出たやつは2Dで、去年の年末に出たのは3Dのタイプ。3Dはマリオギャラクシーから随分経つなあと思いながら、子供達と早速プレイしたところ。
・・・・・・・・・・・・・・・クリボーが踏めない・・・・・
コレか!?コレがアレか!?マリギャラ2の時だったか、3Dアクションが苦手な人のために任天堂が操作の仕方のDVDをわざわざオマケに付けてきて、「クリボーはこうやって踏みましょう」などの3Dアクションのためのイロハを教授していたのだが、その時は自分は「なぜにこんな分かり切ったことをわざわざ言ってるのかねえ。クリボーが踏めんって、そこまで下手クソなら何もゲームやんなくってもいいじゃんw」と、半ばネタじゃねえかと思っていたのですが。
ああ・・・コレか、コレがソレか・・・
身も蓋も無く言ってしまえば「3Dフィールドでのスティック操作に自分の指がついていけなくなった」ということで、要は年食ったというだけの話・・・だけの・・・グハッ!!(←喀血)
スーパーマリオ3Dワールドは、CMで出て来るネコマリオの他にも色々な姿にチェンジして、それぞれ独自のアクションが行えるようになっているので、色々と覚えることが沢山でそれも年寄りには敷居の高い部分でありました。というか、そもそもその時点でハードルを感じていること自体がアカンやないかと思う。ただ今小学2年の娘などは、どんなマリオでも器用にホイホイと進んで行く。それを眺めつつ、ワタクシは「NewスーパーマリオブラザーズWii」の時のことを思い出していた。
2009年12月に発売したこの2Dマリオは、ひさびさのマリオのアクションゲームということも相まって大ヒットしたゲームなのだが、そんなことはさておき、当時の子供たちは上が小学3年で下が保育園の年少くらいだったか。下の娘はまだ完全におミソだったので、少しでも難しそうになるとすぐにシャボン玉に入ってしまい、上の娘からしきりに邪魔にされていた。上の娘はそれなりにゲームが上手くなっていたが、何と言っても当時はお父さんが一番ゲームが上手かったのだ。
嗚呼、目を閉じれば瞼に浮かぶ。最後のクッパとの決戦で、子供達二人ともシャボン玉に入っている間、お父さんが決死のリモコンさばきで後ろから迫り来るクッパを躱し、見事クリアーしたあの時のことを。子供達は「お父さん頑張れー」「お父さんスゴーい」と熱い声援を贈り、ゴールに辿り着いた時は全員で喜び合ったものよ。
・・・それが今では、下の娘に「お父さん難しかったらシャボン玉に入ってね」と言われ、咄嗟にどのボタンを押せば良いか分からない父に「Aボタンを押すんだよ」とわざわざ教えてくれる。負うた子に教えられ。難しそうな所は父のキャラを担いでくれる。たわむれに父を背負いて3歩どころかドンドン進む。そんな父に「お父さんとゲームがしたーい」とまだ言うてくれる。ああ・・なんだろう目から水が。
こうなりゃもう、こういう気持ちをゲームで学んでおいて良かったと思おう。もっと年をとってくれば、もっと実生活で譲れないことでも子供に明け渡さざるを得なくなるのだ。その時のための予行練習とでも思えば、この3Dワールドで地に落ちた父の沽券も落ちるだけの価値はあった・・・ふう。やっぱりモニターが滲んでよく見えない。花粉の季節やねえ。悔しいから3Dワールド売ったろうかと思ったが、子供が大反対するのでしばらくは保留。何となく年寄りがヒガミっぽいという理屈が理解できてしまった今日このごろでありました。
白ゆき姫殺人事件
湊かなえ原作なので普通のミステリではない何かしらのフックがあるだろうとは思っていたのだが、この映画のメインのネタは「犯人は?動機は?トリックは?」的なミステリでは全く無く、悪事を働いたとされる人間に対してどこまでも貶める口さがない無名の人々やマスコミの無責任な姿・・・ということなのだろう。そもそも宣伝からして「ゴシップエンターテイメント」と言ってるし。
