今日も定時ダッシュ -27ページ目

零 濡鴉の巫女 戦闘について

 WiiUのタブコンを射影機に見立てるというのは、これはもう零をWiiUで作るという時点で「これ以外にないだろう」と誰もが思う要素ですが、自分も頭では分かっていつつも、この非対称なゲームプレイとやらになかなか慣れずに難儀してしまいました。

 何の事は無い、戦闘が始まったらタブコンのモニタのほうを見るってだけなんだけど、コレがオッサンにはなかなか厳しい。お若い方は「こいつ何言っとるんだ」と思うでしょう。自分でもそう思わないでもないのだけれど、戦闘が始まったらモニタを構えて、モニタに映る霊片を捉えるべくタブコンの傾きを微調整してシャッターチャンスを狙うという要領が呑み込めたのが実はゲームの終盤あたり。

 しかしこれが呑み込めると戦闘が格段に楽しくなってきて、複数の霊との戦闘ではいかに被写パーツを多く捉えるかの血湧き肉踊る攻防がそこに。蓮操作でシャッターチャンスの8連写が激アツ。フェイタルフレームも短い時間内にシャッターを切って叩き込むのが物凄く快感で、後半の戦闘はそれまであれほど怖かった霊がエブリバディカモーンな状態に。

 しかし戦闘の面白さに気付いてしまうと怖さは一気に無くなってしまうので、終盤でようやく射影機の慣れたってのはとても真っ当にこのゲームを楽しんだ証に違いない。という我田引水も含めてこういうのを老人力というのだろうと思った次第でございます。

物語る私たち

 この映画を監督したサラ・ポーリーは、おそらく「死ぬまでにしたい10のこと」のヒロインというのが一番通りが良いと思いますが、個人的にはテリー・ギリアムの最高傑作(と自分だけが思っている)「バロン」に出てきた小さな女の子のイメージがいまだにある。あの映画はまだ十代のユマ・サーマンが脱いでてねえ・・・というのは今回の映画とは全く関係ない。

 アガサ・クリスティの「象は忘れない」というミステリで、昔起こった事件について関係者の証言を集めて解決していく・・・という話があるのだけれど、「物語る私たち」のアプローチはそれにとてもよく似ている。サラが十一歳のときに死んだ彼女の母親について、彼女の兄弟や父親、両親の友人といった身近な人たちにインタビューをしていくことで亡き母親の姿を浮かび上がらせている・・・という映画ではありませんでした。

 インタビューの過程で母親の人となりを浮かび上がらせるよりも前に、サラの本当の父親が別にいるという本題が入り込んで、じゃあそのホントの父親って誰なのよ、と「父をたずねて三千里」みたいに探し当てて、嗚呼、あなたが本当のお父さん、、と感涙にむせび泣く映画・・・でもありませんでした。

 この映画はドキュメンタリーの体を装ってはいるが、インタビューではない箇所について、特にサラ・ポーリー自身が映り込んでいるシーンは基本的に再現ドラマであるし、家族のインタビューからひょんなことで死んだ母親の秘密が出て来て演繹的に一本の映画に発展したのではなく、母の秘密も本当の父親が誰かも育ての父親がサラが本当の娘ではないということも知っている、要は全部分かっている状況の上で、帰納的にインタビューを行い、ドラマを撮影し、予め考えられた言葉でもって育ての父がナレーションを入れている。「物語る私たち」はサラが全てをコントロールした上で作られた映画である。おそらく予想外だったのは映画の最後の最後に出て来たある男の告白だったのだろうと思う。

 そうなると、監督としてのサラ・ポーリーの視点というのが気になってくる。育ての父がインタビューの中で「このインタビュアー(サラのこと)はサディスティックだ」というセリフがあるのだが、確かに実の娘と思ったら血は繋がっていなくて、「あんた嫁さんに不倫されて託卵されてどんな気持ち?ねえ今どんな気持ち?」とその当の娘に執拗に訊かれてるんだから、同じ男の身である自分としては、死んでもこの父親と同じポジションには立ちたくないと心底思ってしまった。

 もう一つ、サラ・ポーリーがこれを本当に母親の秘密に関するドキュメンタリーとして撮ろうとしたのなら、サラ自身の考えを述べる言葉が決定的に足りない。実の父との映画の作り方をめぐっての意見の対立はあるものの、兄から母親への意見を求められるシーンでは、上手い具合に尻切れトンボで終わってしまう。おそらくそこには意図的な韜晦がある。

 サラ・ポーリーは結局何を思っていたのか、それは一部のシーンで語るのではなく、この映画全てで表現しようとしたことだと思う。そしてそれが映画のタイトルである「物語る私たち」に繋がっている。この映画はドキュメンタリーではなく登場人物たちがそれぞれの視点で述べた物語の断片であり、そしてその全てがサラ・ポーリーの物語なのだ。ああややこしい。
 
 自分が感じた彼女の物語というのは、そういう複雑な出自であり、彼女自身が育ての父親に対しての苦悩の元凶であるとしても、それでも家族への、とりわけ父親への思いの深さを映画に込めたかったという思いである。インタビューシーンなんて単調な絵ヅラだし、セリフが多くて字幕を追うのも大変だったが、それでも終始この映画を見ることが心地よかったのは、彼女自身が家族の中にあって幸せであることを自覚しているからだと思う。母親についてのコメントをサラ自身がしなかったのは、家族への思いと共に、母親への思いも映画の全編にわたって織り込まれているからだ。

 しかしサラ・ポーリーは相当頭の良さそうな人なので、そういう愛情の深さをドキュメンタリー風に見せることからフェイクである可能性もありそう、と腹黒いワタクシは思ってみたりする。