綾野剛扮するワイドショーのディレクターは、のべつまくなしに自分の思った事をツイートする人間として登場する。これが、ツイッターもLineもしていない旧弊なオッサンとしては映画を観ていて非能に腑に落ちるものがあった。実社会にもバイト先での悪ふざけをアップして叩かれている若者がいたが、このテレビディレクター氏は、自分が思う事、行動することと、それをツイッターのようなツールでネットにアップすることとの境がそもそも存在していないのだ、という描かれ方をしている。
人間が息をすることに理由がないように(まあ「呼吸しなきゃ死ぬ」という理由はあるのだが、別に普段から「呼吸しなきゃ死んでしまう」と常に思いながら息を吸っている訳じゃない)、こういう人にとっては何であれツイートしないことに理由がない。格好良く言えば「ネットに自我の一部を仮託している」という攻殻機動隊っぽい見方もできるが、普通に考えれば脳内のアレやコレやが他人にダダ漏れなのを、その意味が全く分かっていないということでもある。自分の見立てでは件のディレクター氏は、ラーメンの採点も事件のスクープも、そのツイート内容の重さには全く意識を向けていないように演出されていた。スクープのツイートに対して「世間を騒がしたれ」という野心すら無かったのではないかと思う。それ以外のディレクターとしての行動は、スクープで得た容疑者が犯人であるという前提で取材をしているだけで、それは現実のワイドショーでもそんなもんだろう。綾野剛演じるこのディレクターは、ネットのツールに対する警戒心の無さ以外は、イメージとしてありがちな単なるゲスいテレビマンだと思う。
綾野剛が目立っている一方で女性で一番目立っていたのは被害者を演じていた菜々緒でした。そう。一応井上真央がヒロインなのだが、この映画を引っ張っていたのはゲスい男を演じる綾野剛とゲスい美人を演じる菜々緒だった。この映画に出て来る女優は井上真央の他、貫地谷しほり、蓮佛美沙子、谷村美月などなど、女優としてしっかりキャリアを進めていてしかも皆十分に美人なのだが、メイクや衣装、そして菜々緒のスタイルの良さが他との違いをクッキリと浮かばせて、映画が進むごとにビッチな本性がポンポン出て来る役柄と菜々緒の外見のイメージがこれまたピッタリ合っていて、もう彼女から目が離せない状態。あまりにも役柄に合いすぎて、素の彼女もそうに違いないと思ってしまう。ごめんなさい菜々緒さん。
自分はこの「白ゆき姫殺人事件」はゲスい、というか下品な映画だと思った。綾野剛や菜々緒の下品さは面白かったのだが、次々と流れるツイッターのログを当たり前のようにスクリーン上でスクロールさせ、しかも各々のアップの内容をわざわざ役者達が読み上げるという品の無さ。ワイドショーの再現ドラマで、事件に対する一般人の反応としてこういうツイート内容をテロップで出して、それを声優が思い入れたっぷりに読み上げる演出があるけれど、わたしゃアレが大嫌い。誰とも分からぬ何の深みもない単なるつぶやきを全体の意見としてテレビの奴らが、おそらく自分たちに都合がいいという理由で念入りに視聴者に擦り込んで来るあの嫌らしさ。もうね、いくら「ゴシップエンターテイメント」と言っても映画をワイドショーにはしないで欲しいのよ。これはもう、自分の狭量さ以外の何物でもないのだが、わたしゃ映画>>>>>テレビだと思っているので、こういうテレビの手法を安直に映画に持って来るのを「新しい演出」なんて絶対思ってやらん。
そしてこの映画はあろうことか、殺人事件をワイドショーで報じている体で、ホントにワイドショーをテレビで見るのと同じ見せ方で、テレビの何百倍ものスクリーンで下品さをまき散らしている。中村義洋監督はホントにこれで良しと思ったのだろうか。映画を見に来た客にテレビを見せる事の危険さを考えなかったのだろうか。映画監督として「お前の映画はテレビと何が違う」と言われても平気なのだろうか。じゃあなぜ映画を撮るのだろうか。映画監督こそ「映画はテレビなんぞより何千倍もスゴいんじゃ!」と言って欲しいと思っている自分がそもそも間違っているのだろうか。
テレビと全く同じにゴシップを演出することこそこの映画の特徴なのかもしれない。かもしれないが・・・役者陣の演技やドラマはとても面白かったしこの映画がまるごとテレビと同じだというワケでも勿論ないのだが・・・ぐぬぬ。
綾野剛扮するワイドショーのディレクターは、のべつまくなしに自分の思った事をツイートする人間として登場する。これが、ツイッターもLineもしていない旧弊なオッサンとしては映画を観ていて非能に腑に落ちるものがあった。実社会にもバイト先での悪ふざけをアップして叩かれている若者がいたが、このテレビディレクター氏は、自分が思う事、行動することと、それをツイッターのようなツールでネットにアップすることとの境がそもそも存在していないのだ、という描かれ方をしている。
人間が息をすることに理由がないように(まあ「呼吸しなきゃ死ぬ」という理由はあるのだが、別に普段から「呼吸しなきゃ死んでしまう」と常に思いながら息を吸っている訳じゃない)、こういう人にとっては何であれツイートしないことに理由がない。格好良く言えば「ネットに自我の一部を仮託している」という攻殻機動隊っぽい見方もできるが、普通に考えれば脳内のアレやコレやが他人にダダ漏れなのを、その意味が全く分かっていないということでもある。自分の見立てでは件のディレクター氏は、ラーメンの採点も事件のスクープも、そのツイート内容の重さには全く意識を向けていないように演出されていた。スクープのツイートに対して「世間を騒がしたれ」という野心すら無かったのではないかと思う。それ以外のディレクターとしての行動は、スクープで得た容疑者が犯人であるという前提で取材をしているだけで、それは現実のワイドショーでもそんなもんだろう。綾野剛演じるこのディレクターは、ネットのツールに対する警戒心の無さ以外は、イメージとしてありがちな単なるゲスいテレビマンだと思う。
綾野剛が目立っている一方で女性で一番目立っていたのは被害者を演じていた菜々緒でした。そう。一応井上真央がヒロインなのだが、この映画を引っ張っていたのはゲスい男を演じる綾野剛とゲスい美人を演じる菜々緒だった。この映画に出て来る女優は井上真央の他、貫地谷しほり、蓮佛美沙子、谷村美月などなど、女優としてしっかりキャリアを進めていてしかも皆十分に美人なのだが、メイクや衣装、そして菜々緒のスタイルの良さが他との違いをクッキリと浮かばせて、映画が進むごとにビッチな本性がポンポン出て来る役柄と菜々緒の外見のイメージがこれまたピッタリ合っていて、もう彼女から目が離せない状態。あまりにも役柄に合いすぎて、素の彼女もそうに違いないと思ってしまう。ごめんなさい菜々緒さん。
自分はこの「白ゆき姫殺人事件」はゲスい、というか下品な映画だと思った。綾野剛や菜々緒の下品さは面白かったのだが、次々と流れるツイッターのログを当たり前のようにスクリーン上でスクロールさせ、しかも各々のアップの内容をわざわざ役者達が読み上げるという品の無さ。ワイドショーの再現ドラマで、事件に対する一般人の反応としてこういうツイート内容をテロップで出して、それを声優が思い入れたっぷりに読み上げる演出があるけれど、わたしゃアレが大嫌い。誰とも分からぬ何の深みもない単なるつぶやきを全体の意見としてテレビの奴らが、おそらく自分たちに都合がいいという理由で念入りに視聴者に擦り込んで来るあの嫌らしさ。もうね、いくら「ゴシップエンターテイメント」と言っても映画をワイドショーにはしないで欲しいのよ。これはもう、自分の狭量さ以外の何物でもないのだが、わたしゃ映画>>>>>テレビだと思っているので、こういうテレビの手法を安直に映画に持って来るのを「新しい演出」なんて絶対思ってやらん。