零 濡鴉の巫女 恐怖の配分について

 現在は十二ノ雫を終えたところ。インチキ気味に攻略サイトをみると、あと少しでゲームクリアな感じです。

 で、現時点でウッカリしたことを言ってしまうと外れた場合に恥ずかしいのだが、そこを敢えて申し上げますと、このゲームは中間のちょっと手前あたりが一番恐怖演出に凝っている。プレイした感覚だと、ゲームを初めて操作にちょっと慣れたあたり、全体のストーリーはまだ分からず、序盤から中盤で伏線を張っているパートにあたる。具体的には四ノ雫と五ノ雫が一番怖かった。

 物凄く欲を言えば、ホラーゲームならば終盤になるにつれて謎も恐怖も膨らんで最後は一体どうなるの?早く知りたいけど進めるのが恐ろしくてゲームができない、ああ知りたい、でも怖い、知りたい、怖い、というダブルバインドにプレーヤーを嵌めることこそ最上なのだろうと思う。そういう意味ではこのゲームは惜しいと思うが、けれども1本のゲームプレーを通して恐怖を持続させることは神懸かり的に難しいことだとも思う。早い話がやってるこっちだって大抵最後のほうはオバケにも慣れる。

 とうことで、プレーヤーがゲームに慣れて日上山が自分の庭みたいに思えてくる前に、プレーヤーをたっぷりと怖がらせるというのは、どこで怖がらせるのが一番効果的かをしっかり考えた上でデザインしたのだと思う。中盤に比べると、後半の舞台は以前に行ったことのある所だったり、照明が妙に明るくておどろおどろしい雰囲気でなかったりと、プレーヤーを怖がらせるよりも、霊とのバトルやストーリー展開などのゲームプレイの面白さで引っ張ろうとしているのが非常によくわかる作りになっています。

零 濡鴉の巫女 どっち?

 このシリーズは「月蝕の仮面」に続いて、男性キャラもプレーヤーキャラとして操作でき、各章ごとに操作できるキャラクターが決まっています。

 で、この売れない小説家という設定の男キャラには住み込みの書生のような若者がサブキャラにいて、こいつがワタクシとゲームプレイを見ていた二人の娘に軽く衝撃を与えました。

 父「こいつ・・・・どっち?」
 上の娘「女だよね?・・・・でもどっち?」
 下の娘「男の子?・・で、どっち?」

 ここは父親の威信に掛けて正しく判断しなくてはなりますまい。このキャラは顔立ちは女の子だが細身の体つきは線の細い男っぽく、まあアニメやゲームなら普通に少年の範疇である。何より「巨乳にあらずんば女にあらず」と、だんだん自分がものすごい差別主義者みたいに思えてきたが、コレを言ってるのは俺じゃないよ、(元)テクモが全身全霊で発しているテレパシーをキャッチしてるだけで、とにかくこのキャラはオッパイが無いから男ということにして九分九厘間違いなかろうて。

 しかし男ということにしてもちょっと問題アリで、女同士では見られなかった妙な雰囲気が発せられているよう。早い話がコイツらデキてるっぽい。書生の男の子の微妙な表情の付け方がとても思わせぶりで、コレはコレで子供と一緒に見てていいものかと父はタブコン抱えてしばし困惑。コレは乙女ゲーの市場でも鳴らすコーエー側の腐女子に対する釣り餌とみた。書生とか庭師とかの単語だけでずっと妄想に浸れちゃう女がいるんだよきっと。しかしこのキャラを連射で撮りまくる場面では、オバケ退治とは別の意味でドキドキしてしまっている自分もいたりして。ゲームといえども男同士の惚れた腫れた的な雰囲気を味あわされるというのは、オッサンには非常にストレスの貯まるひとときでありました。

 しかしほどなくこのキャラは女の子だったということが判明してストレス一気に解消。ふう。これで落ち着いてゲームができるよ、と思いつつ、誤解していた間の自分の感情がちょっと新鮮で珍しい体験をした気分でした。

零 濡鴉の巫女 ちょっとホモソーシャルな感じ

 先日公開された映画の「零」においてゲームから唯一引き継いだ要素が、女の子同士の秘め事めいた関係性というゲームとは離れたポイントでした。てなコトを「劇場版 零」の感想で書いたのですが、今作もまあ濃密に、というかミッチリと、というべきか、いやいやムッチリとと表現したいオッサンのワタクシでございます。何がムッチリかというと、ヒロインの十代の少女と彼女の先達となる女性の性的なニュアンスを伴わないスキンシップ描写でございます。

 霊退治という予想外の危険にさらされ呆然とするヒロイン、そんな彼女に「ごめんなさい」と後ろからヒシと抱きしめる巨乳美女。そこにはまあヒロインが精神的に不安定だとか色々なドラマがあって、そういう感情を抱えた上での、こんな所に連れて来てしまってゴメンナサイという後悔だったり、結果幽霊を退治できて良かったという安堵だったりと色々と読み取れるのでありますが。そんなコトよりワタクシが第一に思ったこと。

 スゴく当たってるよなー、オッパイが背中に。

 オッパイが背中に当たる。とりあえず感情的なことは脇に置いといて、満員電車ではからずも背中にオッパイが当たって何とも複雑で陰影深い味わいタイムを過ごした男性諸氏は多かろうと思う。一ノ雫の問題のシーンは少なからぬ男性に対して背中にオッパイが当たる感触という過去の思い出をまざまざと蘇らせたに違いない。

 ワタクシはそのような劣情をもよおす下卑た人間ではないのですが、ウチの向いの家の対面に住んでるオジさんがそんなコトを語っていましたよ。