そしてこの映画はあろうことか、殺人事件をワイドショーで報じている体で、ホントにワイドショーをテレビで見るのと同じ見せ方で、テレビの何百倍ものスクリーンで下品さをまき散らしている。中村義洋監督はホントにこれで良しと思ったのだろうか。映画を見に来た客にテレビを見せる事の危険さを考えなかったのだろうか。映画監督として「お前の映画はテレビと何が違う」と言われても平気なのだろうか。じゃあなぜ映画を撮るのだろうか。映画監督こそ「映画はテレビなんぞより何千倍もスゴいんじゃ!」と言って欲しいと思っている自分がそもそも間違っているのだろうか。
テレビと全く同じにゴシップを演出することこそこの映画の特徴なのかもしれない。かもしれないが・・・役者陣の演技やドラマはとても面白かったしこの映画がまるごとテレビと同じだというワケでも勿論ないのだが・・・ぐぬぬ。
良い姿勢を作るために 上半身の方針
難儀な骨盤についてはいずれまた何か上手いこと思いつけば付け足すとして、とりあえず下半身の力は入った。ということで、今後は上半身のポジションについて進める所存でございます。
尻に力を入れても腹筋が弱いままだと、腰部が後ろから前にかかる力のために反り腰の状態になり、これも腰痛の一因となります。下腹に力を入れるというのは、尻に力を入れるベクトルとは反対側の前から後ろに力をかけることで、腰の位置を真っ直ぐに保って身体を一方向に傾かないようにするという効果があります。
良い姿勢でいるということをもう少し分解して考えると、骨盤を真っ直ぐ立てた状態で尻と下腹の筋肉で骨盤を支えるように、第一に骨格を使って身体を真っ直ぐにした状態で、第二に主に体幹の筋肉を使って骨格を前後左右から支えることによって正しい姿勢を持続させるという、この二つの要素から成り立っています。
上半身も結局は背骨を正しく伸ばして、要所要所の筋肉で背骨を支えてやれば良いのだけれど、背骨というのは最も見た目に関わる長い部分なので、支える筋肉のほうも色々な箇所で引き締める必要があります。
で、これがまた結構難儀でね、自分は割と真面目に正しい姿勢を10分続けるだけで筋肉を酷使する運動になると考えており、「正しい姿勢は全身運動である」という真理を見いだした気になっている。以降、多分にスローペースですが上半身に移ります。
尻に力を入れても腹筋が弱いままだと、腰部が後ろから前にかかる力のために反り腰の状態になり、これも腰痛の一因となります。下腹に力を入れるというのは、尻に力を入れるベクトルとは反対側の前から後ろに力をかけることで、腰の位置を真っ直ぐに保って身体を一方向に傾かないようにするという効果があります。
良い姿勢でいるということをもう少し分解して考えると、骨盤を真っ直ぐ立てた状態で尻と下腹の筋肉で骨盤を支えるように、第一に骨格を使って身体を真っ直ぐにした状態で、第二に主に体幹の筋肉を使って骨格を前後左右から支えることによって正しい姿勢を持続させるという、この二つの要素から成り立っています。
上半身も結局は背骨を正しく伸ばして、要所要所の筋肉で背骨を支えてやれば良いのだけれど、背骨というのは最も見た目に関わる長い部分なので、支える筋肉のほうも色々な箇所で引き締める必要があります。
で、これがまた結構難儀でね、自分は割と真面目に正しい姿勢を10分続けるだけで筋肉を酷使する運動になると考えており、「正しい姿勢は全身運動である」という真理を見いだした気になっている。以降、多分にスローペースですが上半身に移ります。
30数年ぶりにコロコロコミックを買いまして
ポケモンXYのリザードナイト欲しさにコロコロコミックを買いました。などとサラッと書いてますが、頭から顔からキーボードを打つ指先から、それこそ全身から火を噴くほどに恥ずかしい告白をしている気分。恥のパイロキネシスたあ俺のこったい。
で。確か最後にコロコロ買ったのが、小学6年ころからジャンプに行った記憶があるので、おそらく小学5年のころ。実に30年以上前。コロコロを買い始めたのは隔月刊から月刊になって「ゲームセンターあらし」が始まったころだからたぶん小学2年か3年のころ。嗚呼、思えば遠くへきたもんだ。
そんなオッサンがひさびさにコロコロを読んで思った事をつらつら書いてみます。
その1.ゲーム枠多すぎ
もちろんドラえもんは皆が好きで読んでいたが、自分たちの間で最も話題になったマンガは「ゲームセンターあらし」だった。現在でもいくつもゲームから派生したマンガが連載されていいるのが「さもありなん」という感じ。任天堂はさておき、レベルファイブ枠が2枠もあるのが意外。任天堂枠でもカービィのマンガがあったのがさらに意外。
ただ、こういうクロスメディア展開というんでしょうか?ゲーム、コロコロ連載、カード等のグッズ販売で子供達をハメようとする手法は、大人の目で見ると一抹のえげつなさも感じる次第。レベルファイブ枠が2つあるといっても、一つは「イナズマイレブンGO」の最終回。イナイレの人気の程は分かりませんが、ゲームもマンガもアニメも同期して一気に終わるというのがオッサンの目から見ても「大人って汚ねえや」と思わないでもない。まあ自分の子供の頃はこんな売り方なかったので、人気マンガはアニメが終わってもいくらでも続いた(作者急病は除く)し、同期しないのが当たり前だという感覚が未だにある。まあこれはでも、今の子供は「イナイレ終わったから妖怪ウォッチやろうぜ」というだけの話で、特に違和感はないのかもしれない。
でもなあ・・「ヒーローバンク」。レベルファイブはまだしも子供を夢中にさせようとアイディアを絞り出している感じがするが、セガのこっちは「とりあえずクロスメディアしとけば売れるやろ」的な雰囲気があるのだが、さて。ちなみに「カセキホリダー」は「ヒーローバンク」以上に論外。いくらなんでもジャリ共も釣られんだろう。
その2.ギャグマンガが健在で嬉しい
自分がコロコロを読んでいた頃のギャグマンガの代表といえば「ゴリポン君」である。異論は認める。wikiを見ると自分が読んでいた丁度その頃に連載されていたマンガだったと今知った。ゴリポン君の破天荒ギャグの系譜は脈々と続いているようで(さすがにウンコネタは無いが)、「ケシカス君」には何度も笑ってしまった。しかし残念なことに「おじゃまユーレイ君」のエッチ路線は潰えたか。こだまちゃんってあんなカラダで小学5年生だったんですって。
その3.まさかのドラえもんとスポ根モノの合体
昔は「リトル巨人君」や川崎のぼるの剣道マンガなどなどスポーツマンガも一定数あったが、今はそれがドラえもんが主人公の野球マンガ「ドラベース」という正統スポ根モノとはちょっと違う系統に流れてビックリ。少年マンガではスポーツモノは健在なのに、どうしてコロコロでは途絶えちゃったんだろう。小学生どもはホントにゲームばっかりやりおってからにプンプン。
そういえば「ドラベース」に出て来るのは正確にはドラえもんではなく球えもんというらしい。それが証拠にドラえもんではネズミにかじられた耳がちゃんとある。しかし、するってえと何だ?「ドラベース」の「ドラ」って一体何を指しているのだ?と屁理屈をこねる面倒なオッサン。
その4.そしてドラえもん
自分が子供のころはドラえもんが大増100ページぐらい掲載されていて、他にもハットリ君、パーマン、オバQなどなど、コロコロといえば藤子不二雄先生のマンガがたっぷり読める雑誌だった。まあ他の雑誌からの再掲が多かったのだが。しかし藤子・F・不二雄先生も鬼籍に入られ、だんだんと「売らいでか」と紙面を要求するレベルファイブとかに座を明け渡し、今では上述の「ドラベース」と巻末のドラえもんの短編が再掲されているというだけの状態で、この、藤子先生に対するウェイトの変わりっぷりが一番寂しかった。まあコレこそ仕方が無い話なんだけれど。
コロコロはゲームだのビックリマンだのビーダマンだのと男児の遊びやカルチャーを牽引してきたが、やっぱり一方ではずっと「ドラえもんの雑誌」であり続けているのだろうとも思う。集中線やダイナミックなコマ割りでガチャガチャした現在の主流のマンガと比べ、藤子先生のお描きになられたドラえもんの安定したコマ割りと見やすい絵柄で何とまあ心の落ち着くことよ。藤子不二雄って決して文部省推薦の安心の子供向け作家じゃなくて結構な毒もあるんだけどね、ただ、その毒も含めて当時子供だった自分はドラえもんを楽しんでいたし、今の子供もそうなんだろうと思う。などと強引にまとめつつ、コロコロを一通り読み終えて一息ついたのだった。しかしコロコロってこんなに小さな雑誌だったのね(そのぶん分厚いが)。大人になって手に取ってその小ささに一番ビックリしたかもしれない。
で。確か最後にコロコロ買ったのが、小学6年ころからジャンプに行った記憶があるので、おそらく小学5年のころ。実に30年以上前。コロコロを買い始めたのは隔月刊から月刊になって「ゲームセンターあらし」が始まったころだからたぶん小学2年か3年のころ。嗚呼、思えば遠くへきたもんだ。
そんなオッサンがひさびさにコロコロを読んで思った事をつらつら書いてみます。
その1.ゲーム枠多すぎ
もちろんドラえもんは皆が好きで読んでいたが、自分たちの間で最も話題になったマンガは「ゲームセンターあらし」だった。現在でもいくつもゲームから派生したマンガが連載されていいるのが「さもありなん」という感じ。任天堂はさておき、レベルファイブ枠が2枠もあるのが意外。任天堂枠でもカービィのマンガがあったのがさらに意外。
ただ、こういうクロスメディア展開というんでしょうか?ゲーム、コロコロ連載、カード等のグッズ販売で子供達をハメようとする手法は、大人の目で見ると一抹のえげつなさも感じる次第。レベルファイブ枠が2つあるといっても、一つは「イナズマイレブンGO」の最終回。イナイレの人気の程は分かりませんが、ゲームもマンガもアニメも同期して一気に終わるというのがオッサンの目から見ても「大人って汚ねえや」と思わないでもない。まあ自分の子供の頃はこんな売り方なかったので、人気マンガはアニメが終わってもいくらでも続いた(作者急病は除く)し、同期しないのが当たり前だという感覚が未だにある。まあこれはでも、今の子供は「イナイレ終わったから妖怪ウォッチやろうぜ」というだけの話で、特に違和感はないのかもしれない。
でもなあ・・「ヒーローバンク」。レベルファイブはまだしも子供を夢中にさせようとアイディアを絞り出している感じがするが、セガのこっちは「とりあえずクロスメディアしとけば売れるやろ」的な雰囲気があるのだが、さて。ちなみに「カセキホリダー」は「ヒーローバンク」以上に論外。いくらなんでもジャリ共も釣られんだろう。
その2.ギャグマンガが健在で嬉しい
自分がコロコロを読んでいた頃のギャグマンガの代表といえば「ゴリポン君」である。異論は認める。wikiを見ると自分が読んでいた丁度その頃に連載されていたマンガだったと今知った。ゴリポン君の破天荒ギャグの系譜は脈々と続いているようで(さすがにウンコネタは無いが)、「ケシカス君」には何度も笑ってしまった。しかし残念なことに「おじゃまユーレイ君」のエッチ路線は潰えたか。こだまちゃんってあんなカラダで小学5年生だったんですって。
その3.まさかのドラえもんとスポ根モノの合体
昔は「リトル巨人君」や川崎のぼるの剣道マンガなどなどスポーツマンガも一定数あったが、今はそれがドラえもんが主人公の野球マンガ「ドラベース」という正統スポ根モノとはちょっと違う系統に流れてビックリ。少年マンガではスポーツモノは健在なのに、どうしてコロコロでは途絶えちゃったんだろう。小学生どもはホントにゲームばっかりやりおってからにプンプン。
そういえば「ドラベース」に出て来るのは正確にはドラえもんではなく球えもんというらしい。それが証拠にドラえもんではネズミにかじられた耳がちゃんとある。しかし、するってえと何だ?「ドラベース」の「ドラ」って一体何を指しているのだ?と屁理屈をこねる面倒なオッサン。
その4.そしてドラえもん
自分が子供のころはドラえもんが大増100ページぐらい掲載されていて、他にもハットリ君、パーマン、オバQなどなど、コロコロといえば藤子不二雄先生のマンガがたっぷり読める雑誌だった。まあ他の雑誌からの再掲が多かったのだが。しかし藤子・F・不二雄先生も鬼籍に入られ、だんだんと「売らいでか」と紙面を要求するレベルファイブとかに座を明け渡し、今では上述の「ドラベース」と巻末のドラえもんの短編が再掲されているというだけの状態で、この、藤子先生に対するウェイトの変わりっぷりが一番寂しかった。まあコレこそ仕方が無い話なんだけれど。
コロコロはゲームだのビックリマンだのビーダマンだのと男児の遊びやカルチャーを牽引してきたが、やっぱり一方ではずっと「ドラえもんの雑誌」であり続けているのだろうとも思う。集中線やダイナミックなコマ割りでガチャガチャした現在の主流のマンガと比べ、藤子先生のお描きになられたドラえもんの安定したコマ割りと見やすい絵柄で何とまあ心の落ち着くことよ。藤子不二雄って決して文部省推薦の安心の子供向け作家じゃなくて結構な毒もあるんだけどね、ただ、その毒も含めて当時子供だった自分はドラえもんを楽しんでいたし、今の子供もそうなんだろうと思う。などと強引にまとめつつ、コロコロを一通り読み終えて一息ついたのだった。しかしコロコロってこんなに小さな雑誌だったのね(そのぶん分厚いが)。大人になって手に取ってその小ささに一番ビックリしたかもしれない。
ラッシュ/プライドと友情
こんなに満足して「映画を観たーーーーっ!!!」」と思えるのもホントに久々のことでございました。評判は良さそうだがなかなか機会が無くて見逃してしまうかも・・まあしょうがないか、別にF1に興味ないし、と思っていましたが、これはホントに劇場で見られて良かった。ああ良かった。
過去にも実話を元にした映画を何本も手がけているロン・ハワード監督ですが、この映画で取り上げられた1976年の二人のF1ドライバーの戦いも、演出上の誇張や映画ならでわの解釈があるのでしょうが、物語としては完全に実話とのこと。これはもう、今まで映像化されなかったことが不思議なくらい映画向きのネタで、よくぞこの脚本をロン・ハワードに持ち込んだと思う。
バブル時代を彩る風俗のひとつであるF1ですが、あのころの潮流に見事に乗り損なったワタクシは当然F1も取りこぼしていたのですが、そんな自分の目から見てもレースシーンの物凄い臨場感にノックアウトされっぱなしでした。これがF1好きな人だったら座ったまま失禁してもおかしくない出来になっています。映画自体のテンポもレーシングカーの疾走感に合わせたように細切れにされたシーンがマッハで進み、天才肌でカリスマチックなジェームス・ハントと、努力家で頭脳的なニキ・ラウダの、これまた事実にしては出来過ぎた二人のキャラクターの対比とそれぞれのドラマがみっちりと織り込まれています。
演出のテンポの良さは、まあ全編そうなのですが、自分が特に感心したのが、ジェームス・ハントが離婚して意気消沈(?)するも、フライト・アテンダントのネエちゃん(←御丁寧にミニスカートからのぞく足からフレーム・インしてくる)と飛行機のトイレでアバンチュール。その時の上下運動がレーシングカーのエンジンのV気筒のピストンに繋がってレーススタート!調子を取り戻したハント復活!!の見事に流れるようなシーンでありました。この間約3分。
全編こんな感じでアレよアレよと進んで行き、ショッキングなシーンも感動的なシーンも自分の中で咀嚼する前に次に行ってしまい、映画が終わってエンドクレジットの音楽に耳を傾けつつ、これまでのシーンを反芻して感動と満足が一気にドカーンと押し寄せるという、こんな体験はそうそう出来るものではありませぬ。黒いバックにひたすら見たくもないテロップを流す芸のないエンドクレジットが大嫌いなワタクシでありますが、この映画では自分はホントに満足してボーッとしていたので、いつのまにか客電が点いて映画の世界から現実に戻るという希有な感覚に陥りました。
過去にも実話を元にした映画を何本も手がけているロン・ハワード監督ですが、この映画で取り上げられた1976年の二人のF1ドライバーの戦いも、演出上の誇張や映画ならでわの解釈があるのでしょうが、物語としては完全に実話とのこと。これはもう、今まで映像化されなかったことが不思議なくらい映画向きのネタで、よくぞこの脚本をロン・ハワードに持ち込んだと思う。
バブル時代を彩る風俗のひとつであるF1ですが、あのころの潮流に見事に乗り損なったワタクシは当然F1も取りこぼしていたのですが、そんな自分の目から見てもレースシーンの物凄い臨場感にノックアウトされっぱなしでした。これがF1好きな人だったら座ったまま失禁してもおかしくない出来になっています。映画自体のテンポもレーシングカーの疾走感に合わせたように細切れにされたシーンがマッハで進み、天才肌でカリスマチックなジェームス・ハントと、努力家で頭脳的なニキ・ラウダの、これまた事実にしては出来過ぎた二人のキャラクターの対比とそれぞれのドラマがみっちりと織り込まれています。
演出のテンポの良さは、まあ全編そうなのですが、自分が特に感心したのが、ジェームス・ハントが離婚して意気消沈(?)するも、フライト・アテンダントのネエちゃん(←御丁寧にミニスカートからのぞく足からフレーム・インしてくる)と飛行機のトイレでアバンチュール。その時の上下運動がレーシングカーのエンジンのV気筒のピストンに繋がってレーススタート!調子を取り戻したハント復活!!の見事に流れるようなシーンでありました。この間約3分。
全編こんな感じでアレよアレよと進んで行き、ショッキングなシーンも感動的なシーンも自分の中で咀嚼する前に次に行ってしまい、映画が終わってエンドクレジットの音楽に耳を傾けつつ、これまでのシーンを反芻して感動と満足が一気にドカーンと押し寄せるという、こんな体験はそうそう出来るものではありませぬ。黒いバックにひたすら見たくもないテロップを流す芸のないエンドクレジットが大嫌いなワタクシでありますが、この映画では自分はホントに満足してボーッとしていたので、いつのまにか客電が点いて映画の世界から現実に戻るという希有な感覚に陥りました。